「四国三郎」こと吉野川にかかる、もとは国道32号だった橋である。現在は町道穴内尾生線となっているらしいが(歴史的鋼橋集覧による)、車両通行はもとより不可能な状態にされているうえ、立ち入り禁止の処置がなされている。下流に現在の国道32号の吉野川橋がかかり、さらに下流から写真を撮ると、このように見える。
緑色のワーレントラスが国道32号の車道部分、その手前のピンク色の桁は歩道である。その下に、ちょろりと見えている茶色いものが、今回ご紹介する(旧)吉野川橋である。 (新)吉野川橋から見るとこうなる。 向かって左から、10格間のポニーボーストリングトラス(径間36.5m)、11格間のプラットトラス(50.2m)、そして右端は樹木に隠れて見えないが、5格間の短いポニーボーストリングトラス(15m)がかかっている(数値はすべて歴史的鋼橋集覧による)。 Yahoo!地図やGoogleマップでは描画されていないが、その場所にこの橋がある。 国土地理院の地形図には描かれている。 (DAN杉本氏作製のカシミール3Dを使用しました) この橋は、残念ながら通行できない。北側から見た姿はこうだ。 1985年に現在の形、すなわち中央部に幅の狭い金網を敷いて人道橋としたのだが、現状はこの有様だ。右側の木の枝振りは数年程度でもこれくらいにはなると思うので、通行止め処置からそれほど年月は経っていないのかもしれない。 『歴史的鋼橋集覧』並に大切な情報を掲載しているサイト、『橋の散歩径』の記事を拝見する限り、1999年の時点では通行止めになっていない。今回、この吉野川橋を見に行ったのは、『橋の散歩道』で衝撃的な写真を見たからだ。詳細は後述する。 もう一歩近づき、白い柵ごしに眺める。 植物園の通路のようだ。 左右に見えているボーストリングトラス、これが実に小さい。15mあるのだが、5パネルゆえか、もっと短く見える。銘板などはない。 本当に植物園のようだ。 南側に移る。 南側はこうだ。 北側より厳重な感じで通行止めとなっている。柵ではない、コンクリートの壁が立ちふさがっている。 壁際に立つと、このように見える。 ボーストリングトラスの存在感が、北側とまったく違う。 扁額。橋梁には珍しいと思う。1911年開通の橋らしく、右書きである。 そして、見たかった部分が見えた。ピントラスのピンが曲がった部分である。『橋の散歩道』で見て以来、ここにはぜひ来てみたかった。もちろん、まだ通れるものだと思って来たのだが、通行止めとなっているのはそれはそれで仕方ない。 35mm判280mmでこの見え方なので、トリミングする。 この写真は上流側。下流側も曲がっているようだが、よくわからなかった。 なお、上から2枚目の写真を再度ご覧いただくと、プラットトラスの左端のアイバーと横桁が不自然な曲線を描いているのがわかる。 これはボーストリングトラス(10パネル)のアイバー。ピントラスというのは、上弦から垂らした垂直材と横桁を結合し、それをアイバーで繋いで下弦を構成するものだが、この吉野川橋はピン部分が横桁とともに丸見えなので、その構造を実感できる。 また、この3つの桁のアイバーは一部にレーシングが施されており、左右が一体化している。このようなアイバーは、私は初めて見るものだ。上の、曲がったアイバーの写真でも一体化している。 この吉野川橋は、開通から43年後の1954年に地滑りにより左岸側の橋台が移動し、桁が破損した。それにより廃橋となったのだが、上述の通り、それから31年後に人道橋として再生している。 プラットトラス部分の、ぐんにゃりと曲がったアイバーはその地滑り・破損の名残だと思うが、右岸側橋脚が煉瓦積み、左岸側がコンクリート製と異なっているのもその名残だろう。ただし、橋台は両側とも煉瓦積みなので、もしかすると『歴史的鋼橋集覧』にある「左岸の橋台が移動」というのは「左岸の橋脚が移動」の誤りなのかも、などとも思うが、『歴史的鋼橋集覧』が典拠とした資料にあたらないとなんともいえない。 冒頭の写真、緑色の(新)吉野川橋は、上述の地滑り・廃橋の影響で1958年に建造されたものである。銘板を見ると、こう書いてある。 とある。富士車輌! 富士重工ではない。この富士車輌が鉄橋の製作を始めたのは1954年、この橋が破損した年。現在の事業案内では、鋼橋などの製作は書いていない。wikipediaによれば、2000年代に入ってからの民事再生の途次、鋼橋製作から撤退したという。