東海道本線の新大阪駅と大阪駅との間には淀川が流れている。そこを3複線で渡るのだが、もっとも河口より=西側に位置するのが複線の貨物線である。淀川を南に渡るとすぐに大きく右、つまり西へ反れ、阪急中津駅の下をくぐって梅田駅に至る路線である。旅客列車も走り、新大阪駅と関西空港とを結ぶ「はるか」もこの貨物線を通る。 3複線なので3組の橋梁が架かる。西から、 ・この貨物線(複線プラットトラス)…支間 ・東海道本線上り線(複線プラットトラス)…支間31.623m(103フィート9インチ)×22連 ・東海道本線下り線(単線プレートガーダー×2)…支間32m×22連 となっている。名称はすべて「上淀川橋梁」であるが、今回は貨物線のトラスについて書く。 この貨物線は、東海道本線上り線のプラットトラスと同じ支間31.623mを基本とするが、それは(新大阪方から)第1~3連と第6~21連の寸法であり、第4連・5連は47.396m(155フィート6インチ)。桁の製造は、基本的に汽車製造会社製で、長さの異なる第4・5連は川崎造船所製のようだが、歴史的鋼橋集覧では「(1-3,6-21)汽車(9)/1920,川崎造船所(10)/1921,(4,5)川崎造船所/1921」という、どうも信用ならない書き方が成されているので、曖昧なままにしておく。なにしろ銘板がない。 この第4・5連の凸凹具合は、一見してわかる。 なおこの上淀川橋梁は、歴史的鋼橋集覧では「ワーレントラス」となっている。しかし、ご覧の通り、プラットトラスである。 裏側。 このトラスを見ていて驚いたのは、貨物列車が通ると、桁がしなるということだ。下弦と縦桁が、湾曲する。肉眼でも十分わかる。かなり驚いた。 橋脚は丸井筒のような、左右独立したコンクリート製である。 橋りょう名 上淀川橋りょう 位置 新大阪~大阪554K101m52 支間 31M62 塗装年月 1992年3月 と総回数 3回塗 塗装種別 下塗シアナミド鉛サビ止ペイント (イカ不明) 私はプラットトラスは好物だが、このように5パネルのものは好みではない。やはりこうどーんと長い橋を架けて欲しいと思うのだ。 この区間の開通は1876年(明治9年)。しかし、この3組の橋梁が供用されたのは、それぞれ1928年12月、1901年8月、1956年(月は不明)。最初から三複線であったわけもなく、初代の桁がどうだったのかは後日書く。 →上淀川橋梁(東海道貨物線) その2 →吹田~新大阪間の経路変更は1912年か1913年か PR
清水国道開通時に架けられた「鷺石橋」をルーツとする旧橋
国道120号が利根川を渡る区間にある旧橋。現在の鷺石橋は1970年(昭和45年)に架けられたもので、その隣りに古い2連のプラットトラスが歩道橋として残されている。それが、今回紹介する鷺石橋である。 形状としては、端柱のないガセット結合のプラットトラス。 その、南西側。 ざっと渡って北東側。 よく見ると、トラスの手前にコンクリート製の橋が見える…? 左。 前橋まで三十四粁 右。 <ぎ>=消えてる (以)=い (志)=し (者)=ば (し) それにしても、この親柱の冷遇っぷりはどうだ……。 トラスに近づき、見上げると銘板がある。 また、この写真でわかるとおり、レーシングは目が粗い。 2連の桁が向きある部分。 また南西側に渡り、支承を見る。 渡りながら、ふと上流側の真下を見ると、こんなものがある。 明らかに、さらに古い橋の橋脚の痕跡。通常、こういうものは河川の流れを阻害するので、相当きれいになるまで除去を求められるのに、なぜ残っているのだろう? サイト「産業技術遺産探訪」さんでは、1885(明治18年)に清水国道として木製トラス橋が架けられたときの橋脚だと結論づけている。「1896年(明治29年)7月の利根川大洪水で流失してしまいました。」とある。しかし、トラスを木製にする時代に、ここまでの立派な石造りの橋脚を用意するものだろうか? また、 1929年(昭和4年)に下流側に「鋼プラットトラス橋」が竣工しました。」 