小舟渡橋 その1 (福井県)の続き。
今回は、画像左側の短い平行弦プラットトラスのほう。いま写真を見返していて、この小さい桁の拡大写真を撮っておくのを忘れているのに気がついた。 200フィートクラスの曲弦プラットを通り、小さい桁のほうへ。 おや、なにかスッキリしている。この橋の向こうはPC桁橋で、その向こうが開放感を与えてくれるのか。それとも、このトラス桁の小ささか。 実に軽快。曲弦のほうよりも部材も細い。もっとも、個人的にはあまり好きな形ではない。 曲弦トラス側、かつ上流川の斜材。/が引張力がかかる部材、\が補助部材。両者の太さや補強は同じだ。両者を結びつけるプレートは、/にリベット4個、\に6個で留めてある。ということは、\に依存する部材、ということか? 圧縮力がかかる縦材は、細いながらもしっかりとレーシングが施されている。 その裏。 抜ける。車道の幅が狭いため、PC桁になるとすぐに、下流側に待避所が設けられている。一目見れば、これが後付けであることがわかる。 欄干が違う。そして 橋脚が違う。 振り返る。こちらの表情もなかなか。小さいのに、気取ってる。そして、扁額がある。 (右から)古ふなとばし(こふなとばし) 燕だろうか、巣をかけている。 あれ? 駅名は「こぶなと」…。まあ、どちらでもいいのだろう。かつて同級生に小舟渡くんと小舟渡さんがいたけれど、どちらも濁らない「こふなと」さんだった。小舟渡という地名は全国至る所にある。 右岸には親柱。何か文字が書いてあるようにも見えるけれど、よくわからない。 引き返して、曲弦との隣接部。左が小さなトラス、右が大きな曲弦トラス。その両者がロッドでつながっている。落橋対策だろうか? この小舟渡橋を撮ったときは雨が降ったり止んだりで、さらに先を急いでも居たので、河川敷に降りての撮影をしていない。ちょっと後悔しているが、また行けばいいさ。 PR
えちぜん鉄道に乗っていたら、ふと車窓に飛び込んできた美しいプラットトラス(写真は道路から)。
「歴史的鋼橋集覧」には収録されていない。なぜ小舟渡橋が「歴史的」収録されていないかは謎。しかし、絵葉書は「愛知県」と誤記された上で掲載されている。 また、「日本の近代土木遺産2800」にはCランクで記載されている。そして、福井県の「福井の歴史的建造物」にはきちんと解説がある。GJ! それによれば、この場所に初めて架橋されたのは明治15年(1882年)で、いわゆる「舟橋」であった。橋の名もそれに由来する。その後、大正3年(1914年)に越前電気鉄道が開通した際、小舟渡駅が設置されたが、九頭竜川を挟んでいたため、永久橋の架設が計画され、大正9年(1920年)工事が開始された。開通は大正10年(1921年)。下流に市荒川大橋が完成し、換線されたのが昭和44年(1969年)なので、主役として48年、脇役としても42年、合計90年が経過している。 当初の舟橋の写真が、福井駅西側の湊地区公民館のサイトやいち市民氏のサイト(1)、「郷土の自然」に掲載されている。 場所はここ。小舟渡駅のすぐ近く。 左岸から、歩測200フィートの曲弦プラットトラス、歩測100フィートないくらいの平行弦プラットトラス。その下が流路。右岸にかけてはRC桁橋で、その下は河川敷となっている。1948年撮影の航空写真でも流路が同じなので、架けた当初から川の流れ方は変わってないのかもしれない。今回は曲弦プラットトラスのみを掲載する。 左岸・下流側から。曲弦のほうは11パネルのプラットトラス。格点は剛結。 上流側から。 真正面から。幅は狭く、クルマの離合は不可能。車両重量制限は3tということで、おそらく大型車の進入を阻止するために道幅を狭くするブロックが置いてある。 橋梁名が扁額となって掲げられている。それも、斜め下を向いている。橋梁に扁額を掲げるのは、あまり例がない。通常、親柱がその役割を果たすからだ。 このトラス桁、部材が細くて美しい。