いろいろな意味で、この新・旧吉野川橋はいろいろなことに巻き込まれるようである。 PR 群馬県の中之条町の、以前六合村だった部分にこの吾嬬橋はある。長さは69m、14パネルの分格プラットトラスで、いわゆるペンシルベニアトラスである。いろいろ書きたいことはあるが、今回はピントラスたるアイバーの位置関係について書く。 この下弦のアイバーこそが美しさだと思っているのだが、「移設したときにはアイバーもバラバラにしてはこんだんだろうな」などと思いながらこの写真(左手が西)を見ていて、アイバーのつなぎ方で気がついたことがある。14パネル中、アイバーが使われているのは10パネル。偶数だ。画像の左端から眺めていて、なにも考えずに、この橋のアイバーは交互にこのように組まれていると思っていた。 ところが、写真(左が「西」である)を見ると、こうなっている。 どうしてこうなった。いや、両端部を「内側」にするだめだというのはわかる。 アイバーの斜めがけはいままでも見たことがあるので別に珍しくもないとは思うのだが、どうも「?」とした北側ではまた組み方が異なるように見える。残念ながら、そちら側の写真は新道から見下ろして撮っており、アイバーがどうなっているのかまでは確認できない。 これに気がついてしまったら、もう一度現地へ行き、両側の、さらに外側と内側のアイバー、のべ40本の位置関係を調べてみなければ気が済まない。欲を言えば、移設前の利根橋とも比べてみたい。移設前と後でアイバーの組み方や、内/外が入れ違っていたら、興味深いことではないか。 以上、いつかわからぬ未来に続く。 なぜか旅の空、愛知県下でこんな時刻に更新。 大きな地図で見る 現在は、上記の通り、プレートガーダー橋になっている、米原駅北側の、駅東西を結ぶ跨線橋。これが、かつてはトラス橋だったのだが、その出自がわからないかという話。 資料整理で『鉄道ファン』2007年12月号をめくっていたら、「米原構内の東端駐機場で休むC62~」という写真が目に入った。背後には曲弦プラットトラスが写っている。斜材はごく細く、格点もガセットではないのでピントラスと思う。これの諸元を調べたが、ちょっとわからない。不確かだが、どこかのトラス桁を「米原駅構内に転用」といった記述を見かけたことがあるようなないような。 昭和50年度の交通写真はこうだ。 (国土画像観覧システムより CKK-75-9をトリミング。) 見た記憶があるのに、どこにあるかを発掘するのが難しい。たぶん200フィートではないかと思う。記憶の引き出しに、このまましまっておこう。 【2016年5月16日追記】 出典は「明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第4報)米国系トラスその1」だった。それによれば、出自は紀和鉄道紀ノ川橋梁、現JR和歌山線の岩出~船戸間に架けられている桁の、先代である。そこには250ftのペンシルバニアトラス2連+200ftのプラットトラス1連+プレートガーダー4連だったが、1930年に架け替えており、その際、250ftの1連は北陸鉄道能美線手取川橋梁に転用(もう1連は不明)、200ftが拡幅の上、ここに架けられ、1980年頃まで使用されていた。
またしてもプラットトラスが出ているよ。まあ、それだけの重要な意義のある橋なのだが。
「写旬」公式ブログにはまだアップされていない。つか、更新してなさそうにも見えるな・・・。 関連記事:中国・北朝鮮国境の廃橋(曲弦プラットトラス)
1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの50年間、台湾が日本領だったことは中学校で習うことである。この時代に、台湾総督府により、クーパートラスがいくつも架けられている。桁として珍しいものがあるわけではないが、200フィート24連1526メートルという、当時アジア最長の橋、下淡水渓橋(ピンインを無視して読むと、下淡水渓=シア・ダン・シュェイ・シー)があった。
