伊賀市の県道39号にある出合橋。写真のとおり、途中の「島」を挟んで二つの橋がかかる。「出合」というのは川の合流点によくある地名で、ここも写真右で二つの川が合流している。写真は東側から。 東側の橋は「出合大橋」。立派な親柱が備わる。左が「出合大橋」、右が「であひおおはし」。渡るのは前深瀬川。川上ダムの下流で木津川に合流し、さらに淀川となって大阪湾まで下っていく。 出合大橋の西側。右側の親柱が手ブレしてしまっているけれど、書かれていることは同じ。 西側の橋は「出合橋」と、「大」が抜けている。こちらのほうが少し短い。親柱は左は「出合橋」、右は失われている。渡っているのは前深瀬川の支流である床並川。 西側。やはり左の親柱は失われている。右は「であひばし」。 出合大橋側から。このように、橋のすぐ下流で二つの川が合流している。合流後に長い橋を一つ架けるよりも、二つの川を隔てる「島」を利用して短い橋を2本架けることが合理的だったのだろう。 PR 国道325号の新阿蘇大橋。数百メートル上流に架かっていた上路アーチが熊本地震で崩落し、新たにこの地点に架けられたもの。渡るのは黒川、手前が左岸で対岸が右岸。対岸の橋脚に向けてジグザグに道がつけられているが、地震前には畑があったところ(崩れていない)を削ったもの。これは橋のたもとの展望所から。 すぐ下流にかかる長陽大橋展望所(後述)から、見上げる形で。こちらのほうが対岸の橋脚に近く、橋脚を取り巻くすごさが迫ってくる。 上部。法面は、まるで90年代半ばのポリゴンのよう。橋脚の根本は、まるで積雪地の樹木の根開きのようだ。 柱状節理を割って立つ橋脚。 * * *
阿蘇長陽大橋。冒頭の写真を撮った、新阿蘇大橋たもとの国道沿いから見下ろす。写真右手から左手に流れる黒川は、上をこの橋を渡した直後、左の谷筋の白川に合流する。写真左奥にあるアーチ橋は、南阿蘇鉄道の、やはり被災して架け替え中の第一白川橋梁。 こちらは阿蘇長陽大橋のたもとにある展望所から。 石碑がある。 ダムとなる 里へ名残りの 河鹿きく ダムとなる 予定の宿に 年惜しむ さん 現在、第一白川橋梁の下流に、立野ダムの建設が進められている(別項)。 阿蘇長陽大橋は、平成29年度(2017年)の土木学会田中賞を受賞している。そのプレートもある。 新潟県の信越本線笠島駅の西にある、線路下の狭い通路。名称は「笠島函きょ」。 これは海側からみたもの。 銘板は錆が進行している。陽刻は保たれているが、時間の問題か。 笠島函きょ 設計 日本国有鉄道信濃川工事事務局 施工 清水建設株式会社 設計荷重 KS-18 着手 昭和39年9月10日 しゅん功 昭和40年9月30日 梁を見ると、小さなレールが埋め込まれている。時期的に、信越本線複線化工事でこの函渠が作られたのだと思うが、その時に作業に使われていたトロッコかなにかだろうか。 米山までの複線化は昭和43年9月11日。青海川までは1年早く昭和42年6月19日。この函渠の竣功からいささか空くが、そういうものだろうとも思う。 こちらは山側から。複線化開通時期とはあわないながら、この函渠は複線の路盤造成と同時だということがわかるだろう。梁に飛び出しているのはレールではなくボルトの軸(ネジ山側)。 銘板は海側と同じと思われるが、錆による劣化がひどい。 1965-9の銘板。 spl.tx 丸田祥三さん 豊平峡ダムの堤体へは、壁伝いではなく、なぜか少しだけショートカットする橋を渡る。その橋の存在感が、切り通しにしたガリバートンネルのようだ。上部が左右に開き、向こうに行くにしたがって高さを減じている。 サイドビューを見ても、おとなしい印象しか持たないだろうが、冒頭の写真をもう一度、その間に立っている車止めポールの高さとともに見て欲しい。このコンクリートの壁が、いかにマッス感を出しているかがわかるだろう。 これは、異世界に行くための唯一の通路、という意味合いを持たせているのだろうか。それとも、単に、橋台を設置するのが難しく、載せ架けるようにしなければならなかったのだろうか。 同日追記: FBで「堤体にさしかけてある片持ちでは?」とご指摘があったので検索したところ、そのとおりでした。堤体は位置が変動するということもあり、堤体側には支承はありません。橋長53mの片持ちってすごいですね。国内初とのこと。フィンバックプレートが開いているのは、工法のためかもしれません。荷重は歩道橋用の群集荷重なので、比較的華奢に見えるのでしょう。下記にリンクを貼りますが、いずれも意匠については触れていないのが、「土木」らしい…。 ・カムイ・ニセイ橋(三井住友建設・PDF) ・片持ち構造PCフィンバック橋の施工(プレストレストコンクリート技術協会 第17回シンポジウム論文集・PDF)
トヤ沢川 鋼製セル式堰堤が作られるきっかけとなった土砂災害は、国道353号を通り越して、(山から見て)その向こうになった旧道にも及んだ。この旧豊原橋は、その旧道にかかるものだ。
路面を繰り返し盛ったからだろうか。欄干のかなり上の方に路面の高さがある。 左岸川の埋もれた親柱、右側には「豊(原橋、と推測する)、左側には「竣功 昭和三十三年十二月」とある。 反対側は「豊原橋」とはっきり読める。欄干横にあうのは水道管だろうか。 左側には「竣功 昭和三十三年十二月」とあり、先と同じだ。この橋の銘板は2組4枚しかないのだ。 これが現在の国道353号豊原橋。ずいぶんと両端で高さが違うものだなあ。 |
カレンダー
最新記事
(01/01)
(12/31)
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
(10/22)
(10/21)
(10/20)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|