渡良瀬川橋梁(東武佐野線)その1の続き。鈑桁と橋脚編。
一部の橋脚がコンクリート製にとりかえられている。トラス桁の橋脚は幅が広く、鈑桁のは狭いので、それぞれの煉瓦製とコンクリート製があり、都合4種類の橋脚がある。上の2枚の写真を見ると、流れの中に建つ橋脚だけが取り替えられていて、溢流部の橋脚は煉瓦製のままだ。 昨日記事の再掲だが、トラス桁を受ける煉瓦製橋脚。 . 対して、鈑桁を受ける橋脚。 トラス桁を受ける橋脚が床石(桁受け部)をコンクリートで補修しているのに対して、鈑桁を受ける橋脚は補修をしておらず、石積のまま。おそらくトラス桁の橋脚ももとは同様だったのだろう。 こんなときに、コンクリート製橋脚を撮っていない自分が情けない。現地ではそういうことに気づかないのだ。 トラス桁の橋脚を斜めから。このように舟形をしている。水切り部分には石材を配置している(隅石)。また、笠石があるのは、この橋の格を示すものか。 トラス桁と鈑桁の架け違い(ではないけれど)部。こう見ると、トラス桁も鈑桁も支承からレール面との寸法が同じであることがわかる。トラス桁の縦桁の高さのほうが、鈑桁の高さよりも低い。 橋台を撮っていないのもバカだなあと思うのだが、ここから鈑桁のことを。 右の煉瓦は橋台。左岸の鈑桁の端部に塗装者の名前が書いてあった。しかし、塗装標記はなかったと思う。 眺めていたら、陽刻があった。 読めるだろうか? リベットのない部分に「DALZELL」という文字と王冠などが浮き出ている。ここだけでなく、何ヶ所かあった。 逆さまになっているが、同じく「DALZELL」、王冠、「STEEL」の文字。イギリスのダルゼル・スチール(DALZELL STEEL WORKS)だ。詳細はいま資料を取り寄せ中(古書を買った。イギリスの鉄鋼史などという本がいくつも出ているものだなあ)。 こういうものを検索しても、日本語のサイトはまったくひっかからない。いや、ひっかかるサイトはあるのだが、それがなんだか解説しているところはない。私がwikipediaに手を出していたのは、そうした資料がないから英語版やドイツ語版のそれを見るのがてっとりばやい、どうせなら同じ思いをした人に役立つように、ということからだ。DALZELLは日本の鉄道とも深く関わっているようなので、いずれ新規項目を起こそうかと思うが、いかんせん英語版すらない。どこまで書けるか。 銘板。ほとんど読めない。かろうじて「東京石川島」(右書き)というように見えるくらいか。 めんどくさがらず、他の鈑桁もまわって銘板を見ておけばよかった。いつも同じような後悔をする。 現在、この渡良瀬川橋梁のトラス桁は、おかしな部分に架かっている。通常、スパンの長いトラス桁が本流をまたぎ、スパンの短い鈑桁が溢流部にあるのだが、衛星画像で見ると、トラス桁はなかなか理解しがたい位置にある。 そう思って、国土変遷アーカイブを見ていたら、1947年には、かろうじて本流を跨いでいた。それが、1961年になると、もう現在のものに近くなる。ということは、50年以上、トラス桁は「陸に上がった魚」みたいな状態になっているのか。流路は興味深い。 PR
中央本線須原駅のポーナル桁の続き。
2010年1月、中央西線に乗った際に見つけた須原駅の予備桁。 (そのとき、列車内から撮影) それを間近で見てみた。 駅前から見ると、こんな感じ。 プレートガーダーとしては小さなものだけれど、手前の軽自動車と比べればかなり長い、大型トラックに1本、載るかどうかという大きさではないだろうか。 奥に保線用車両が見えることから、ここ須原はそうしたベースなのだろう。 別角度。桁は、古くなったPC枕木に載せられている。 プレートガーダーのシチサン写真なんて、なかなか撮れるもんじゃない。とはいえ、桁は高い位置に置いてあるので、見上げたような形になってしまう。 断面。左右の主桁をつないでいるのは□型のブラケット! これは小野田滋氏の『鉄道構造物探見』で見たことがある方も多いのではなかろうか(掲載されているのは別の橋梁)。 同書によれば、これは作錬式というもので、日本で初めての標準桁(当時は「定規」と言った)である。材料は錬鉄。 この□型ブラケットのコーナーを拡大する。 水平部分と垂直部分、そしてそれを結ぶコーナー部は、一枚の鉄板をくりぬいたものではなく、帯材を溶接したものに見える。そして、主桁内側は、□型ブラケットと、垂直の補剛材(スティッフナー)が交互に設置されている。 外側もそれに近い。 スティッフナー両側にリベットがあるものと、片側にしかないものが交互にある。 このスティッフナーは、ポーナル桁の特徴である〔型をしている。 塗装標記。真正面から撮っていないのは、敷地に入ってしまうから。 (右側) 1.記号番号 名災-10 2.所在 木曽福島工務区 3.支間 12M8 4.強度 KS-11.4 5.重量 7t555 記号番号から、こうした桁が名古屋の管理下で最低でも10本、あることになる。また、強度(活荷重だろう)がKS-11.4と、国鉄制式からはずれているのが、おそらくヤード・ポンド法の時代の名残と見え、年代を感じさせる。 (左側) 塗装年月 2004年8月 塗装回数 3回塗 塗装種別 下塗 シアナミド鉛さび止めペイント 及び塗料名 中・上塗 長油性フタル酸樹脂塗料 塗料メーカー 大日本塗料株式会社 施工者 株式会社 鈴木塗装工務店 こうした桁も、塗装をして維持しているということに、まあ考えてみれば当然なのだが、驚いた。 この桁の「向こう側」は駅の敷地内、というよりも業務用エリアなため、立ち入っていない。そのため、銘板がついているかどうかは不明であるが、前回の記事の写真を見る限り、銘板はなさそうだ。 秩父鉄道の和銅黒谷駅近くの、何の変哲もない橋。なんとなく古びた橋桁だな、と思ってとりあえず撮った。数を集めれば何か新しい知見が得られるかもしれない、程度のつもりで。 銘板があった。まるで道路トンネルの坑門にあるみたいな、黒い陽刻。 東鉄工業製!?
