(タイトルを「神田川橋梁」から「御茶ノ水橋梁」に変更。詳細末尾に)
暗渠クルーズと小石川橋通架道橋のつづき。 飯田橋から神田川を下った。御茶ノ水から秋葉原にかけてはすてきな橋梁が連続するが、まずはこれ。東京メトロ丸ノ内線が、本郷台地を出て神田川を渡り、また本郷台地に潜っていく、あの橋だ。神田川は、江戸時代初期、秀忠の時代に本郷台地を深く開鑿して作った人口河川なので、このようなことになる。 この橋梁の名称、実は未詳。仮に神田川橋梁としておく。今回も写真をアップするのみ。 桁裏。すさまじい斜橋っぷり。 桁裏。奥の兄弟は右岸(JR駅側)。レール直下にある縦桁に横桁が剛結されている部分は、微妙に縦桁が位置をずらしている。これは、複線のレールを全体的に下流側に寄せて設置しているためかもしれない。冒頭の地図を「航空写真」に切り替えてご覧いただきたい。 左岸側(本郷側)の支承。こちらがローラー。地震対策か、支承がズレないようなストッパーの形状が独特。また、支承に向けて監視カメラが設置されている。 本当は銘板も撮りたかったのだが、遠すぎた。 支承。右岸・上流側。 支承。右岸・下流側。 ここは下路鈑桁となっているが、今回のクルーズのように(?)船が航行することを考えると桁下高さは多ければ多い方がいいため、下路式になったのだろう。 また、橋台には段差があり、一組の支承の間だが、まるで桁の端梁を支えるかのようになっている。 ここをもっとしっかり観察しなかったのは不徳の致すところです。 当初、この記事は「神田川橋梁(仮)」としていたが、golgodenkaさんのご指摘により「御茶ノ水橋梁」ということが判明したので記事名を書き換えた。この記事を書いていたとき「なぜ塗装表記を撮らなかったのだ!」と悔やんでいたのだが、水面からは撮れない位置だったと言い訳しておこう。 golgodenkaさんの記事も合わせてご覧いただきたい。 東京メトロ丸ノ内線(淡路町~御茶ノ水)【御茶ノ水 橋梁】 PR
東海道本線上神崎川橋梁(上り内外線)
東海道本線上神崎川橋梁(下り内外線) 東海道本線上神崎川橋梁(梅田貨物線) の続き。 この4複線のうち、最後に架設されたのがこの北方貨物線である。それでも1941年(昭和16年)、リベット全盛の時代だ。 画像右は梅田貨物線。左が北方貨物線だ。 この4複線区間、東から3組はトラス橋なのに、この北方貨物線はプレートガーダー橋。スパンは同じなので、簡単に言えば技術の進歩でわざわざトラス橋にしなくても経済的なプレートガーダーで済むようになった、ということだ。 銘板。 「すば829」の「すば」は後述する。「829」は、活荷重KS18、支間長29mという意味だ。支間長29mは、梅田貨物線や上り内外線のトラスの支間長に等しい。 桁裏。やはり手前側に網がかけてある。 私はこれを見て「上路なのに主桁が複線の両側にあって、線路用に別に縦桁があるのか、下路式プレートガーダーの、床版をそのまま上に上げたみたいだな」と思ったのだがちょっと待て。そんなことするのは、中路式プレートガーダーではないのか? 最初、上の銘板も「でば」(でっくばんげた)だと思っていた。思い込んでいた。でも「中路ではないか?」と思ってよく見ると「すば」(するーばんげた)だった。そうか、中路式か。 縦桁の部分。 右端、色をとばしているのでわかりづらいが、明らかに線路よりも天方向に突き出している。中路確定。中路はあまり多くないうえ、複線桁である。そう気づいたときには嬉しかった。
12月18・19日と、小浜線・北近畿タンゴ鉄道に乗ってきた。ただただボケッと乗っていただけで、気になるものがあってもカメラを向けずにいたのだが、気づいたことも多かった。
