東雲橋。渡っているのは木曽川である。写真は左岸上流側から。さらに上流には、大井ダムが見えている。
歴史的鋼橋集覧はこちら。 見ての通り、ボーストリングトラスである。驚いたことに、wikipediaに項目があった。場所はここ。 この地点で、南から阿木川が、北から和田川が木曽川と合流する。木曽川の川幅が広いのであまりわからないが、狭ければ十字峡のような光景を現出し、一大観光名所となっていたことだろう。上の地図を見ると、下流側に新道が予定されている。現地でも工事をしているが、それは後述する。 中央径間がスパン45mのボーストリングトラス、側径間は2連(24mとあるが…?)と1連(13.5m)の鈑桁。 では、いざ橋へ。 すれちがいできません! 橋の上は、道路が 狭くなっております という表示がある。最大車両重量14トン。この橋の開通は昭和6年、銘板には三等橋とある。昭和6年当時の三等橋は、活荷重(総重量)6tなのだが、昭和14年には県道=二等橋(9t)とされ、昭和31年には二等橋は14tになったので、そうした変遷のしろものなのかもしれない。もっとも、こうした荷重は経験則によって決められることもあると現場の方から聞いているので、設計荷重は三等橋(6t)なのだが、どうしても14tのクルマを通す必要があって通して、かつチェックしてみたらなんともなかったから14tでいいや、になったのかもしれない。真相などわかるはずもない。 親柱は両側にある。どちらも銘板は路面を向いている。 左。「東雲橋」。 右。「木曽川」。右に見えるのが大井ダムである。欄干は後年、比較的最近のものか。 さて、ボーストリングトラスに近づく。 いいね、この構え。 どうしても弱い、上弦の端部は、下側に補強を入れているのがおわかりだろうか。 別角度から。本来はリベットだが、この補強剤はボルト留めなので、後付けであることがよくわかる。 ここに銘板がある。 昭和五年製作
大阪 日本橋梁株式会社 渡りながら振り向く。中に入ってしまうと、ボーストリングトラスである、とはあまり意識しないかもしれない。 センターの格点と大井ダム。 上弦の端部には、なにやらケーブルでも通していたかのような穴がある。設置するときに必要だった部品か? 鈑桁も渡り、対岸近くへ。右岸側も親柱はある。 左。『東雲橋』 右。『木曽川』。この組み合わせは左岸と同じである。通常、親柱は ・橋梁名 ・河川名 ・橋梁名(ひらがな) ・竣工年月 が書いてあるものなのだが。 橋の上から下流を見ると、この東雲橋に替わる新橋とバイパス工事の様子がわかる。 開通記念碑か、「紀功頌徳」と題された石碑がある。表面はそれなりに風化しているが、「東雲橋」という文字は読めるため、関わった人々を記念しているのか。とりあえず解読はパス。 ボーストリングトラス。ここは、その立地からして真横から撮れない。もし新橋が開通したら、この旧橋が撤去される前に訪れて、真横からの記録を残しておきたい。そして、解体されるときには、その作業を見守っていたい。新橋の工期は平成25年3月までである。 PR
神岡の街中にあるボーストリングトラス、藤波橋。渡っているのは、神通川の支流である高原川。神岡の街中では、まだこれほどに細い。写真は下流(北)から。位置はここだ。
構え。ボーストリングトラスらしい開放感。欄干がついているが、道幅が狭いので、歩行者は横の歩道橋を通る。 左側のみ、親柱が残る。いったい何をモチーフにした親柱なのだろう。右側は、歩道橋を設置する際にでも撤去されたか。 銘板はなく、その前を電柱が塞いでいる。 向かって左のトラス(上流側)には銘板がある。 株式会社
大阪鐵工所製作 昭和五年 (すべて右書き) 車道を渡る。リズミカルで美しい。 振り返って、左岸から、下流側のトラスを見ると、 平成5年度
水力発電施設周辺 地域交付金交付施設 神岡町 と書いてある。これは、歩道橋のことだろう。財源として、そんなものがあるのか。そして、この表記は18年も雨ざらしになっている割にはきれいだ。 少し離れて、上流側。 端部。支承等は、見ることができない。 日が沈みかけている中で慌てて撮ったので、暗い。でも、そんな空気が似合う橋だった。
神戸市に「神戸水道」という上水道用の導水ルートがある。水源は千苅(せんがり)ダム。武庫川の左岸川の支流、波豆川を堰き止めたダムで、そこから水路隧道で南東に向かう。途中何ヶ所か地上に顔を出して谷を水道橋で越え、また山にもぐっていく。やがて宝塚市生瀬付近で武庫川を渡り、上ヶ原浄水場(下記地図の緑のアイコン))に至るというルートだ。
概要は地図をご覧いただきたい。 より大きな地図で 神戸水道 を表示 福知山線の旧ルートにある分格トラス、第二武庫川橋梁を見に行ったとき、偶然、この神戸水道の水道橋を目にして驚いた。ボーストリングトラス!?(この橋を便宜上「レポートの(1)」とする。冒頭地図の黄色アイコン)。 1本の下路トラス橋(写真左、水源地側)と1本の下路プレートガーダー橋(写真右、浄水場側)で武庫川を渡っている。 橋脚は石積み。この区間の建設工事は1914年(大正3年)以降である。なお、廃止となった福知山線(旧線)の開通は1899年(明治32年)。すでに稼働していた鉄道隧道の下に水路隧道を掘ったことになる。 ここは、写真に見えている隧道をくぐると第二武庫川橋梁にぶちあたるのだが、隧道は水路隧道と交差しており(鉄道が上)、鉄道隧道を抜けると水道橋のはるか向こうに行ってしまう。これ以上近づくには河原に降りるしかない(降りてる人はいた)。 トラスを拡大する。これは曲弦プラットトラスなのか? そともボーストリングプラットトラスなのか? 