もりた版である。
新潮日本美術文庫23『高橋由一』によれば、 明治14年10月25日付の新聞に、山形滞在時に 由一は10点を仕上げたとの記事があるという。 しかし、もりた版では「栗子山隧道図」のみを納めたように描かれている。 確かに、物語の筋からいえば、山形滞在中には「栗子山隧道図」だけを 悩んで悩みぬいて仕上げる、というのが話が作りやすいであろう。 しかし、読者はこれを事実と受け止めてしまう。 縁戚の「和子」とのこと(これも事実か否かは不明)なども、事実と受け止めてしまう。 物語の展開上、人物を創作してしまうのはよくあることである。 手塚治虫もよく使う手法である。 だが、こんなんでいいのか、物語というのは? PR
両者を読了。
どちらも参考資料に同じものをあげながら、 事実たるべき数値が異なるのが興味深い。 栗子山隧道について、もりた版では辻褄があわない。 ・明治13年12月貫通 ・明治13年7月19日貫通 ・明治13年10月19日拡幅完成 わずか3ページの間にこうした記述が出てくる。 天皇行幸に伴う開通式は、 ・明治14年10月3日午前10時 としている。 阿井版では ・明治13年7月中旬 東西それぞれ坑内で互いの鑿音を聞く。 両者間、60間と見積もる ・明治13年10月19日貫通 ・明治14年6月「残工」あり 天皇行幸は、 「明治14年10月3日夜半(改行)、通庸は米沢をあとにして夜明けに栗子隧道に達し、 開通式典の準備を行う」 「午前10時、天皇の乗る板輿が着御」 という記述から、翌4日に天皇が現地をおとずれたように読める。 私自身が出典を確認したわけではないため どちらを正、どちらを誤とすべきかはわからないが、 貫通というのはただ一点が通じただけであり、 拡幅し、覆工し、天覧にふさわしい仕上げを ほどこさなければならないことを考えれば、 矛盾がないのは後者である。 一方、天皇の行幸については、前者が正しいようである。 www.city.yonezawa.yamagata.jp/kanko/rekishi/pg/r07.html (米沢市の歴史探訪のページ)
三島通庸を2冊、田邉朔郎を1冊、それぞれ人物評伝を読みつつある。ドキュメンタリー形式のものは脚色が多くはあるが、年月や登場人物は事実であろう。私が二氏に対して持っていた印象がどう変わるか、楽しみにしつつ読んでいる。
『廃道本』にある保台清澄連絡道路に行く予定だった。
yokkiren氏によれば、逆ルートで行けば、 片洞門からいくつかの隧道までなら 比較的楽であるそうだ。 自転車を積みカメラを積み、家を出た。 しかし、家を出てしばらくクルマを走らせたところで やむを得ぬ事情により引き返すはめになった。 一日ふて寝した。 年末にも行こうと思って行けなかった。 もしかすると縁の薄い道なのかもしれない。 「次回」はあるのだろうか? |
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