とも書かれているので、1896年から1929年まで、この地に橋はなかったのだろうかという疑問が湧いてくる。 木製トラスを第1世代とすると、この橋脚を使っていたのが「第2世代」、今回紹介しているプラットトラスが第3世代、そして現役の国道120号の橋が第4世代となる。この橋脚は第2世代のものではないか…と考える。第1世代は時代的に写真が残っている可能性はかなり低いと思うが、第2世代はないこともなかろう。『ぐんまの橋100選』を見てみたいと思っている。 歴史的鋼橋集覧のページはこちら。 この橋が渡る芦川は、笛吹川の支流。遡ると、いまは合併して笛吹市となったが、かつては芦川村という自治体が存在した。源流はその芦川村の中、「富士山は月見草がよく似合う」の御坂峠から西に連なる尾根の北面である。 建設経緯や時期は『身延線 笛吹川橋梁』とまったく同じ。おそらく笛吹川橋梁と同時に櫻田機械で四つの同型154フィートトラスを製作し、そのうちのひとつがここに架けられたのだろう。 ここには北側(芦川の下流側)左岸からクルマでアプローチした。川の上空は開けているので、周囲の建物よりも高さのあるトラスはけっこう遠くから見えていた。トラスを横から見るとスッキリした台形である。 桁の裏。 トラスの部材と横桁(左右のトラスを結ぶ部材)、縦桁(レールの真下の桁。横桁同士を結ぶ)を見比べてほしい。横桁の高さに驚く。もちろん必要に応じてこの大きさなのだろうが、それにしても。 縦桁の少し内側にレールが見えている。つまり、レール幅よりも縦桁幅のほうが広い。これは、子どもの頃に読んだ鉄道模型の本にも書いてあったような気がする。 また、縦桁と横桁の接続部分、縦桁のフランジが一部欠き取られている。横桁の補剛材を避けるためだ。 東京
株式会社 桜田機械製造所 昭和二年製作 と読める(すべて右書き)。 先の笛吹川橋梁もそうだが、身延線にはあまりトラス橋がない(北半分では、おそらく善光寺駅すぐ南の、濁川を渡る橋梁のみ。橋梁名は手元の資料では不明。会社にはあるのだが)ので、このふたつは乗っていても分かるだろう。斜材が同じ方法に続き、ついでバッテン、そして逆向きになったらこのふたつの橋である。 今回も「見てきただけ」になってしまった。 今回も、笛吹川橋梁に続き、廃道探索ついでに丸田祥三さんに立ち寄っていただいた。最後になりましたが感謝申し上げます。
国道140号旧道(多分/山梨県市川三郷町)の続き。身延線の笛吹川橋梁について。場所はここ。
身延線は全線、富士身延鉄道が開通させたもので、この区間は最後の開通区間となる。市川大門から甲府間の開通を以て、現在の身延線が全通したのだ。身延以北は政府が建設するとの話もあったことからか、規格は国鉄(当時は鉄道院)のもので建設され、この笛吹川橋梁も、設計は鉄道院の規格のようである(『歴史的鋼橋集覧』にそのような推定がある)。 笛吹川は富士川の支流。山梨市駅真北の国師ヶ岳の東面に発し、国道140号秩父往還に沿って南下、石和で他の支流とあわさって甲府市外の南を西流し、この 笛吹川橋梁をくぐってしばらく行くと、長野・山梨県境に発して中央本線沿いに東南に流れる釜無川と合流する。釜無川は富士川の本流だが、地形図ではこの合 流地点から下流を富士川と表記している。 東京
