岐阜県にはいくつかのボーストリングトラスがある。これは旧馬瀬村、現下呂市にある、国道257号が馬瀬川を渡る橋だ。2010年秋、丸田祥三さんの『廃道 棄てられし道』の取材に同乗させていただき、立ち寄ったときのものだ。
馬瀬川は飛騨川の支流である。「出合」というのは、この場所で、馬瀬川の支流・一之谷からの川(名称不明)を合わせるからであろう。こちらは北側、右岸。 左の親柱「馬瀬川」。 右の親柱「であいはし」。 反対側(南側、左岸)は、左が「松瀬川」、右が「出合橋」である。 反対側。 ちょっと手前から見ると、けっこうな川幅があるのに、この部分では橋台を両岸からせり出し、このボーストリングトラスで一跨ぎしているのがわかる。 9t以上は通行禁止。地名標記は「馬瀬■奥川上」とあり、■はかつての「村」を消した後と思う。「奥川上」は、地形図によれば「おくがおれ」と読む。 南側に銘板がある。
昭和28年(1953)
岐阜縣建造 内示(昭和14年)一等橋 製作 株式会社横河橋梁製作所 トラスの組み方はプラットトラスである。 PR 美しい弧を描く上弦。 北側から渡る。親柱がしっかりしている。 左、「松齢橋」。 右、「阿武隈川」。 渡りつつ、振り返る。少しだけ見えているが、新道の両脇にも、この松齢橋の意匠を模したと思しき半円形の地下道の入口?らしきものが見える。 南側、左側。「しょうれいはし」。 南側、右。「大正十四年十二月竣功」。 4連の姿。 少し離れて。新しい大仏橋は連続ワーレントラス。支間を長くとり、阿武隈川の中に立つ橋脚が1組少ないのがわかる。 桁の裏側。縦桁は3本しかない。また、かつてはもう1本、水道管が渡されていたのもわかる。 地下道(?)の意匠に見るように、この松齢橋は大切にされているようだ。末永くこの地にあり続けますように。 この松齢橋については『日本の廃道』42号に、TUKA氏による詳細なレポートがある。何を書いてもそれの転載にしかならないほどのすばらしいレポートだ。だから私はここでは写真しか載せていない。ぜひご一読を。
和賀仙人橋(岩手県)の続き。7月に訪ねたときは銘板に気づかなかったのだが、北海道ツーリングに行く直前、8月5日夜にお台場のカルカルで『鉄イッターナイト』を見ている最中に、TcodeFさんやRoadExplorerさん、htima01さんらの「銘板がある」銘板があるというツイートがぼくのTLを飛び交った。イベント会場から高速で一気に青森まで行こうと思っていたのだが、これにより行き先を変更というか和賀仙人橋に立ち寄ることに決め、深夜にお台場を出発し、翌朝、現地に立った。
まずは側径間のボーストリングトラスの、現道側の銘板。200mmレンズでこれくらいの距離。テレコンも持って行ってるんだからつけろよ…と今になって後悔している。 昭和六年 株式会社浅野造船所製作 (ロゴ) ICL鋼 製鉄所 鈑鋼 浅野造船所 鋲鋼 浅野小倉製鋼所 反対側(下流側)には塗装標記もあった。 塗装年月 1991年12月 塗料名 下塗 JIS-K-5623-1種 1回塗 中塗 R19-737淡 JIS-K-5516-2種 1回塗 上塗 R19-737淡 JIS-K-5516-2種 1回塗 塗料会社名 対日本塗料株式会社 施工者 大英塗装工業株式会社 塗装面積 3084m^2 銘板の語句は前期と同じ。 ついでに3ヒンジアーチの銘板も撮り直した。 やはり記載事項は同じだ。 そんなこんなで、和賀仙人橋に、1ヶ月と明けず2回も行ってしまった。
このインパクト。上路ボーストリングトラス。どうしてこうなった。
同類の橋は、新潟県の境橋しか知らない。ボーストリングではなく、下弦が曲弦の上路トラスであれば、山梨県の梁川橋と長野県の子安橋がある。(海外にはいくつも事例はある) 国道17号旧道 境橋(新潟県二居渓谷) 国道17号旧道の境橋が、現道から見えた! この和賀仙人橋は、国道107号が北上線の和賀仙人駅から約1km西方向に行ったあたりで和賀川を渡る橋で、既に旧道となっている。周辺には北上線の旧線が日本重化学工業への引き込み線跡となって残っており、貨車の廃車体も施設内にある。ただし、自由に立ち入れる状態ではないため、撮影はおろか見ることすらしていない。 現道から撮ると、どうしても見下ろす位置になってしまう。