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『劒岳<点の記>』における新田次郎の視点は一貫している。
唯物的な視点である。

立山信仰の中で「登るべきではない山」とされていた劒岳に、
これでもかこれでもかとそういう視点を投げかけ、
立山信仰を削り取っていく。
「美」ということは一切語られなくなっていく。

玉殿の行者も、列車の中で出会ったその仲間の行者も、
「登るべきではない山」という視点そのものを拒絶する。
あまりに宗教的な存在であるはずの行者というものが
そうであるという時点で、これは強烈な印象となる。
長次郎や鶴次郎は、ただただ現代風である。
柴崎は、義務感と現代風とを併せ持つ。


ついに劒岳に登頂する。
しかし、三等三角点は造れず、よって「点の記」は存在しない。
このことが、どれだけ柴崎らをくじいたことか。

劒岳山頂には、はるか昔に捧げられた錫杖と鉄剣があった。
これらは、ビヨンド・ザ・「美」の「崇高さ」とは別な意味での崇高なものではあるが、
柴崎らはそれを崇高な存在から引きずり下ろそうとする。
上司たる陸軍陸地測量部はその最たるもので、
「先人があったのなら、劒岳登頂なぞ偉業ではない」という立場をとる。


では、同書において、美の上に崇高さはあったのか?
私は「あった」と考える。

劒岳登頂を不可能たらしめる岩の存在は、完璧な「美」であろう。
そして、山頂に三等三角点を設置できず、
陸地測量部に劒岳登頂のことを理解してもらえず、
後日も劒岳に関することはほとんど語らず、
ただひたすらに胸のうちにしまっていた柴崎。
その「胸のうちにしまっていた」ことそのものが、
「美」を完全に超越したもとして描かれている。
すなわち「崇高さ」である。
これを胸のうちに秘めたまま、柴崎は老いてゆく。
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『廃道本』におけるnagajis氏の記事によれば、18世紀初頭の自然崇拝思想の中で、
エドマンド・パークなる思想家は「美」と「崇高さ」を切り分けたという。
「美」の上位に「崇高さ」があり、「崇高さ」とは恐怖を伴う美であるという。
新田次郎の『劒岳 <点の記>』を読んでいて、これを想起した。

主人公が、劒岳初登頂を試みる日本山岳会の考えについて触れる場面である。

時間と金を使い、危険な目に会っても尚未知の自然に近づこうという彼等の意気込みは、
学者や芸術家が身を挺して真理や美を追求してやまないのと似たところがあります。

この時点では、まだ「美」であり、「崇高さ」には気が付いていないようだ。
これが、どう描かれていくのかは、また後日。
両者ともに、常盤橋を重要なポイントとして設定している。
現存しないこの橋の描写が優れているのはやはりもりた版で、
質感からなにから、橋の様子が浮かび上がってくる。

阿井版では、イメージがわかない。
物語としてどちらがおもしろかったかといえば、もりた版である。

阿井版は、タイトル通り妻の目からみた三島の存在感であり、
三島と家族(二人の権妻を含む)の物語である。
史実の細かな記述があるので、そういう面では資料たりうる。
ただし、物語としてはエピソードごとに数か月ほど前後したりするので
スッと頭に入ってこない。

もりた版は、高橋由一が主題ではあるが、
本書の主題である由一と三島との関係を結ぶ高崎正風や
岸田吟香(岸田劉生の父)の名脇役ぶりが楽しい。
由一や通庸の人物像はしっかりと固定されているのも読みやすい。
由一にとっての三島の存在と、三島にとっての栗子隧道の存在が
同等、同格に描かれていると感じる。


雪がなくなるころ、栗子隧道に行こうと思う。
三島通庸の描き方を見てみよう。

阿井版の主人公は、タイトル通り妻・和歌子である。
そのため、夫はよき人である。
野心家でも傲岸不遜でもない。
とってつけたようにそうした表現が入ることもあるが、基調は「よき人」である。

酒田県令になったのは、長州閥の伊藤博文に「追放」されたとあり、
そこに三島にとっての絶対的存在である同郷の大久保利通が
地方の鎮撫、「徳化」、「皇化」のために行ってくれ、と依頼する。

福島県令兼任については「自由民権運動色の濃い福島県庁の人事を一新するため」
とあり、「弾圧のため」というニュアンスではない。

栗子隧道は、山形県発展のために必要なものとして描かれ、
その他通庸が建設したものすべて同様である。


一方、もりた版では、あくまで由一と対峙する、しかも由一より高みに立っている存在として
由一が身分をわきまえずに「同等、同格」になろうとする相手として描かれている。

酒田県令になったのは、排斥されたというニュアンスはなく、
大久保が未開地を開化するために派遣したとされている。
福島県、栃木県と異動するのは徐々に中央政府に近づいていき、
事実、最終的に三島は警視総監になるのではあるが、
そのための地方修行、というニュアンスである。

栗子隧道は、山形から中央へと脱出するための出口であるとともに
国家の中枢に食い込む入口として描かれている。


これだけ異なる三島像であるが、三島が見せる高橋由一への態度は、
両書とも非常にそっけない。
三島は、あくまでも発注した一業者としてしか見ていない、という描かれ方である。
阿井版は、由一に重きを置いていないため。
もりた版は、こうしたほうが構図が簡単になるため。
誰が物語を書いても、三島と由一の関係はこのようになってしまうのであろうか。



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