由良川橋梁は、走行動画を撮った。 この由良川橋梁を、列車はゆっくりと走行した。そのため、普段は気づけないことに気づいた。枕木の加工である。 この由良川橋梁はリベットが多用されたプレートガーダーであり、フランジとウエブをつなぐのもリベットである。そのリベットは、当然上面、すなわち枕木が載る面にも出ているわけで、そこの処理がどうなっているのかなど考えたこともなかったが(なにしろ上面を見る機会よりも下から見上げる機会のほうがずっと多い)、こんなふうになっていた。 枕木が、主桁の、フランジの幅だけ欠き取られているのは村田川橋梁の記事でも書いたが、ここのものはそれにプラスして(だったと思う)、リベット頭部が干渉する部分は枕木をえぐってあるのだ。 動画を撮影していたため、その証拠写真はない。 今度、他の古い鈑桁を見る際は、上面も見るようにしよう。 なお、歴史的鋼橋集覧の記事はこちら。
ちょっと変わった外見のプレートガーダー橋。3連。橋梁の名称は不明である。場所はここ。八幡運河に架かる。
なんかおかしい…と感じませんか? その違和感は、上面にも側面にもある。 通常、プレートガーターの上面は、左右の主桁をつなぐ横構があるだけで、スカスカだ。また、側面は、主桁を補強する 桁の中間に添接板がある。この桁の場合、上面もプレートなので、上面にもきれいな帯状に添接板が留められている。ボルトはトルシア型高力ボルト。 また、側面を見ると、うっすらと、ミミズ腫れのようなスジが浮き出ている。これはきっと、スティッフナーが内側にあるのだろう。と思って裏側へ。 おお。裏から見れば、左右の桁をつなぐ横構も、桁の補強材であるスティッフナーもきちんとある。しかもそれらがΠ字型に剛結されている。 横構に丸い孔があき、ワイヤーのようなものが通っているようにも見えるが、さにあらず。天板側から、半円と円がひとつずつあき、その部分に長手方向の補剛材が溶接されている。そして、その補剛材にも孔があき、半円と円の間の鼓型の部分を逃がしている。なかなか立体的な造形をしているのだ。 この画像は桁の裏側を写すために、下部構造が飛んでいる。下部はこう。 なんだか不自然な形をしているなあ。橋脚左側にある犬走りみたいなのはなんだ。 そう思ってこの桁の銘板を見るとこうだ。 (上)
京葉臨海鉄道株式会社 1993年1月 KS16 支間22.650m 28.014T 382M^3 株式会社宮地鐵工所 (下) 材料 9.10.14.16. SM41A 新日鐵 22.25. SM41B 新日鐵 36.48. SM41C 新日鐵 9.10.16. SM41A 新日鐵 22. SM41B 新日鐵 1993年に架け替えられている。 では、架け替え前の橋はどうだろう? 1974年の航空写真で見てみる。 トラス橋がかかっている。おそらく、この新橋は橋長約60mで、古い橋は200フィートクラス(約60m)に違いない。 例によって、『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁・その2』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)を参照すると、あった。 旧橋の名称は八幡運河橋梁(であるので、ここに紹介するのも同じ名称だろう)。1911年アメリカン・ブリッジ製200フィート単線プラットトラスで、元々は東海道本線の大井川橋梁上り線として1958年頃まで使われいたものを転用し、1963年にこの地で開通させたものだった。なお、京葉臨海鉄道には同様の経歴を辿る村田川橋梁があり、そちらには、きちんとその桁が残っている。後日書くつもりだ。 このトラス橋が八幡運河を一またぎしていたのだから、先の橋脚は新桁設置と同時に設置されたものだろう。ますます、左側の犬走り状の部分の意味がわからない。では、橋台部分はどうだろう。 ん…。トラス橋時代の橋台がどうだったかがわからないので比較しようがないな。