(上流側左岸=南から) 京都府下を南へ西へと向かう3本の川、北から桂川、宇治川、木津川は、JR大山崎駅の南でほぼ同時に合流し、淀川となって大阪湾まで下る。川の定義としては、琵琶湖に発する宇治川が淀川の本流であり、桂川と木津川がそれに合流するという言い方となる。 桂川と宇治川に挟まれたところに京都駅があり、そこから京阪本線が大阪に向かうのだが、途中で宇治川と木津川を跨いで、合流後の淀川の左岸(南側)を走るようになる。その、宇治川を渡る部分に架かるのか、この宇治川橋梁である。 (下流側、左岸=南側) このように、複線の直弦下路プラットラスが7連。うっかりしたことに、上画像で言うと踏切の右側はプレートガーダーなのだが、その写真を撮ってないどころかまともに見てもいない。 トラスのディテール。歴史的鋼橋集覧には寸法は書いていない。たしか『鉄道ジャーナル』の連載で採り上げられていた気もするが、その切り抜きもあったはずなのだが、なぜかいま手元にないので諸元は不明。ただ、橋長257mで7連ということは1連約36mの計算になるが、後述の標記から支間は33.94mとなっている。 このトラスの特徴的な点は、斜材の角度が急に見えることだろう。試しに中央の2パネルの\/という位置の斜材を抜いてみれば、通常の垂直材付きのワーレントラスで見慣れた斜材の角度を描く。ほぼ正三角形だ。 中央の2格間を拡大する。面白いのは、圧縮力を受け持つ斜材(\/、太い、引張力を担当する)とその補強として入る/\の部材(細い)が交わる点を結合しているプレートの形状だ。普通に(?)長方形ではなく、ひしゃげた形をしている。 正面。うまい場所に踏切があったものだ。 その奥。 塗装標記は端柱に。 橋梁名:宇治川橋梁(第1径間)
支間:33.94M 塗装年月日:平成20年5月27日 塗装回数:2回塗 塗装種別・塗料名:下塗 Vグラン(グレー) 増塗(下塗) Vグラン(グレー) 上塗 VトップHB(京阪さび色) 塗料製造会社:大日本塗料株式会社 施工会社:(株)京阪エンジニアリングサービス (株式会社ハーテック) ここで支間がわかる。また、塗装の色が「京阪さび色」という名称であることもわかる。 ではその支承へ。 ピン支承。可動するようには見えない。橋台の一部が煉瓦積みであることが驚きだ。この橋の開通は1929年(昭和4年)。煉瓦の時代でもあるまいに…。 また、塗装がきちんと塗り分けられているのが興味深い。そして、トラスがリベット結合であるのに対し、支承はボルトが多用されているので、後年の補修とわかる。 橋脚側。 やはりボルトが使われている。向かって右に所在なげに立っているボルトは、かつての支承を支えたボルトだろうか。 反対側に回ったら、支承の銘板があった。 京阪電気鉄道株式会社
1996年6月 宇治川橋梁支承取替工事 松尾橋梁株式会社 とある。 桁裏その1。 桁裏その2。 橋脚の銘板もあった。 京阪電気鉄道株式会社
宇治川橋梁橋脚補強工事 P1 P2 P3 昭和48年度工事 (株)森本組 なにかの参考になるかもしれないので、部材の画像を上げておしまい。 (追記) この複線トラスになる以前、ここには別の7連(*)の複線トラスが架かっていた。径間28.2mと37.8mの2種類があったが、ここでは径間37.8mのもののみであったろう。車両大型化による耐荷力が不足するために架け替えられた。『鉄道ピクトリアル』1984年1月号に写真が掲載されている。 鉄道院設計桁を元にしているが、走行するのは電車のみのため、耐荷重を軽くし、「軽快」(後述資料)な姿をしていた。 (*)『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報)--国内設計桁--』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)によれば、「木津川に7連、宇治川に9連」という旨の記載がある。しかし、現在は木津川に9連、宇治川に7連なので、これは誤記であろう。 PR 阪神なんば線、すなわち以前の西大阪線が開業以来使用している橋梁である。全40連、橋長は758mもある。