広島県北部の帝釈峡にあるペンシルバニアトラス(分格プラットトラス)。スパン82.9m。1930年架設、当時としては非常にでかい。これは遊歩道から。
南側、県道25号からも見えるが、樹木に邪魔されて全体は見えない。 この橋は、もともと県道25号の「紅葉橋」だったのだが、掛け替えの際、その歴史的価値を認められ、ここまで台船に乗せて移設したもの。遊歩道との高低差が、このような形になって表れている。 親柱。西側(右岸)、左は「帝釈川」、右は「神龍橋」。左の親柱の頂部には「登録有形文化財」(左)、「平成14年度選奨土木遺産受賞」(右)のプレートが載る。親柱が元々のものなのか、新たに設置されたものなのかは私はわからない。 ペンシルバニアトラスはたいてい規模が大きいので、近づくと大味に感じるのだけれど、この神龍橋は幅が狭い(幅3.6m)ので、構造のおもしろさというか、かっこよく見える。 中央部、クルマの行き違い用として当初からあったものと思うが、幅が広くなっている。 そこに入ると、下弦、横桁、見える。 左岸(東側)。 左側が「帝釈川」、右側が「神龍橋」。通常、仮名や竣工年が書かれるので、少なくとも銘板は新しいものだと思う。 左側の端柱の裏には補強が入っている。他の部分と明らかに鋼材とボルトが異なる。 左岸側の端柱に、製造銘板がある。 昭和五年十月
松尾鉄骨橋梁 株式会社
製作 * * *
帝釈峡のパンフレットにもこの神龍橋について書かれているのだが、残念ながら「単純トラス橋」「~最長スパンを誇ります」と書かれている。このパンフレットを見るのは、橋の構造の知識などまったくない一般人、学校のハイキングで訪れる子供達である。パンフレット制作者はそういうことを意識しなければならない。 PR 国道2号は岩国市から錦川沿いに遡る。それまでの幹線道路の雰囲気から大きく変わり、センター黄色ラインの、川端を淡々と走る2車線の道となる。これが国道2号かと思うほど、行き交うクルマもほとんどない。まもなく川沿いの道は国道187号として分かれ、そのまま川・鉄道とともに遡る。これだけ豊かな水量の川だが、沿道にはまとまった集落は見えない。 かつての行政区域でいう錦町の中心部に至ると、新出合橋という橋で国道434号が西から合流し、重複区間となる。そのすぐ上流に、この古いプラットトラスが架かっている。 直線的な、意匠のカケラもないプラットトラス。 銘板があるが、この錆びよう。 大正十四年 株式会社横河橋梁製作所 大阪工場製作 親柱。東側左は「出合橋」、右は「錦川」。ガードレールの黄色は山口県の証拠。 6パネル、より大きな引張力のかかる端部の斜材は、その隣りよりも太い。 中央2パネルは斜材がクロスしているが、逆ハの字の部材が貫通していて、ハの字の部材は交差部で切り欠いている。すべてプラットトラスのセオリー通り。 西側。なんと、国道187号の標識がある。ここは国道187号からははみ出す部分であり、どういうことなのだろう? 歴史的鋼橋集覧では「県道鹿野本郷線の出合橋として架橋、新出合橋の完成後も町道の橋として残る」とあるのだが、「県道鹿野本郷線」がいまのどの県道に当たるのかちょっとたどれず、わからない。 (2013年6月18日追記) 「鹿野本郷線は、鹿野ー長野山ー広瀬ー出合ー府谷ー本郷か。今の錦ー鹿野線と本郷ー吾味線。県道131号と361号」(要約)と@trz_xxさんからご教示いただきました。(追記ここまで) こちらにも銘板がある。内容は同じ。 西側の親柱の銘板、左側は「昭和二十九年一月」、右側は「であいはし」。 トラス桁の完成が大正14年だが、この橋の開通は昭和29年? トラス桁は転用かとも考えられるが、先の歴史的鋼橋集覧にも開通年は「1925(1954)」となっている。調査が及んでいないのだろう。錦川町史でも見れば書いてありそうなものだが。 周囲は多少のレジャーポイント的な印象があった。橋の東詰にはこのような店があったし、周辺の雰囲気が、そんな気がした。 錦町の市街はここから西へ1kmほどだ。
