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2021年12月に発売になった本。実は感想を書いたのだけど、書きたいことが多すぎて、また文章としてうまくまとまらず、お蔵入りにしていた。しかし、2022年3月24日、八馬さんと大山顕さんのトークイベントを拝見し、文章がまとまらずとも出しておくべきだと思い、書き直した。

 

ここでは、このイベントも踏まえて書く。このイベントはアーカイブして有料で視聴できるようにすれば…とも思うが、「この瞬間に語られたことを同時に体験すること」が大事なのかもしれないな。

●『日常の絶景』が採り上げているもの

 
目次は、こうだ。初っぱなが「室外機」だ。

1章「scale=S」は、「モノ」。
2章「scale=M」は、建築物の付属物。
3章「scale=XL」は、システムおよびその構成物。

並んでいる項目に、脈絡を感じるかどうか…ということを最初思ってしまったのだけれど、本書は「はじめに」に「本書が目指すところは、筆者の雑多な妄想をサンプルにしながら、読者の風景に対する感度や解像度を刺激することにある」とある。脈絡そのものは重要ではない。

トークイベントのタイトルは「『日常の絶景』の読み方」。そう、トークとともに見ると実によく、流れや考え方が見える。つまり、本書は教科書的だ。必要なことと、なぜそれに惹かれるかは少しは書かれているが、ディテールや、好きの熱意は事細かには書かれていない。通信鉄塔やダムのフーチング、コラムは写真が羅列され、鑑賞に委ねている。

しかし、ふだんから八馬さんや大山さんの本、トーク、twitterを見ているぼくとしては、「なぜこれを採り上げたか」を考えたい。著者と編集者で相当に議論し、その中で落とした項目も多かっただろう。そうした議論を経て「本書が目指すところは…」という本書のコンセプトはより輪廓がハッキリしていったに違いない。

●「わかる」「わからない」


とはいえ、「出版以来、説明に難儀している」とのこと。これには二つの意味があり、
①本書の内容を「タイトルだけ」や、補足する数語では表せない
②相手の理解度を推し量って説明する必要がある
ということだろう。

トークの冒頭で、大山さんから「わかるか、わからないか」という話が出た。本書の最初の項目は「室外機」。「室外機」を提示して「ああ、わかる」とか「見るのが好きな人、いるよね」と反応する人は、現実は圧倒的に少数派だろう。「わからない」人のほうが圧倒的に多いのだ。版元でさえ「絶景じゃない写真があるから、タイトルに『絶景』と入れるのは不適切ではないか」という意見が内部で出たくらいだ。

いまは、工場もダムも、誰に話しても「ああ、わかる」「テレビでやってた」という反応が来るようになっている。でも、そうではない時代、(たぶん)「工場なんか見て、何がいいの?」と言われ続けながら「いいよね」と言い続けてきた大山さんならではの実感で、「わかる」「わからない」についての疑問が投げかけられる。

「わかる」「わからない」の違い。「わかる」とは、「鑑賞するといろいろなことを考えるよね。それは楽しいことだよね。もちろん見とれるほど美しいよね」ということか、あるいはさらに上から「それすらも自分で選べるよね」ということ、そのプラクティスを持っていること。「わからない」は持っていないこと。ここで「難儀している」とされているのは「わからない」人への説明だろう。

何かを普及させるためには、「わからない」人を「わかる」ようにする必要がある。そのきっかけはなんでもいいが、「綺麗な写真」だということもあるだろう。本書は、それを「絶景写真」で示した。これは反語的で、世間一般でいう「絶景」ではない写真をそう称して。本書を読んで、「絶景」という語が表すものを考察する読者が生まれたら、それが本書の成功だろう。

