![]() ![]() 北上川河川歴史公園にある、北上川分流施設群の一群。 ![]() 右の堤が鴇波洗堰。上部は道路になっている。左が鴇波水門。左から右に向かって流れる。 北上川分流の計画では、当初、この鴇波洗堰だけが考えられていた。その時はこの「上」に堤防を築くことが考えられていたが、地盤がよくないことから南側にもう一つ、脇谷洗堰を設置して、機能を分担した。どちらも竣工は1932年。鴇波水門は、洗堰の老朽化に伴い、2006年に設置された。 ![]() 鴇波洗堰の上流側。18門のオリフィスが、常に一定量の水を下流に流している。右は魚道。 ![]() 鴇波水門。下部に開口部がある。そこにライジングセクターゲートが設置されている。その動きは「横たわった円筒の外周に沿って動く」というイメージ。この方式が採用されたのは、景観対策のため。ローラーゲートのように上部に大きく張り出さないためだ。 ただ、雨が降ってきたこともあり、下流側をきちんと見ず、写真も撮っていないのは迂闊すぎる。 ![]() こちらは鴇波締切堤の説明。ここは広大な公園にただ道路が通っているだけのように見えるが(その道路を抜け道として使う地元の方にとってはそういう存在だろうが)、冒頭の地図のように、堤防であり、堤防道路である。 【関連項目】 旧月浜第一水門 脇谷閘門・脇谷洗堰 PR ![]() 北上川河川歴史公園にある、北上川分流施設群の一群。 ![]() 手前の流れが(旧)北上川。左の円筒が脇谷洗堰。川の対岸の施設が脇谷閘門。 ![]() ![]() 脇谷洗堰。水面が穏やかなのが上流、白波が立つのが下流。洗堰の水面下に六つのオリフィスがあり、通常はそこから旧北上川に分流している。右岸側の欠き取りは魚道。上の写真に五つの点(?)があるが、その5ヶ所と魚道の下がオリフィスか。 増水の際には堰を越流する。河川ネットに越流時の写真がある。 ![]() 上流側閘門を上流から。ゲートは閉じている。 ![]() かわいい小屋。 ![]() ![]() ゲート開閉用のカウンターウエイト。チェーン駆動。2組ある。 ![]() ![]() 上流側の背面。大きな円のようなものはギヤの覆い。大と中がある。操作室内から2本のシャフトが伸びている。上側のシャフトが写真手前(下流面)用。シャフトの先に(たぶん)ベベルギヤがあり、回転軸が水平から垂直に90度変わり、中くらいの覆い内の(たぶん)スパーギヤでクラウンギヤを回す。同軸の小歯車は大きな覆い内の大きな歯車を回し、ゲートが上下する。 下側のシャフトは、回り込んでチェーンをかました上でゲート装置内部に入り、もう1組のゲートを操作する。 ゲートは上半分と下半分に別れている。だからカウンターウエイトも2組ある。 ![]() ![]() 下流側の閘門。ゲートは開いている。桜が満開、でも見に来ている人はいない。ゲートの開閉装置は上流側と同じなので、割愛する。 ![]() 小屋がかわいい。 ![]() その先、導流堤(?)の下流端。石積み。 ![]() 説明板。 ![]() 後年、追加された脇谷水門。 ![]() 説明板。 * * *
さて、この北上川の分流地点。古い地形図を見ると、いまの「新」北上川の流路に市街地があって、「えっ?」と戸惑う。この事業ために、柳津はまるごと移転したのだ。 ![]() (今昔マップ 東北地方太平洋岸 1901-1913年に着色加工) これは分流前。 ![]() (今昔マップ 東北地方太平洋岸 1949-1953年に着色加工) これは分流後。左岸に位置していた柳津町の市街地が、新北上川の本流にかかるため、ごっそり 北側に移転している。 北上川・迫川・江合川の流路は伊達政宗の時代、あるいはそれ以前からたびたび改修されてきた。洪水対策でもあり、舟運のためでもあった。その記録に曖昧な部分もあることから、「旧」北上川の流路も開削されたものだとする説もあるが、どうもそれは信頼性が低そうだ。 北上川は、古くは北上川のもう少し上流、錦桜橋付近から西へ迫川のほうに向かい、迫川に合流していたようだ。現在の地形データでは、圃場整備のためか、そのルートが逆に微高地となって浮かび上がる。