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『まちモジ』(小林章著)

『まちモジ』(小林章著)


タイトルからしていいではないか。私も丸ゴシック…正確に言うならば、看板屋さんが書いた丸ゴシックは大好きだ。小学生の頃から好きで好きで、とくに駅名標はその頃に写真も撮っていた。
http://www.flickr.com/photos/56148795@N04/sets/72157630712374524/



カバーには「止まれ」。本体表紙には看板職人による手書きで「まちモジ」。

本文をめくると交差点名の標識や架道橋に直接書かれた文字、駅名標やバス停、そして昭和25年式の道路標識まで出てくるという、道路ファンをも惹きつけてくれる。さらに、本物の看板職人が、丸ゴシックを下書きナシで書いていくことを取材したページがある。夢中で読んでしまった。

  

また、国による書体のクセ、アクサンテギュの表現の違い、アルファベットを縦書きにする場合…などなど、ギッシリと著者の知見とユーモアが詰まっている。本文が、最初は普通の丁寧語だったのが、だんだんと緩くなり、「うまいなー」とか「思うんだね」とか、まるでtwitterで話しかけるような文章になっていく。それもまた、とてもバランスがいい。



* * *

僭越ながら、本書に書かれたことは「そう、そう!」と思うことがたくさんある。

例えば丸ゴシックの考察の中、P26に「ひょっとして、角を丸くして、親しみやすい効果を狙っているのか?」とある。実際、これはそうだと思う。例えばこんな体験がある。登山のガイドブックシリーズのカバーにおけるタイトル文字を、デザイナーが丸ゴシック(私は大好き)で指定してきた。しかし、営業サイドは「これだと易しい登山の本に見えるから角ゴシックにしてくれ」と要望してきた。面白いことに、比較的易しいコースがセレクトされたタイトルは、丸ゴシックのままでokとなった。(もちろん、カバーデザインとはトータルバランスだから、そこだけ角ゴシックにするとおかしくなるんだよ、と抵抗したが、残念ながら通らなかった。)

また、ハイフンの問題、プロポーショナルフォントの問題、リーダー罫の問題等々、私が常日頃感じていたことが整然と解説されている。カーニングなど、私はポップなどを作るときには文字をアウトライン化して手作業で字間をツメている。このあたりは、本書のブックデザインを担当された祖父江慎さん(後述)も、勤務先が刊行した枡野浩一さんの『ますの。』において綿密に調整されたと聞いている。

文字詰めについては「ひどい例」が載っている。アルファベットの字間が近すぎて、あるいは離れすぎて読みづらい例だ。前者について思うことは、一世を風靡したヒラギノ角ゴは字間を詰めるなということ。後者については「デザイナーは字間を空ければオシャレだと思ってるだろ!」ということ。ヒラギノ角ゴはボディが一回り小さいまま、ベタうちでいい。ボディが小さいことによる、字間が空いたような見え方が絶妙なのだ。10.5Qを1Hツメなんかにするんじゃない。台無しだ。かといって、デザイナーはカーニングを+100とかにもするんじゃない。これも台無しだ。私が「手書き風フォント」が大嫌いなのは、字間がおかしいからだ。一般人が好きなポップ体と勘亭流同様、これらはツメて使え。ベタ組みはダメだ。

* * *

著者であるフォントデザイナー(と表現していいのかはわからない、プロフィールには肩書きはない)の小林章氏には、勝手に(これまた大変僭越ながら)親近感を抱いている。なにしろ新潟市のご出身だ。本書には市内の写真が多数収録されている。そして、たぶん、鉄道もお好きだ。国鉄時代の手書きの駅名標の文字について研究していただきたいと勝手に思っている。

一方的な親近感を決定的にしたものは、これだ。
バスの出口にある「口」の字。そう、そうなんだよ。これは「出」ともどもおかしな書体なんだ。しかし、滅多に載らないバスの車内、しかも運転手のすぐ横だから、写真に撮ったことはなかったんだ。いや、見せれば、こういうのが好きな人は「いいねえ」って言ってくれるだろう。しかし、「バスの出口の『口』、いいですよね」だけで会話が成り立つのは、たぶん、小林さんとぼくくらいしかいないんじゃないか。これは自惚れすぎか。

