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北海道中川町の佐久から南に道道が延びる。途中で分岐して恩根内に抜けるのだけれど、災害で通行止めのままだ。それをしりつつ、それぞれの終端まで行ってみようと走っていると、見るからに学校跡の建物があった。周囲には数軒の農場が広がるが、それが最奥部だ。

 
 
校舎の向かい側は雑草が高く茂っている。空中写真で見ても緑一色だが、元は校庭だったところだ。中川町公式サイトによれば、この校舎が落成したのは1978(昭和53)年。

 
 
おそらく校門。銘板などはない。

 
玄関。けっこうな規模だが、玄関正面(写真では建物奥)にあるステージの小ささからしたら、やはり「小中学校」という規模なのだと感じる。

 
ガラス越しに覗いてみる。

『中川町史』(1975)によれば、共和に「安部志内尋常小学校所属志文内教授所」として学校が開かれたのは1910(明治43)年で児童数は17。翌年には36、翌々年には65と倍々で増えている。年表を転記するとこうだ。

1910(明治43)年 安部志内尋常小学校所属志文内教授所設置
1914(大正3)年 志文内簡易教育所と校名変更
1916(大正5)年 志文内尋常小学校と名称変更
1941(昭和16)年 共和国民学校と改称
1947(昭和22)年 中川村立共和小学校と改称/中川村立共和中学校として共和小学校に併置開校
同年 幸分校設立(~1963年)/板谷分校設立(~1974年)

サイト「学舎の風景」によれば、閉校は1991(平成3)年3月末。その時点まで児童・生徒がいたかわわからないが、その後、校舎は役場などの物置となったようだ。

中川町の議会だより2021年10月号(No138)には、廃校校舎の危険性の懸念について、町長が、要するにお金がないので手がつけられないと回答している。

校舎からグラウンドを挟んで教員住宅跡があり、その隣に「茂吉小公園」がある。斎藤茂吉を記念したものだ。この地に、斎藤茂吉の兄が拓殖医として駐在しており、そこを茂吉が訪ねて5日間滞在した。そのときに詠んだ短歌は最低でも57首あり、それらは歌集『石泉』に収録されている。昭和1桁の当時の様子は、中川町のサイトに詳しい記載がある。

* * *

こうしたことを読むと、改めてまた現地に行きたくなる。旅とは、再訪することだと思っている。


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(kashmir3D+地理院地図+スーパー地形に加筆)

●子岳小学校
 
 
 
 
 
子岳小学校。2012年3月末で閉校。閉校時には3名の児童が在籍していた。校舎も体育館もきれいに保たれている。門柱にも「子岳小学校」と掲げられたままだ。

 

閉校記念碑。

●西山小学校
 
ナポレオン岩の展望所から。左に西川小学校。

 
 
こちらが正門。

 
谷側の入口。「裏口」のように見えるけれど、実際はこちらからなんだろうな。

 
 
閉校記念碑。2013年3月末閉校。

 
 
最後の学期の掲示物がそのまま残されている。

閉校となった校舎は、たいていそうなっていて、下駄箱の氏名札などもそのままだ。こういうのは、教師たちが片付けをしたりしないのだろうか。そういう片付けは、教師の役割ではなく、別の職種の人(例えば役所の別の係とか)がすべきことなのだろうか。

理由はわからないけれど、こうして、最後の児童・生徒の氏名札や最後の掲示物が放置されているのは、そこに学校があったとき記憶を留めるというよりも、逆効果な気がする。





 
 
早明浦ダムから北上する県道を走っていて、給油所跡を見つけて停まったら、その反対側に「済美小中学校跡」という表示とともに、校舎があった。

 
 
すごくきれいに整頓されていて、トイレはウォシュレットになっていた(覗いただけ)。どうも、キャンプの炊事場のような整備がなされている。と思ったら、この校舎とグラウンドは「白髪山ふれあいの村休養センター」という、キャンプ場兼宿泊施設になっていた。ここに立ち寄ったのは15時すぎ、この日の寝床はまだ決まっていなかったが、といっても早すぎるし、食糧を調達するには早明浦ダムまで10km以上戻らなくてはならない。それが気分的にめんどくさい。