大正9年着工ということで、後年の(というか最晩年の)プラットトラスよりも部材が華奢な印象だ。もっとも、後年のプラットトラスは鉄道用であり、活荷重も大きく異なる。 中央部の格間の斜材。交差する点で結合している。これ、結合している橋としていない橋がある。一長一短だったりするのだろうか。 もう少し進むと、平行弦の桁が見えてくる。 左岸に戻って端柱。銘板はここについていたはず…? 銘板類は見あたらなかった。 (続く) (余談) 画像の右上に移っている黒い点は、撮像素子についたゴミです。 (続き)小舟渡橋 その2 (福井県) JR越美北線の橋梁などを撮影したあと、R158を九頭竜湖方面に向かっていたら、ふと眼下(左下)におかしな形が見えた。ポニー…プラットトラス? しかもでかい? かなりの土砂降りで、日も落ちていた。そのため、どうしても「しっかり」とは撮れなかった。 この橋の名称は不明。名称を記した銘板はなかったと思う。あまりの土砂降りっぷりに、めんどくさくなった、というのが正直なところだ。橋の神サイト・『橋の散歩道』でも名称が書いていないくらいなのでご容赦願いたい。 この橋が渡っているのは九頭竜川。この細い県道が跨ぐ姿を見ていると、勝山以西でのあの川幅の広い場所から10km程度しか離れていないとは思えない。 でかいのだ、この橋。ポニープラットなのに。おそらくトラスの高さは路面から3mはある。 これは私が立っている目線の高さなので、これで道路上170cm程度。街灯が、上弦とほぼ同じ高さだということからも、トラスの高さがわかろう。 プラットトラスなどというものはおよそ関東大震災前後には「ガセット結合には適さない形状」という判断もあり、新しいものは作られなくなっていったはずである。そのため、このような、部材がのっぺりしたプラットトラスは気味が悪い。上弦は箱形に組んであり、側面はガセットの部分だけ飛び出している。 こののっぺりさ下限は、圧縮材(垂直材)も引張材(斜材)もほぼ同じ太さに見えることに起因すると思う。しかも、通常、圧縮材は端からセンターに行くほど太く、あるいは補強が多くなっていくのに、みな同じように見える。なんというか、目に見える「ここに力が加わっているんだ」という感じがしないのだ。そんなもの、機能には関係してないからそうしてないんだろうけれど。 上弦のセンター。 上弦の他の部分。 銘板。 1961年3月
福井県建造 建示(1955)二等橋 製作 石原工業株式会社 材質 SS41 製作後50年。そう考えると古い橋だ。私の年齢的な感覚からすれば全然、なのだけれど。 現地でお会いした @kouhakuran さんに、大野市内にも似た橋があるということで、写真を見せていただいた。それは阪谷橋というのだが、これも見ておくべきだった。また福井に行かねば。
野尻森林鉄道 Iビーム桁橋(長野県)の続き。
このIビーム桁が見える場所で逆方向を見ると、このような橋梁が鎮座している。 左岸(画面右)から上路ワーレントラス、下路プラットトラス、上路プレートガーダー×3。 近づくとこのように見えてくる。築堤は間違いなく林鉄のものだが、切り下げられ、橋梁だけが高みに取り残されている。 橋台だったものの裏側。本来ならば築堤の中に埋まっている部分なので、なかなか見る機会はあるまい。画面右側についている三角形のものは築堤の断面を押さえる翼壁。これも、本来委は土に接している面が露出している。 上路トラス全景を真横から撮った写真が手ぶれしていた…ので、別カットを。 この形は、同じ野尻森林鉄道の多の橋梁や木曽森林鉄道鬼淵橋梁でも見られる。当時、日本橋梁が作っていた規格品なのだろうか。 また、枕木が存置されているのがわかる。 上路トラスの真下。下横構を構成する、格点を対角線上に結ぶ部材が、向きによって格点の上、下それぞれにそろえられている。 トラス橋真正面。端正、かつ細い。直線的な印象が強い。 10パネルのプラットトラス。端部のパネルには、斜材のようなコリジョン・ストラットを備える。 全体的に華奢な印象。部材の細さはまるでアメリカ式のピントラスのようだ。これは設計活荷重が比較的小さいからか。 そして銘板。 大正十年四月