株式会社 桜田機械製造所 昭和二年製作 とかすかに読める(すべて右書き)。 鈑桁を見てみる。 対傾構の、向かって右上の剛結部分が少し不思議。どうなっているのかを読み取れない。 また、下部には部材が付加されている。落橋防止の部材にしては心許ない。なんだろう? 最後に、この橋から見える山を紹介する。 本当に最後になったが、この地は、廃道探索のついでに、丸田祥三さんにわざわざ私のために立ち寄っていただいた。感謝申し上げます。 より大きな地図で 天王洲ふれあい橋 を表示 首都高羽田線を走っていると、天王洲付近で内陸側にピン結合のプラットトラスが見えて驚いたことはないだろうか。それが、天王洲ふれあい橋。先に紹介した芝浦橋から旧海岸通りを南下し、天王洲運河を渡るときに東側(左側)に見える。 この橋は、近年建造されたピン結合のプラットトラスであるという点で、おそらくそんなものはこれひとつしかない。名称が、なんの謂われもない、かえって無個性なふれあい橋であることだけが非常に残念だ。 休日の午後だったからか、人が途切れることがない。渡った向こうは東京海洋大学(昔の商船大学)、周辺は品川駅近くで住宅街でもある。また、運河に沿って遊歩道があり、開放感あふれたスペースになっている。この写真でいえば左側にオサレなカフェがあり、とてもいいにおいのパンを売っていて、中あるいはテラスでお茶ができる。スノッブな休日の午後を楽しむには非常にいい感じだった。 さて、ピン結合部を見る。 なんということだ、うっかりと裏側を撮らなかったのだが、こうして見る限り、ピン結合プラットトラスのセオリー通り、左右の垂直材が上下で結合されて軸方向が□型となり、それをアイバーがつないている構造になっているようだ。床版は、下横構の上に縦桁を渡し、その上に設置されていると思うが、それは確認していない。迂闊! 北側に渡って、東側を撮る。 また戻って垂直材。 以下は私の勝手な想像である。 このふれあい橋は、もともとは天王洲アイルから品川駅に行くための近道として設置された人道橋である(天王洲開発協議会による)。通常、こうした人道橋は、開放的な橋にする。橋長69.3m。プレートガーダーでできないスパンではない。あるいは斜張橋が採用されやすいスパンかもしれない。 なにしろ人が歩く道だ。トラス橋は、中を歩く人にとっては檻のように感じることもあるだろう。天蓋も部材で覆われているので、人道橋としてはもっとも敬遠される。それなのにトラス橋が採用されたのは、レトロ感を演出するために違いない。そういう意味で、現代の技術で作る「形鋼をガセットプレートで剛結したトラス橋」ではまったく意味がなく、「レーシングのある、リベットを多用したトラス橋」でなければならないのだ。それを徹底的に作り込むと、ピン結合のプラットトラスとなる(プラットトラスは、ピン結合に向いた形式である)。 たしかに「運河」という空間には、近代的な斜張橋よりも、こうしたレトロなイメージを持つ鋼橋のほうが似合う気がする。また、新築されたビルが林立する天王洲アイルという土地柄にこのようなレトロなイメージを持つ鋼橋があると、浮ついた印象がかなり減る。歴史があった場所を再開発した、というような印象になる。横浜の赤レンガ倉庫や汽車道と同じ手法だ。 実際に歩いてみると、鋼材の圧迫感などはまったく気にならない。横浜の汽車道も、三つの古い鋼橋が残されてアクセントとなっており、そこで写真を撮る人も多い。 このリベット風のボルトについてはこちらのブログに詳細がある。その前のエントリにはトラスの解析もある。この「トルシア形高力ボルト」については、こんな蘊蓄もあった。いままで、橋のボルトに注意したことはなかったが(リベットかボルトのどちらかだと思っていた)、この形式のボルトかどうかも今後、見て行きたいと思う。 最後に、施工した宮地鉄工所のサイトをご覧いただきたい。意外にも、このふれあい橋はポンツーン工法で架けられた。このサイトを見て私が不思議に思ったのは、ポンツーンの艀における橋桁の受け方だ。橋桁というのは両端下部の支承で支えるようにできているのだが、こうしたピントラスが艀に乗る場合は下弦か、下弦を左右に結ぶ下横構が支点となって桁全体を支える。そうしたときに、どこかしら破断が生じたりしないのだろうかということだ。そこらへんも踏まえた上で設計されているはずだが、光景としては不思議な感じがする。 |
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