写真はwikimedia commonsにある。 このファイルは、クリエイティブ・コモンズの表示 - 継承 3.0 Unportedで提供されています。 大きな地図で見る 衛星写真で下淡水渓橋を見ることができる。下側が今回紹介する橋であり、旧橋である。「地図」に切り替えると、きちんと「高屏鐵橋」と記されている。画面上側に見えるのは、1987年から供用されているコンクリート製の新橋であり、橋脚の位置からして支間は100フィートのようである。土木図書館には、この新橋の建設に関するビデオ『高屏渓河川橋の建設 世界最大級に挑む』がある。 旧橋は西側に8連、東側に12連が残る。wikipediaによれば、2005年の台風で3連が損傷を受けたとあるが、現存するのは20連のようである。1連、数が合わないが、とりあえずは見ないことにする。その台風で損傷した直後か、トラスがクチャっとなっている写真が、このサイトにある。 そして、たぶん落ちた桁を再構成したものがこのサイトにある。 さてその旧橋。前掲wikimedia commonsの写真は8パネルのワーレントラスであるが、新潮社の『日本鉄道旅行地図帳 歴史編成 朝鮮 台湾』に掲載されているものは、いままでこのブログでも見てきたピン結合の200フィートの曲弦プラットトラス、いわゆるクーパートラスである。これがズラリと24連。さぞや壮観な眺めであっただろうことは、上記衛星写真でもわかる。日本国内の最長の例は、16連の東海道本線大井川橋梁上り線。国内設計桁では東海道本線天竜川橋梁の19連が最長である。 さて、いよいよ本題である。台湾の財政部台湾省南区国税局のサイトによれば、隣接する河川公園はヤングピープルにとって魅力的な場所であると紹介されているのだが、これの日本語版サイトが異常である。 高屏(カオピン)鉄橋は、日本統治時代に建設された高屏渓にかかる鉄橋です。24個の鉄をアーチ状に配した構成で、橋げたには花崗岩を含んだレンガが用いられています。スタイルの美しいアーチ橋で、アジア最長の橋として有名になったこともあり ます。今では橋としての役目を終えていますが、大樹郷にとっては誇りの象徴です。 高屏鉄橋は長さ1526mの円弧形の鉄筋コンクリート橋で、高さ9.5mの橋台はケーソン工法を用い、御影石を人工的に積上げて造られました。 また橋には63.5mの間隔で24の穴があけられています。以前は南北を結ぶ輸送路として利用され、役割を終えた現在はレジャー観光地として市民に親しま れています。 (引用:前掲日本語版サイト) 本家サイトをそのまま和訳したわけではないのは明白で、恐るべき誤訳がある。 (1)前段では「鉄をアーチ状に配した構成」とあるのに、後段では「円弧系の鉄筋コンクリート橋」になっている。RCトラスなんてのは日本にも実験的なのしかなかったような。いや、そのまま言葉通りに受け止めれば、円弧の長さ(ないし弦の距離)が1526メートルあるようにも思えてしまう。瀬戸大橋以上の支間のコンクリート製アーチ橋か。 (2)前段によれば「橋げたには花崗岩を含んだレンガ」が用いられているという。煉瓦が桁になることがおかしいし、花崗岩を含んだ煉瓦というのもおかしい。これは橋台のことであり、橋台下部はコンクリート、上部が煉瓦、水切りに御影石、という使い分けである。 (3)「橋には63.5mの間隔で24の穴があけられています」とあるのは、もちろん「200フィート=63.5メートルの桁が24連」という意味であるべき。wikipedia繁体字版には「橋身共有二十四孔」という文言が見えるので(日本語版にもそのまま転載されていたので直しておいた)、これをグーグル翻訳で英語にすると「the bridge deck a total of 24 holes, each bridge opening length of 63.5 meters.」となり、まさにこの日本語である。 ついでに書くと「対象年齢: お子様、若者、家族連れ」だそうなので、オタクは不可なようである。 こうした、政府のお墨付き文章が大ポカをやらかすと、それを孫引きする旅行関係サイトや旅行者がその大ポカを拡大コピーする。検索すると、おかしなフレーズがたくさん引っかかる。 屏東県政府のサイトでは、麗莎という女性が田中という男性にこの橋梁の魅力を語っている。 これらに引き替え、兵庫県の黒田庄町立楠丘小学校のサイトにある『高雄だより』の、なんと有用なことか。改築された新トラス桁の銘板の写真と考察や、設計者の飯田豊一の殉職碑の写真まである。なぜ地方の小学校に高雄のことがらの報告書があるのかは不明だが、交換留学というか、教諭が派遣でもされたのかもしれない。この遠藤先生には、銘板の写真を見せていただいたということで感謝せねばなるまい。遠藤先生の爪の垢を煎じて飲めよ、台湾政府。 |
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