うち6連が100フィートクラスの複線プラットトラスで、それ以外は単線のプレートガーダーである。トラスは100フィートクラスで第18~23連。鈑桁は50フィートクラスである。 すぐ西側を国道43号の新伝法大橋が架けられているので、撮影は容易。 トラスの6連を見る。 リベットを使用した剛結構造で、端柱と弦材以外はアングル材をレーシングで結んでいる。銘板は写真を見る限り見あたらない。 端柱上部、橋門構との接続部分が少しだけ上弦材から突き出ており、それがこの橋をしてリズミカルに感じせしめる。 ひとつの桁のシルエット。なかなかバランスの取れた、小柄ないい形をしている。 真横。トラスが作り出す三角形は、正三角形を少し扁平にさせたような形だ。 支承。むしろ、その手前、ターンバックルが気になる。単に「桁下注意」という看板のために、こんなターンバックルがある。桁に直接貼ったり書いたりすればいいのに。 プレートガーダー3連分を真横から。 この橋梁はトラス桁も鈑桁も横河橋梁大阪工場製。 以上、なにひとつ考察なし。
先に紹介した
上淀川橋梁(東海道貨物線) 上淀川橋梁(東海道貨物線) その2 吹田~新大阪間の経路変更は1912年か1913年か 東海道本線上淀川橋梁(上り内外線)(貨物線の桁との比較) の続き。 タイトルに挙げたものを逆から書く。まずは、上淀川橋梁の下り内外線をば。 訪ねたのは2010年5月中旬。このときは桁の塗装をしていた。この単線鈑桁を並列させた下り内外線は1956年開通。橋脚は鉄筋コンクリートで間隔は既設のものに揃えられている。現場で塗り替え作業をしている方が多数いるので、カメラを向けるのに少し抵抗があり、ほとんど撮影していない。 さてここで西(上の画像左方向)に目をやると、国道423号の新淀川大橋が目に入る。 地図にマークした橋は、JRの路線では桁が短いために8~9スパンを要している新淀川を、わずか3スパンでまたぐ。上流側(地図右)から、1964年(昭和39年)開通の国道423号(現・南行き)、同時開通の地下鉄御堂筋線、1969年(昭和44年)開通の国道423号(北行き)が開通。御堂筋線のランガー桁が目を引くが、道路は鈑桁である。この中央径間は115mある。 なぜ御堂筋線だけランガー桁としたのかまでは調べきれていないが、「中央径間115m」の由来は戦前の都市計画に遡る。簡単に言うと、この中央径間に1939年(昭和14年)までに自碇式吊橋をかけるための下部工事が完成したものの、資金不足から中断され、それを活用したのがこの新淀川大橋なのだ。。
・国道交通省内>近畿地方整備局>近代土木遺産のページ(こちら) ・本庄水管橋の構造調査と補強工事について(荒木貞行)
とあることから、Market Street Bridge(マーケット・ストリート橋)というテネシー川にかかる橋(テネシー州)を検索していたら、面白いものにあたった。それはあとから書くとして、まずはこの橋。
(元画像はこちら。パブリック・ドメインである) 正式にはJohn Ross Bridge(ジョン・ロス橋)といい、テネシー川南岸のチャタヌーガと北岸を結んでいる。由来はチェロキーのジョン・ロスにちなんだもので、1917年に竣工した。最大スパン109m。2005年に修復のため一時通行止めとなり、2007年に再度供用開始された(以上、wikipediaによる)。 この橋、ブレーストリブアーチに見えるけれど、跳開橋である。それぞれ分離して跳ね上がるのだから、閉合しているときでもアーチ構造を取るわけではない。よって、これはなんなんだろう、分類するとすれば「跳開橋」であり、単に桁がブレーストリブアーチのような見た目をしている…という解釈でいいのだろうか。 さて、これは前振り。この橋が跳開している状態の画像を探していたら、この画像に出会った。 (リンク元=こちら) どうだろう、このプラットトラス。六角形。日本では、中央3パネルの上弦が水平になっている通称「クーパートラス」があるが、その水平部分だけが大きくなった感じ。当然、分格トラス=ペンシルバニアトラスである。 全体像はこちら。 (出典はこちら。ライセンスはcc3.0) 全6連のうち、南側2連と北側1連は短い10パネル210フィート(64m)、中央3連は長い(背の高い)3連は16パネル320フィート(97.5m)。右端の桁の橋脚はトレッスル。1891年開通。桁下高さ30m。北側の(画像右側)桁の橋脚はトレッスルである。 こんなばかでかいピントラスを、修復した上で歩道橋として存置している米国。すばらしい。いつかは見に行ってみたいものだ。
