秩父鉄道の撮影地として有名な安谷川橋梁(あんや)のすぐ横に、国道140号の旧道の「安谷橋」がある。ご覧のとおり、いささか複雑な見た目を擁するプラットトラスだ。開通は1923年(大正12年)。 見た目が複雑なのは、当初のシンプルなプラットトラスから、2回にわたって補強がなされているためだ。そもそも、トラスが2組ある。そして、下弦の下に台形の補強がある。 「歴史的鋼橋集覧」によれば、当初、床版は杉板だった。後年、床版は鉄筋コンクリート製になるが、交通量の増大への対処だろう、1958年には、さらなる補強のためにトラスの内側にトラスを追加した。上の写真で見ると、当初からのトラスはC型のチャンネル材をレーシングで柱状にしているが、追加されたトラスは溶接で柱状にしている。 1958年のトラスは基本はリベットで組み立てられているが、一部にはボルト留めのところもある。これは、1974年にフィンク補強(下部に設置する、引っ張りに対する補強)を施す際にガセットごと交換されたものだろう。 そのフィンク補強。木立に隠れて全貌は見えないのだが、トラス下弦の両端に◥___◤という形で三角形の脚を出し、その頂点を鋼棒(だと思う)で結んでいる。トラス下弦は引っ張りの力がかかる(両端を支点に、中央部を押し下げるイメージ)のだが、それに抗するものがよくぞこんな細い棒で…と思う。鉄が引っ張りに強いということが視覚化されている。 4面のトラスがそれぞれ補強されている…はずなのだが、内側の向こう側、つまり手前から数えて3面目の補強の鋼棒がない。よく見ると、写真右に、下部に垂れ下がっている鋼棒が見える。破損したままになっているのだ。 * * *
戦前の鉄道車両では、台枠下部にこういうトラス補強がなされていて、トラス棒(と鉄道用語では呼ぶ)にはターンバックルがついていて、台枠が垂下してくるとそれを締めて戻した。この車両(クエ9112)の製造は1923年、安谷橋と同じである。 (写真はパブリックドメインだが、出典はこちら) PR 小島橋 魚梁瀬森林鉄道と同じトラスだろうか。 「軽自動車以下通行可」。どういう基準なのだろう。魚梁瀬森林鉄道は5トン機は走っていたはずだから、重量制限ではなくこの先の道路の幅による車幅制限と考えたほうが自然だろうか。 この先は路盤跡が車道になっていて、実際に走ってみると、たしかに行き違いができる場所はない。 国道112号を走っていると、美しいプラットトラスが目に入った。しかし、国道は右カーブの別の橋を通っている。手前の交差点名は「新名川橋」。つまりプラットトラスは旧道だ。橋梁史年表によれば、橋長66.1m。216フィートクラスだ。 渡るのは、朝日連峰に発する赤川(※地形図での表記。後述)。月山道路沿いの梵字川のほうが本流に感じてしまうが、この赤川が本流だ。写真奥(トラス側)が上流、手前(新道側)が下流。 右岸。旧道は、新たな床版とともに歩道となっていた。新道にも歩道はある。ということは、あえてこのトラスを残しているのだろう。右のみ、親柱がある。それを見ると… 「大鳥川」とある。赤川が梵字川と合流する地点(ここ)より上流を「大鳥川」というのだが、地形図では「赤川」になっている。 端柱、縦に張られた板は補強の部材。左側の端柱にある銘板は、こう。(原文はすべて右書き) 東京 株式会社 桜田機械製造所 昭和五年製作 トラス端部を見ると、きちんと落橋防止の地震対策がなされている。格点にガセットをボルト留めし、そこから橋台にチェーンが延びている。 歩道の上流側と下流側。下流側には、U字を伏せた形の金属の覆いが、しっかりとした新しい床版の上に延びている。なんだろう? 左岸側。こちらには親柱がある。左には「名川橋」、右には「昭和六年六月竣功」。 しかし、左岸の特徴は、その取り付き道路である。 このように、左岸と橋は、道路をほぼ直角にしてつないでいるのだ。往時はさぞかし渋滞したことだろう。 では、いつころ新道に切り替わったのかというと… 新名川橋の銘板には「昭和49年11月完成」とある。意外に古い。 * 上述の、名川橋右岸のしゅん功次の写真が、東北芸術大学のアーカイブスにあった。 やはり、左岸は急カーブになっていたようだ。 |
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