もりた版である。
新潮日本美術文庫23『高橋由一』によれば、 明治14年10月25日付の新聞に、山形滞在時に 由一は10点を仕上げたとの記事があるという。 しかし、もりた版では「栗子山隧道図」のみを納めたように描かれている。 確かに、物語の筋からいえば、山形滞在中には「栗子山隧道図」だけを 悩んで悩みぬいて仕上げる、というのが話が作りやすいであろう。 しかし、読者はこれを事実と受け止めてしまう。 縁戚の「和子」とのこと(これも事実か否かは不明)なども、事実と受け止めてしまう。 物語の展開上、人物を創作してしまうのはよくあることである。 手塚治虫もよく使う手法である。 だが、こんなんでいいのか、物語というのは? PR |
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