では、旧橋と同系の桁である、京葉臨海鉄道村田川橋梁の橋台を見る。 おお、新桁と同じくらいの深さはありそうだ。といっても採寸したわけでないため、あてずっぽうだ。「ずっぽう」ってなんだろう? 図らずも旧桁に話が飛んだが、銘板に戻る。銘板付近はこうなっている。 気になるのは、桁を結ぶ落橋防止プレートである。ばかでかいコッタピン。 また、実は斜橋だ。両端の橋台はそうではないので、橋の架け替え時に新たな橋脚を立てる際に、流れを妨げないように、橋脚を斜めに設置する必要があったのかもしれない。 また、桁の端部を見ると、そこだえスティッフナーが外に(も?)ついていたり、フランジ(主桁の下側。断面:エの字の下の横棒に相当)の横幅が広くなっていたりする。 この橋は、平行する道路橋からじっくり観察できる。今後数回、千葉ネタを書くつもりだ。
米坂線の玉川橋梁と杉橋梁に残る銘板について記す。
玉川橋梁はここ。 開通したのは1936年8月31日。この小国~越後金丸間の開通を以て、米坂線は全通した。 この部分にかかる橋は、4連のプレートガーダー。 左が坂町方、右が米沢方。正式名称は知らないが、起点側=米沢側から、第1連、第2連…とすると、第1連は短く、第2連は一番長く、第3連は短く、第4連はすごく短い。 これが第2連・第3連だ。 これらのうち、第2~第4連の銘板が見えた。まず、第2連。 一番長い桁は、支間51.7mでトピー工業製だった。 次いで第3連。塗装標記から、支間19.2m。 第4連。塗装標記から、支間9.8m。 土木学会誌22巻9月号(1936年)の時報に「全通近き今坂線」(今坂線=今の米坂線)という記事がある。その中に、「第2荒川橋梁 101.3m」とある。 トピー工業製の第2連だけが、KS-16であり、また桁製作が1967年となっている。これは、1967年8月28日から翌日にかけての「羽越水害」で、この桁だけが傷んで交換せざるを得なくなったということだろう。羽越水害については小国町のサイトに詳しい。 なお、第1連の銘板や塗装標記は確認していないが、上記「101.3m」から類推するに、第1連の支間は19.2m(第3連と同じ)ではないかと思う。 次に、杉橋梁。この区間(手ノ子~羽前沼沢)の開通は、1933(昭和8)年11月10日。場所はここ。 左端が米坂線の杉橋梁。真ん中はR113号の旧道。右は現道。 こんな感じで銘板がある。 鉄道省
活荷重KS15*(で出519) 株式会社●● 松製作●● 昭和八年***1379 ------- ** L.八幡製鉄所 L.日本鋼管株式会社 ●:●●●●●● ●:●●●●●● 鉄道用橋梁は、一定の範囲でテンプレート的に設計済みのものを各地に据え付けていく。ここ米坂線でもそれは例外ではなかった。玉川橋梁は活荷重KS12、杉橋梁はKS15。開通時期が異なるため、杉橋梁が架設された時期(米坂東線建設時)はKS15だったのが、全通区間(伊佐領~越後金丸間)はKS12で敷設されたのか…などとも考えてみたが、その差は3年しかない。そのため、杉橋梁がKS15である理由は謎である。 一方、玉川橋梁の第2連の活荷重がKS16であることは、単に、桁が1967年に作られたからに過ぎない。当時はKS16とKS18でしか桁を作らなかったはずだ。 なお、こうした活荷重は、「クーパー荷重の解決」に書いたとおり、1D+4軸の機関車が重連で走ることを想定している。そのため、桁そのものが負担できる荷重としては、総重量から考えると、軸重が多少上回る機関車でも入線は可能だ。実際、そうした経験値で特例があった例はいくつか聞いている。 いつか、米坂線の全橋梁を調べてみたい。 |
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