●「図鑑」かそうでないかと「路上観察」との違い

室外機、リサイクルボックス、消波ブロック、ダム等々。三土たつおさんの『街角図鑑』と、採り上げているものは同じものがある。しかし、両者の採り上げ方は全然違う。『街角図鑑』は大元となるDPZの記事がそうであるように、昆虫図鑑のような「図鑑」。だからディテールを解説するし、なぜその色なのか、どういう特徴か、ほかとどう違うかを解説する。大きく俯瞰した全体や、その中での位置づけはあまり言及していない。

それは、2冊目となる『街角図鑑 街と境界編』を制作中にも三土さんとたくさん議論したのだけれど、河川やダムなどシステムを愛でがちな対象でも図鑑に徹するようにした。『日常の絶景』がディテールを述べないことで、逆に、三土さんによる『街角図鑑』のタイトルや作り方がはっきりと浮かび上がってくる。


また、本書を「路上観察」の一分野、と捉える人もいるかもしれない。確かに「見方を変える」という点ではそれに近いだろうけれど、「路上観察」もまた一筋縄では定義できないもので。発端は芸術活動であり、当時の芸術運動や赤瀬川原平がそこに至ったこと、そしてほどなくそこから抜けていることも踏まえたい。

赤瀬川原平の「路上観察」は人間が見立てるものなので、上記の写真の「人文」側、すべてヒューマンスケールにある。対して『日常の絶景』はジオスケール側もある。「路上観察」は見立ての一種の提示だけれど、『日常の絶景』は、その見立てを含む「見方」をいろいろと提示したり、「自分で考えて」と投げかけている。つまり、読者(鑑賞者)の自由度が高い。もちろん「路上観察」は自由な芸術活動なので、そんな定義をされたら赤瀬川原平は「違う」というだろうけれど、現在のSNS文脈としては、そんな感じだろうと思う。

そんな中で、本書が扱う対象として、下記のような図が提示された。



●「絶景」というタイトル

「絶景」の発端は、ナショジオのシリーズだろう。圧倒的なジオスケールの写真の羅列。今回のトークで、大山さんは「一般的に、絶景とはスケールではなくサイズ」「絶景とはスペクタクル」と言っていた。

見渡す限りの砂漠とか、人跡の感じられない天然自然とか。それらはすべて、人間の身体の大きさを基準としたジオスケール的なものだ。対象がでかい。一方、『日常の絶景』でいう「絶景」は、人間の身体の大きさを基準としていない。冒頭で採り上げる「室外機の絶景」の視点場にいる自分は小さい。15のテーマを擁する三つの章が「S」→「M」→「XL」というのは、それを見る自分を「Sにしてみよう」ということかもしれない。

直径50mの洞窟は一般的に絶景だが、直径5cmの穴は絶景とは感じない。しかし、自分の身長を1.8mmにして視点を持てば、直径5cmの穴も絶景となるはずだ。そういうスケールの行き来を考えると「絶景」は日常に潜んでいる。

本書は「絶景」を提示している本ではなく、「絶景とは、考察の結果に過ぎない」と提示している本である。

●「設定」

本書の帯は『映像研には手を出すな!』作者の大童澄瞳氏の推薦文とイラストが掲載されている。そして、トークでも本書の「はじめに」でも「設定」という言葉がよく提示された。で、アニメ化以降、特に話題になってはいたが未見だった同書のコミックスを読み始めた。なるほど、なるほど。八馬さんが本作をお薦めするのもよくわかった。




●余談:表4

佐原の水門。これは本書内に出てこない。編集者のセレクトによるそうだ。これが2010年夏の写真だとしたら、この写真が撮られた日は、ぼくが初めて八馬さんと大山さんいお会いしたい日で、しかも現地までクルマに乗せていただいたのだ。そう気づいたらなんだか嬉しくなった。ただ、なぜか当日の写真のほとんどをぼくは消失している。

当日の記録は、こちらのサイトに載っています。

加藤洲十二橋チャータークルーズ(canalscapeさん)…表4と同じ角度の写真がある。冒頭1枚目の左が八馬さん。ちらちら見える黄色いTシャツがぼく。

こうもんざんまい(DPZ/大山顕さん)…黄色いのが…



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