日本橋梁株式会社 製作 大阪 先の野尻森林鉄道 Iビーム桁橋(長野県)と同じ形状をしている。 この橋梁については、他にすばらしい発表記事がいくつもあるので、そちらを参照された。
「阿寺渓谷」と書いてある橋のつづき。『トラック野郎 熱風5000キロ』のオープニングに出てくる橋である。
下記動画もあわせてご覧いただきたい。 1分08秒付近で、一番星とジョナサンが、赤いプラットトラスを渡る、その橋だ。「阿寺渓谷」と書いてある橋で推測した場所に架かっている橋であることをつきとめた。 この成果は、全面的にtyafficさん(@fusamofuさん)に依る。前掲記事に対して当時何度かやりとりし、そして最近、映画と同アングルでランガー桁が架かっている画像を教えてくださった(こちらのページ)。背景の山の感じがそっくりなのである。そして、そこに大きなヒントがあった。『写真で見る大桑町100年史』云々。 その本が、現地から少し離れた須原地区の大桑村スポーツ公園内にある大桑村歴史民俗資料館にある、ということを、やはりtyafficさんからうかがったので、行ってみた。ありましたよ。。。 「旧阿寺橋(昭和34年)」とあるのは、手前の吊橋のこと。お目当ては、その奥。 この橋だ! 後日、このプラットトラスは道路橋に転用される。阿寺の森林鉄道の終焉が昭和40年(1965年)というから、転用されたのはほぼそれと同時期と見ていいだろう。 このプラットトラスの規格はわからないが、木曽森林鉄道の鬼淵橋梁がTL-14すなわち14t制限。後日紹介する野尻森林鉄道の木曾川橋梁が10t機2両分。ということで、一番星号(11t車)とジョナサン号(4t車)が通過する分にはOK。 そして、いつまでこのプラットトラスが使われたかというと、隣接してランガー桁「阿寺川橋」が竣工したのが平成5年(1993年)11月。ここから遠からず、プラットトラスは撤去されたに違いない。また、吊橋は昭和35年(1960年)に2連のワーレントラスに置き換えられたあと、平成20年竣工のニールセン・ローゼ桁「阿寺橋」となっている。 この、昭和35年のものが、いまでもYahoo!地図の衛星画像にある。 (縮小すると、建設中のニールセンローゼ桁が見えるようになる) 現在の姿。 このような位置関係で、阿寺橋(旧吊橋=左の茶色)、阿寺川橋(旧プラットトラス=右の赤)が接している。 ●阿寺川橋(ランガー桁) 上流側から。なぜ『トラック野郎』と同じアングルで撮らなかったのか。よく見ると、手前にプラットトラスの橋台が残っている。 北側。画像右下に橋台がかすかに写っている。 上流を見ると、橋脚がある……。 近づいて見た。詳細不明。 そのすぐ上に、碑がある。
林鉄記念碑
六十余年の輝かしい歴史を有する森林鉄道との訣別 誠に感無量なり 昭和四十年十二月二十日 野尻営林署長 岡田寛治 ●阿寺橋(ニールセンローゼ桁) こんな形で、阿寺川橋よりはるかに重厚な存在感を持っている。 そして、以前あった、2連のワーレントラスは… こんな位置でスッパリと切り落とされていた。対岸は完全に痕跡がない。 『トラック野郎』に端を発したトラス橋を巡る旅。とても楽しかった。解決の糸口をくださったtyafficさんに感謝申し上げます。 |
カレンダー
最新記事
(01/01)
(12/31)
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
(10/22)
(10/21)
(10/20)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|