 
校門の跡。

 
教室内を窓越しに。使わないと、こうやって傷んでくるんだな。

小学校としては1978年閉校のようだ。ぼくの小学校入学が1978年だから、もし閉校時に1年生がいたとしたら、ぼくの1学年上だ。それから数年はもっとも子どもが多い世代だけれど、その時代に閉校したんだな。






 
 
延岡に泊まったので、九州から四国に渡るのに佐伯~宿毛航路があれば最適だったのだけれど、ないものはない。佐賀関10時発のフェリーを目指して一路北へ。ところが、現地に着いて港の駐車場に入ろうとしたら、駐車場の交通整理の人が「予約ある?」。聞けば、予約がなければ次は13時」とのこと。さすがにあまりに時間の無駄なので臼杵~八幡浜航路を調べ、電話をすると、11時35分発の予約がとれるという。一安心して来た道を戻る。今回、こんなのばっかり。そして着いた臼杵港が上の写真。

 
地獄に仏的な。1時間以上前に着く。まだ窓口開いてない。もちろんフェリーも着いていない。

 
隣には宇和島運輸フェリーの窓口。こちらはさらに1時間後の出港なので閉まっている。こちらの予約番号を持っている人が間違って九四の窓口に並んでいた。

 
待合室内に弁当屋がある。ちょうど昼にかかる時間帯でもあるし、ただでさえ10時には九州を出る予定が11時半になっているので下船後に食事をしていると時間が相当にキツイのと、おいしそうだったので注文。

 
おれんじ四国が到着。

 

ここにバイクを置いて待機していたのだけれど、ここでえらい目にあった。この可動橋の塗装を剥離する作業が、潜水服を着た人たちで行われていたのだけれど、サンダーで剥離した塗装の粉が風に乗ってバイクや荷物に付着していた。そのまま乗ったらこすれて傷だらけになってしまう。



このとおり。剥離作業をしていたのは専門業者なので、昼休みとして陸に上がってきた作業員に声を掛けた。「エアあったら吹き飛ばしてほしい」。幸い、業者はコンプレッサーを積んでいたので、それでしばらく吹いてもらう。ジャケットの内側に貼り付いたものもおおよそとれた。よかった。

 
 
乗船。さすがにきちんと固縛された。

 
排ガスの匂いが気持ちいい。ずっとここにいたかったけれど、風もあるので弁当を食べづらい。船内に戻って食事。

 
八幡浜港。このまま宿毛まで行く。




 
国道432号沿いにあった木造校舎。いまは庄原市立になった、かつての総領町立総領中学校黒目分校だ。総領中学校に統合されたのは昭和43年(1968年)1月末。いまから50年前の話だ。以降50年、用途を変えてここに存在し続けている。

 
2階は通常の教室が3室と、特別室が2室だろうか。正面玄関の軒下には「黒」「目」という表示だけが残っている。

 
体育館だったと思われるモルタルの建物、でも腰部は板張り、窓枠も木製だ。モルタル部分は、補修で板を剥がして塗ったのかもしれない。

 
軒下には「惣領町公民館 黒目分館」。

庄原市立総領中学校沿革史(PDF)によれば、この校舎の落成式は昭和37年(1962年)7月。つまり5年しか使われなかったことになる。また、先のモルタルの体育館は昭和30年(1955年)落成。ならば、そちらのほうが古いので、補修がなされているのも頷ける。

現在の総領中学校は、各学年1クラスで、1年生9人、2年生13人、3年生17人の合計39人。黒目分校の統合の1年前に設けられた寄宿舎も平成25年3月末で閉鎖。いまはスクールバスだろうか。

こちらのPDFに、庄原市立の小中学校の実態がある。



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