改めて探訪してみたい。 ![]() 北上川の改修…開削された「新」北上川が分流する地点に、北上川河川歴史公園がある。そこには、分流するための新旧施設のほか、北上川の歴史に関する土木構造物がいくつか保存されている。 ![]() 北上川河川歴史公園はここ。この旧月浜第一水門は、「新」北上川の河口近く、皿貝川との合流点にあった。東日本大震災で被災し、いまは新しい水門ができている。 ![]() ![]() 夜雀さんのご教示によれば、「蝶番堰」という大変珍しい形式。英語では「Hinged weir」。土木学会の選奨土木遺産にもなっているが、しかし、土木学会のサイトでも、現地説明板でも「希少な形式」としか書いておらず、「どう希少なのか」「なぜ希少なのか」「希少に価値があるのか」が書かれていない。 ![]() 右に、橋梁の支承のような部品がある(蝶番)。ここをピボットとして、このように動く。 ![]() 上部の水色の部分が水平のとき、その上に載っている円筒のカウンターウエイトは、本来左端にある。それが、徐々に(転がって)右に移動することで、水門の開閉が容易になる、という仕組みだ。ダメじゃん、展示の方法。(上の写真はカウンターウエイトなどを簡易的に加工しています) ![]() カウンターウエイト。これがゴロゴロと転がるのだが、それはウインチを使ったらしい。ならばウインチもいっしょに展示すべきではないか。これがゴロゴロ転がる様を見たかった。 ![]() ![]() ![]() 現地説明板。 ![]() 滋賀県にある分水。琵琶湖に注ぐ姉川から水を引き(その地点を「出雲井(いずもゆ)」という)、別項で紹介する小田分水を経由したあと、ここでさらに分水している。特徴的なのが、円筒分水ではなく直線状に五つに分水していること。 写真で言えば、右上から左下に流れる。そして、その分水地点には橋がかかり、それぞれに「川」の名前がつけられている。右岸から、朝日川・市場川・中村川・柏戸川・天満川。竣工は昭和30年4月。 ![]() ![]() 朝日川のほうが市場川より太い。この2本は西へ向かう。 ![]() ![]() 中村川と天満川は太く、挟まれた柏戸川は細い。下の写真は上の写真の逆方向から。中村川と柏戸川は南へ、天満川は東へ。 ![]() 上流側から。轟々と流れてきた水を三つの整流板で水門に向かわせる。 ![]() ![]() ダムの自然越流式洪水吐のようだ。 ![]() 現地解説。 いまにも雨が振り始めそうだったのだけれど、ドローンを飛ばしたら降ってきたのでじっくり撮れなかったが、動画を。
もうひとつ、両総用水北部幹線をくぐるカルバートを。
![]() パッと見、鉄道の築堤とカルバートに見える。鉄道の場合、径間1m以上を「橋梁」と呼ぶのだが、これは両総用水としては「橋梁」にあたるのだろうか。 ![]() 右を見ると、どう見ても鉄道の築堤とその側道だ。 ![]() 「側道」をいくと用水の高さに上がれる。用水には近づけない。用水には金網があり、その外側には管理用の舗装路があってそこにも金網。右にみえるクルマは周辺の住人のもの。写真を撮ったすぐ右には住宅がある。 ![]() 振り替える。写真奥がカルバートの「上」。一見、水に見えるのは用水の保守用通路で、雨のためにそう見えるだけ。用水はその右。 ![]() 反対側。 * * *
![]() (Kashmir3D+スーパー地形+地理院地図) カルバートの紹介順が、下流側(下の地図の○)→上流側(上の地図の○;今回の記事)となってしまったが、上流にあたる両総用水をくぐるカルバートの標高は21mほど。今回の記事のカルバートの標高は17mほど。その間は、いったん標高4mほどの平地がある。そこは、暗渠で通している(上の地図の□)。サイフォン式で、いったん低いところに下ろしてまた高さを上げているのだ。 ![]() 下流側(南側)から上流側(北側)を見る。 spl.thnx @roadexplorer |
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