実は両者を明確に分ける定義を私は知らない。両者は形態の差異による強度の違いでしかなく、荷重を負担する構造としては両者とも同じトラス構造である(と理解している)。 ボーストリングトラスだと考えてみた場合、その特徴(短所)である「橋門構を持たないので端部の強度が弱い」ということに外れる。橋門構はある。また曲弦プラットトラスだと考えた場合、あまりに扁平すぎないか(どこまでの扁平を許容するかは知らない)。端部の斜材は確実に45度以下だ。ワーレントラスでも45度程度が最小なのに。ここでは話を膨らませるためにボーストリングトラスということにして進める。 このあと、河原まで降りることはせずに第二武庫川橋梁まで往復し、停めておいたクルマをUターンさせようと武田尾駅に向かったそのとき、これが目に入った。 2連のボーストリングトラス! 写真は東側(武庫川下流側)からのもので、写真左が水源地側、右が浄水場側。渡す水道管は、手前とその向こう側の2本、並列でなくて半分重ねて渡されている。これを便宜上。「レポートの(2)」とする(冒頭地図のマゼンタのアイコン)。 西側から。ここで水道管はいったん頭上の高さまで上がる。その先はプレートガーダー(リベット結合)で道路を渡る。その持ち上げる部分の橋台は、橋脚と同じく石積みだ。 この水道橋はには意匠が凝らしてある。例えば端部の処理。こんな美しい曲線を描いている。 ふたつ上の写真の一部をトリミングしたここなどどうだ。立ち上がる水道管を支える部材のRとその肉抜きの楕円。立ち入りを禁ずる柵は、まるで洋館(←なんと曖昧な言い方だろう)の窓の柵か花壇の柵のようだ。 さて、冒頭の地図のとおり、ここで紹介した以外にも2ヶ所、このトラスが架かっているようだ。一つ目は水源地側、千苅ダムの西、川下川ダムの堰堤の手前。冒頭地図の水色アイコンの場所だ。 衛星写真で見ると、ちゃんとトラスが見える。川下川ダムは1977年(昭和52年)竣工なので、古い航空写真を見るとまだ造成中だったりする。水道橋は推定標高140m(等高線から)、ダム水面は標高164m、ダムの放水路はおそらく水道橋の10m以上下。 もう一ヶ所は福知山線宝塚駅-生瀬駅間で武庫川を渡る場所(冒頭地図の朱色のアイコン)。ここはストリートビューで見ることができる。 大きな地図で見る 上のストリートビューは右岸から。そして、水道橋で武庫川を渡ると、神戸水道は地中に潜っていくのがこのストリートビューでわかる。 その後、国土地理院の地形図を見る限り、何回か谷や川と交差するのであるが、水道橋で渡っている部分はなさそうである。おそらく地下を通っているものを考える。 廃線跡で偶然見つけた水道橋が、思いも寄らずに神戸市民の上水として由緒のあるものだったことは感慨深い。惜しむらくは、上記「レポートの(2)」の写真をもっと撮っておくべきだったことだ。大きな反省点だ。 いや、最大の反省点は「ボーストリングトラスと扁平な曲弦トラスの違いを言えない」ことだろう。この点について、ご存知の方はぜご教示いただきたく、お願い申し上げます。
「境橋」については、『山さ行がねが』や『日本の廃道』で詳細に発表されているので、というよりも私はそれを見て現地に行ったのであるから、それ以上の発見はない。だから、単なる行ってきました的な写真掲載はしていなかったが、ドイツとロシアの上路ボーストリングトラスを見つけたのだから、ついでに紹介したい。
場所はここ。クルマですぐそばに行ける。地図では道があるようになっているが、写真のとおり、クルマは通れない状態になっている。 まずはその麗しい横姿。 山側で引けるのはこれくらい。17mmレンズでこれなので、通常のコンデジではここまで写し込むことはできないと思う。 撮影したのは午後3時過ぎ、位置的に、完全に逆光になる。なかなかつらい。 画面下部、中央やや右には、さらに前の世代の橋脚がある。ここにどのように道がついていたのかは、現地で見てもわからなかった。 角度を変えてみるとこのとおり。上路の曲弦ワーレンではなく、ボーストリングである。そして、下路式ゆえに、左右の桁をつなぐ部材が入念に張り巡らされている。この上路ボーストリングトラスを鑑賞するには、ここが重要だ。 鉄道の黎明期、ドイツに範をとった九州では、ドイツで普及していたボーストリングトラスが多数導入された。4種62連だったようだ(わが国におけるドイツ製鉄道橋梁 -歴史と現状- 小西純一・西野保行・淵上龍雄)。そのすべては下路である。ポニータイプもあった。このボーストリングトラスが早期に姿を消した理由はふたつあり、ひとつは設計荷重が小さかったためにその後の列車重量増大の妨げとなったこと、もうひとつは下路式では橋門構を設置することができないので、つまり橋の両端部で左右を結合することができないので剛性不足に陥る(根拠失念)というものだ。その点、後者の理由に対しては、上路式ならば対傾構を自由に設置することができる。これは、通常のトラス橋でも上路式が好まれる理由のひとつでもある。 裏面をのぞき込む。 上面はこのような状態。 角度を変えてみる。説明など不要だろう。 橋台付近には銘板がある。
昭和27年(1952)
新潟県建造 内示(昭和14年)一等橋 製作 株式会社横河橋梁製作所 この意味するところ、この場所に上路ボーストリングトラスが架けられた理由などはORJなどでヨッキれん氏とnagajis氏が考察済みなのでそちらを参照されたい。 <関連記事> |
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