上淀川橋梁(東海道貨物線)の続き。
(上写真左側は貨物線、右側は上り線。下り線は見えない) いま、東海道本線はこの新淀川を3組の複線橋梁で渡河しているが、その成立をなぞってみる。西から ・現・貨物線橋梁(複線トラス、前回紹介した橋梁、1920~1921年汽車・川崎製、1928年開通) ・現・上り線橋梁(複線トラス22連、1899年A&Pロバーツ製、1901年開通) ・現・下り線橋梁(単線プレートガーダー22連×2、製造者不詳、1956年*開通) *「歴史的鋼橋集覧」による。しかし1930年設計、架設は鉄道省、とあるので矛盾する。 となる。 これらとは別に、1876年(明治9年)の開通時に架けられた橋がある。それが「上十三橋梁」。単線の上路プラットトラスであった。なぜ「上十三橋梁」という名称なのか、また架けられていた場所を説明するには、この周辺のルート変遷が必要だ。まず地図をご覧いただきたい。 開通時、吹田-大阪間のルートは現在とは異なっていた。上の地図でいうと赤い線で描いたルートである。 また、淀川のルートも異なっており、上記地図の赤矢印の支点にある「大川」に流れ下るルートが本流で、現在の新淀川の流路は、中津川とも十三川とも呼ばれるものであった。 というわけで、初代の橋梁は上十三橋梁という名称である。「上」は上流川を意味していて、対になる「下」は、大阪-塚本間で新淀川を渡る部分に架かっていた。 その上十三橋梁の資料が残っている。 ●上十三橋梁 (『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)より) ・単線用錬鉄製100フィートワーレントラス橋(設計・シャービントン?) ・全長99フィート10インチ、純径間94フィート余(ママ) ・上路トラス橋だが、両端に垂直材がなく、横から見ると台形をしていた ・縦桁にはH型鋼を使用 ・ピン間高さ(=上弦と下弦の長さ)9フィート ・トラス中心距離17フィート2インチ=5.2324m ・版桁間距離5フィート6インチ ・製作は英国 ・5連? ・1901年撤去? ここで、年表としてまとめてみる。 <年表> ・1876年(明治9年)7月26日 向日町-大阪間開通。上十三橋梁開通(単線、5連)→1901年撤去 ・1885年(明治18年)6月 大水害 ・1896年(明治29年)5月 淀川改修工事開始(新淀川開鑿) ・1901年(明治34年) 上十三橋梁撤去 ・1901年(明治34年)8月 上淀川橋梁(現在の上り内外線)開通=黄色い矢印のルート完成 ・1910年(明治43年) 淀川がほぼ現在の形になる ・1912年(大正元年)または1913年(大正2年)10月25日 吹田- ・1925年(大正14年)10月15日 吹田-新淀川信号場(左岸)複々線化←橋梁の開通時期と矛盾 (wikipediaより) ・1928年(昭和3年)12月 上淀川橋梁(現在の貨物線)開通 ・1956年(昭和31年) 上淀川橋梁(現在の下り内外線)開通 次回はA&Pロバーツ製の「上淀川橋梁(現在の上り内外線)」について書く。 ●参考文献 ・『地形図でたどる鉄道史 西日本編』(今尾恵介、JTBパブリッシング、2000年) ・『鉄道廃線跡を歩くVIII』(宮脇俊三編、JTBパブリッシング、2001年) ・『歴史的鋼橋集覧』(土木学会、このページ内にリンクあり) ・サイト『十三のいま昔を歩こう』←とても面白いサイトです。 ・サイト『放課後ホンネの日本史』 ・サイト wikipedia/淀川 ●spl.thnx. @Einshaltさん、@O_Ken_ken さん |
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