同行した方によれば、草が少ない時期なら桁下まで行けるそうなのだが、足下の見えない崖に近寄るのはやめた。 おもしろいのは、主径間は3ヒンジアーチで、左岸だけにこの側径間がある。別にプレートガーダーでもよかろうに、なぜ? ボーストリングトラスの一端は橋台に、もう一端はアーチ橋に掛けられている。上越線利根川橋のように、専用の脚があるわけではない。橋台が見たい…。 たもとより。まったく距離がないので、美しいアーチの全景をここから撮ることは難しい。 左岸の親柱。銘板はない。右の親柱は失われている。 右岸側の親柱。見えにくいが、「昭和七年七月竣工」とある。あれ、反対側はどうだっけな、なかったんだっけな…。(ないことを撮っておきなさい、と) アーチの中央部のヒンジ。 アーチの右岸側のここに銘板があった。 雨が降っていたこともあって、レンズを交換せずに撮ったら案の定、読めない…。 【2012年8月13日追記】 和賀仙人橋(岩手県)の銘板に銘板のことなど。
ボーストリングトラスってかっこいいよね。そして、この微妙な色合い、群青色と言えばいいのだろうか、この色が、かっこよさを引き立ててるよね。六ツ見橋。岐阜県の下呂にある、2連のボーストリングトラス。表記方法はいくつかあるが、ここでは説明看板や地元の幟にあった「六ツ見橋」を採用する。
幟。 「歴史的鋼橋集覧」の記事はこちら。 下呂駅の南、JR高山本線の車窓から見える位置にこの橋はある。渡っているのは飛騨川。飛騨川は木曽川の支流であり、はるか下流、美濃加茂市の川合というそのままの地名のところで木曽川に合流する。 飛騨川の右岸・西側を走る県道88号からこの六ツ見橋を渡ろうとすると、直角に折れ、JR高山本線を踏み切りで渡る形になる。なにしろこの位置関係だ。 下呂駅付近では川幅が広い飛騨川が、この六ツ見橋のあたりでは狭くなっている。ここに架橋したのも、それが理由か。 踏切付近からみると、こんな感じ。 時速30km制限、対面通行、重量制限は8トン。幅員が狭いため、歩道は別。右のみ親柱があり、そこには「飛騨川」と書かれている。 歩道は下路鈑桁。これについては、説明看板を引用する。 六ツ見橋の由来 帯雲橋より約3キロメートル、塚田の渡しより上流の地に六ツ見橋が架橋されて、渡橋式が行われたのは大正12年(1923)3月16日である。最初、吊橋形式のものであった。この橋は、昭和6年4月に、鉄骨板橋として改築、当時、3万3401円37銭の経費を要した。時は、高山線下呂駅開業直後のことである。下呂駅へ降りた客を、湯之島温泉街へ運ぶ唯一の橋として、おおいに利用された。昭和39年10月の下呂大橋の完成により、昔日の重要性は減少したが、昭和49年5月には工費3000万円をもって歩道橋も付設された。 名前の由来 六ツ見橋と名付けられたのは「下呂六景」を見渡すことができるところから名付けられたそうです。下呂六景というのは… 弘法山(信貴山)・湯ヶ峰の夕映え・下呂大杉・湯ヶ淵の湯煙・中根山(下呂富士)・温泉寺の桜 (下線磯部。以下略) 銘板。 株式会社
大阪鉄工所製作 昭和六年 このとおり、このボーストリングトラスの桁が製造されたのは昭和6年。ということは、上記の下線を付した部分、「鉄骨板橋」は、解説看板の誤り。 ……もしかしたら、トラス橋を「鉄骨板橋」と称したのだろうか。でも、検索すると「鉄骨/板橋」に切れてしまうので、どうにもわからない。 橋脚の上。歩道橋から撮っているので、左が東側で固定沓、右が西側で可動沓。 対岸に渡ってしまう。 狭いなあ…。 こちら側にも右の親柱が残り、そこには「竣功昭和六年」という石の銘板がはめ込まれている。 戻りがてら、塗装標記。下弦に貼ってあった。 塗装年月 2001年3月
塗装会社 株式会社大装 塗装材料 下塗 鉛系さび止めペイント JIS-K-5623=1種 中塗 長油性フタル酸樹脂塗料 JIS-K-5516-2種 上塗 長油性フタル酸樹脂塗料 JIS-K-5516-2種 塗料製造会社 大日本塗料株式会社 戻り終え、踏切を見たら、そこには「六見橋踏切」という表記があった。 さらに引く。 4月末、既に葉桜。もし満開なら、六ツ見橋の群青色ととてもマッチすることだろう。 |
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