夕方、吉野川べりの国道169号を西に向かって走っていた。直交する道路橋はすべてほぼ同じ高さに路面があるのだが、その向こうに、路面(軌道面)がはるか上にある橋梁が見えてきた。巨大なシルエットだった。交差点で停まっていたら、ちょうど列車が通りすぎた。その高さ、長さがわかろう。
通り過ぎて、西側から。川幅200mほどの吉野川を3径間のプラットトラスで渡っているが、このときの流路はうち1径間のみ。 北側は3連のプレートガーダー。トラス橋と共有する橋脚部、プレートガーダーには鋼製橋脚が与えられている。 このように。 橋脚は石積。線路は少しカーブしているため、橋桁は少しずつ角度をつけて配置されている。吉野川に沿って東に進んできた鉄道線は吉野川と直交する形で渡るために、一度北側に膨らんでから南下しているのだ。 まだこの路線には乗ったことがない。つまり、この橋を渡ったことがない。乗らねば。
廃止になった国鉄赤谷線を遡り、東赤谷のあったところを過ぎてさらに行くと、道路左手に大きなプラットトラスが現れる。赤谷線の全身となった官設鉄道が敷設し、1925年に開通したもので、のち日鉄専用線への切り替えに伴い1957年に廃止されている。以来55年、ここにその骸をさらしている。
中央径間のスパンは思いのほか長く、47.4mもある。側径間としてプレートガーダーも残る(支間不明)。 けっこう深い谷を渡っている。 歴史的鋼橋集覧によれば「桁は第一利根川橋梁、第一神通川橋梁のものと同型式とおもわれる」とある。 桁の上には55年を経て枕木が残存している。 鉄山側の側径間のプレートガーダー。下路にも見えるが、上路である。 この飯豊川橋梁を撮った道路橋は「飯豊橋」という。昭和45年3月竣功。飯豊川橋梁を撮影するには、少し近すぎる。 東明から西へ、道道美135号美唄富良野線が延びている。といっても富良野に抜けているわけではなく、美唄ダムを遡ったところで道路は途切れている。一般交通はその手前で遮断されているかもしれない。 道道に沿って、美唄鉄道の廃線跡がサイクリングロードとなって伸びている。美唄川の右岸にある。盤の沢という集落で支流をふたつ渡り、やがて美唄川を渡り、すぐに渡り返す。最初に美唄川を渡るのがこの橋である。橋梁名は不明。 この場所にかかる鉄道橋。 全然引けないのでこれで。 プレートガーダーなのだけれど、下部が補強されている。そして、本来は1スパンであるべきところ、補強の下に橋脚をあてがっている。ということは、この桁はどこかからの転用であろう。 床版は自転車道路にふさわしく舗装されたものに張り替えられている。
* * *
そのまま進むと、我路の集落。あまりの雰囲気に、写真は1枚も撮れなかった。廃屋が並ぶ中、焼き鳥屋があった。まさかと思ったが、中で人が動いていた。住民の気配がしないこの我路で商売が成り立つのだろうか、などと思っていたが、名物店らしく、わざわざ買いに来る人がいるようだ。美唄のモツ焼き鳥についても、今回初めて知った。 その我路の小学校跡地に我路ファミリー公園がある。無人だった。そこに、奇妙な橋があった。 中路プラットトラス。床版を支える横桁は、ゲタを履かせて格点と接合されているように見える。 引いて見る。3径間で、中央径間が中路プラットトラス、側径間は下路のPC桁。 中路にする意味はないから、このトラス桁もどこかからの転用だろう。
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隣接する三菱美唄記念館は、本来ならば営業中のはずだし、クルマの跡もあったのだが、開いていなかった。残念。 |
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