英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(番外1-1)山形鉄道最上川橋梁
英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(番外1-2)山形鉄道最上川橋梁 と並行して県道が走っていて、荒砥橋という橋で、最上川を渡っている。 カンチレバー・プレートガーダーである。といっても、それほど支間が大きくは見えない…。 左に切れているのが碇着桁、その右隣りが吊り桁である。吊り桁がのしかかっている部分は、雨どいが2本並んでいるのでわかりやすい。また、画面内に山形鉄道の最上川橋梁が見えている。 接合部を下から見る。右が碇着桁、左が吊り桁。張り出しは、たったこれだけ…。 接合部は剛結してはあるが、大きな地震があったらずれてしまうのではないか、と思うような…。 並行して、上流側には歩道橋が架けられている。こちらは箱桁の通常の橋だ。カンチレバーではない。 PR
昭和59年(1984年)3月末に廃止された国鉄赤谷線の、東赤谷駅の先に日鉄赤谷鉱業所の専用軌道があったのは広く知られている。平成10年(1998年)に廃止になった…はず。いま思えば、クルマやバイクなら自宅から1時間ちょっとで行ける場所にこんな鉄道があったなんてにわかには信じ難いが、自転車で30分の距離にあった専用線すら行ってないのだから灯台もと暗しというかなんというか。
周辺にはひとつ有名なプラットトラスがあるのだが、今回はこちらの鈑桁。 けっこうな高さがある。スパンは十数メートル程度か。このプレートガーダーは、まるでターンテーブルの桁のような魚腹型をしている。この手の桁は、ターンテーブルとかクレーンのビームでしか見ない気がする。桁の中央部がもっとも力がかかるので理にかなってはいるのだけれど、不自然さは残る。 桁の向こう側には旧橋の橋台が残る。 向かって右の柵ごしに。 その柵の手前には駒止つきの路盤跡。画面左下方向には比較的新しいコンクリート製の隧道があり、数メートル奥でコンクリートで封鎖されている。 対岸から桁の上面。こうしてみると、軌道幅610mmというものの「狭さ」がよくわかる。同時に、ここまで幅広いフランジ(桁上面。I型の桁の上面)が必要なのかとも思ってしまう。もっとフランジ幅を狭くしてもいいのでは? なかなか厳しい場所にあり、桁を接近しづらい。この桁の出自がわかると面白いのだけれど。
赤谷線の廃線跡を訪ね、並行する道路を走っていると、それまでほとんど廃線跡らしいものがなかったところに突然でてくるこのコンクリートの塊に驚くはずだ。この橋を不動橋梁だ。
上の写真では、コンクリートの「こちら側」は築堤だったはずだ。これだけ切り下げられたのだ。 向こう側の橋台に、プレートガーダーから垂れた錆びの色がついている。 反対側。こちらはなんとか登れそうだ。 上部に出た。蔓状の植物がのたくってて、一見、ゴザが敷いてあるかのようにも見える。 そこに銘板があった。 運輸省 昭和22年 ては512-11 汽車製造株式会社製作 ---- 材料 L. 日本鋼管八幡製鉄所 ●川崎重工業八幡製鉄所 ●●●●●●(不明)
東新潟港駅付近の廃線跡(夜)
東新潟港駅付近の廃線跡(昼)その1 東新潟港駅付近の廃線跡(昼)その2 東新潟港駅付近の廃線跡(昼)その3の続き。 東新潟港から南下した線路はやがて通船川を渡る。通船川は、その名の通り、阿賀野川と信濃川(現在は栗の木川)をバイパススル運河で、西側に「山の下閘門」がある。阿賀野川側(東側、下流)は貯木場になっているが、上流側にも貯木されている。 スパンの小さな鈑桁3連である。塗装標記に「通船川橋梁」、塗装年月は「199●年5月」と読める。最末期に塗装したのか。 リベット留めであるし、どこかからの転用桁だろうな。 橋台にある銘板には、こうある。 通船川橋りょう 設計 新潟支社 施工 株式会社加賀田組 設計荷重 K.S-16 基礎工 井筒工 鉄筋コンクリート造 圣=6m3 根入=3m7 基礎杭 鋼管杭 圣=318.5mm 厚=6.9mm 長=13m0 20●(←不明) 基礎根入 天端から7m1 着手 昭和42年2月17日 しゅん功 昭和42年12月 上に上がると、現役の線路のようだ。 線路沿いにさらに南下すると、ザイエンスへの踏切があり、踏切を渡ったところで工場の敷地となる。この踏切は警報機も遮断機もある。現役かどうかはわからない。 (了) |
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