1980年3月
秩父鉄道株式会社 活荷重KS16 支間10.68M WTG810 W 12.5T A256● 材質 SS41 SM41 製作 東鉄工業株式会社 東鉄工業とは、簡単にいうとJR東日本が筆頭株主である、軌道保守や鉄道・道路の土木工事などを得意とする東証一部上場のゼネコンである。少なくとも、事業内容には「橋桁製作」みたいなものはない。強いて言えば「土木、建築工事用資材の販売」が当てはまるか。 また、桁の製作年も意外や意外、新しかった。1980年に架け替えられたということだ。よく見ると、古い桁ではリベット留め、ボルト留めであるようなあらゆる部分が溶接されている。といっても『鉄道構造物探見』によれば、下路鈑桁で溶接構造となったのは1955年(昭和30年)からだそうなので、自分が見た範囲が狭すぎる、あるいは何の変哲もない鈑桁が見えていなかった、ということになる。 塗装標記。通常、記載されている橋梁名の記載がない。そもそもこの塗装標記、なにか定義があるのだろうか。
塗装年月日 1991年3月20日
下塗 SDシアナミドサビナイトJIS-K-5625-2種 中塗 橋梁用SDマリンペイント中塗JIS-K-5516-2種 上塗 橋梁用SDマリンペイント中塗JIS-K-5516-2種 施工者 内藤塗装工業(株) 下塗の「サビナイト」という名称が興味深い。こうしたダジャレネーミングは土木事業に関係する製品名ではよくあることだ。関西ペイントでいまでも取り扱っている。(PDF) また、溶接構造であることもよくわかる。 桁裏。主桁、横桁、縦桁はそれぞれボルト留め。主桁、横桁、縦桁それぞれは溶接だ。 ちょっといろいろ反省させられる出会いだった。ほんと、見るたびに発見があるよ。 きっかけは@golgodenkaさんがアップした写真だった気がする。@adusa2gouさんだったかもしれない(すみません)。国道20号が山梨県から長野県に入るときに渡るのが「新国界橋」である。その旧橋の写真がアップされているのをみて、その存在に驚いた。 (golgodenkaさんの記事はこちら『国道 20 号旧道【旧国界橋】 - 発見当初は廃線跡かと思った』参照) そのすぐ近くには「道の駅蔦木」があり、その裏手はゲリラキャンプをするのにちょうどいい場所になっている。何度もキャンプをしているし、あるいは何度も車中泊もしている。山梨県側にはセブンイレブンがあり、そこまで何度も国道を歩いている。それなのに、この橋の存在に気づいていなかった。 ここに、丸田祥三さんと向かった。廃道写真集の撮影で、とある山中を3~4時間ほど歩いた後、ちょっと離れてはいるけれど丸田さんのご厚意でそこに連れて行っていただいた。 信号を南に入るといきなり砂利道。幅員はまあまあ。前方に、ネットと橋が見える…。 砂利道の幅と、橋の幅を見比べていただきたい。 どん。 獣害除けのネット。電流が通じているので、その向こうに国界橋が見えながらも行けない。ぐぬぬ。 現地の左右は畑、もちろん中に踏み込むことは不可能。 よく見ると、向かって右側にはさらに旧橋と思しき橋台がある。 (赤枠の部分) 振り返って交差点のほうを見るとこう。 この細い道が、かつて国道20号だったとは、にわかには信じがたい。 畑に降りる道があったので、そこから。上記の砂利道部分は、きちんと盛り土してあり、側面は石垣で固められている。 こちら側からの侵入はあきらめて、反対側に向かう。反対側からは行けるというのは、golgodenkaさんからお聞きしていた。 もうすっかり日が落ちてしまったが、それゆえに荒涼感を醸し出す。 欄干というか、ンプレートガーダーの主桁の高さがない。 こうして桁の側面と路面の高さを見ると、中路であることがわかる。 欄干に見えるけれど、主桁。 その一角に、銘板。昭和四年。1929年。82年前。 昭和4年ならば、まだ金属の節約をとかくやかましくは言わない頃だ。もし15年後だったら、きっとコンクリート製になっていただろう。そして、廃な風景のあり方も変わっていただろう。 |
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