前述の通り、本書の装丁は祖父江慎さん。そして印刷が、とくに黒が美しいなあ…と思ってクレジットを見たら、プリンティング・ディレクターは凸版印刷の金子雅一さん。祖父江さんとは『廃道 棄てられし道』、そしていま『東京幻風景』(ともに丸田祥三さんの著)でブックデザインをお願いしており、金子さんは『廃道 棄てられし 道』と同時に進行していた『眠る鉄道』『問いかける風景』(ともに丸田さん)の製版をご担当され、そのお仕事のご様子はお聞きしているし、イベントでもご 一緒していただいた。まったくもって、私をどこまで喜ばせてくれるのだろう、この本は。



<関連項目>
タイポさんぽ(藤本健太郎著/誠文堂新光社)
『駅名おもしろ大辞典』(夏攸吾著/日地出版)
昭和50年代の駅名標(越後線)その1
昭和50年代の駅名標(越後線)その2
昭和50年代の駅名標(越後線)その3
大好きな看板文字
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『国鉄に生きてきた 鉄路を愛した男たちの自画像!』(JICC出版)

『国鉄に生きてきた 鉄路を愛した男たちの自画像!』(JICC出版)

鉄道の本

「別冊宝島」の58番、まだ会社名がJICC出版の時代のもの。昭和61年11月発行。この本は知らなかったのだが、『国鉄時代』はじめ趣味誌でおなじみの村樫四郎さんからご教示いただいた。

内容は、破綻している論理や職業倫理をベースに、現場の声を聞け…というもの。小卒、中卒の「(資本家に対する)労働者」の声を集めたものだ。その合間合間に、今となっては語る人も稀な現場の姿が活写されているのが貴重だ。

現場の姿としては、大井工場、志免炭鉱、戦時中の女子駅員、石炭ボイラ時代の青函連絡船、大船工場、有楽町駅、保線、電力工手、職員の妻たちといったもの。本書の中で展開されている主張は、いまとなってはあまりに幼稚、わがままな論理で組み立てられているのだが、その主張はそのまま受け取るのではなく「当時はそんな働き方でも許されていた時代だった」という認識をする程度に止めておくほうがいいだろう。論理の是非ではなく、時代というものを感じ取ればいいのだ。

私に取っては、時代を感じ取るというよりも、「当時の(資本家に対する)労働者の姿」がやっと少しリアリティを持って見えるものに出会ったというほうが適切か。戦後の労働運動を牽引してきた官公庁労組…だの国鉄の分割・民営化だのの話は、大卒キャリアや頭脳明晰なトップが書いたものはたくさん読んできたが、彼らの話、「職員は仕事の効率を上げることを否定する」ということが本当だったことがわかる。

「メンテナンスフリーの新型車両が入るのは職員が不要になるから拒否する」という理屈、「不要になった職員は別の職務を与えられるために転勤を命じられる、これを拒否する」という考え方、これらが通じていた時代。それを許容していた世間。

いまどき鉄道会社がストをやってこんなことをしていたら、全部写真に撮られてネットにアップされて嘲笑されるか、利用者たちから罵詈雑言を投げつけられ続け、精神的にストを続けられなくなるほどになると思う。こういうことが、官公庁の労組が労働運動を牽引してくれるからということもあり、許容されていた時代。

* * *

国鉄には文芸趣味を持つ「労働者」はたくさんいた。本書に登場するのもそういう人々だ。彼らの文章にはひとつのパターンがある。古典や文豪の作品を引き合いに出すのだ。そしてその登場人物や物語に、なにかをなぞらえる。ふと気づいた。これは厨二病じゃないか。そうか、そうだったのか。ひとつ、彼らのことがわかった。



DT32系台車の空気バネ

DT32系台車の空気バネ

鉄道車両の台車

国鉄の特急・急行形電車の間でポピュラーなDT32・TR 69系台車。側面から見ると、枕梁が「┓」型をしている。その枕梁の上面は、上の通り、巨大なフタのような形状をしている。

そしてその裏側には空気バネがある。写真上部に指が写り込んでいるのはご容赦、フード代わりにかざした手です。で、空気バネは直接側枠に載り、枕梁の下部端から出たボスルタアンカは側枠から突き出た受け部分と結ばれている。





万石浦の三菱石油

万石浦の三菱石油

三菱石油/日石三菱

2013年夏の北海道ツーリングの帰り道、国道398号を走っていた。女川から西へ、牡鹿半島の付け根を越えると左手にJR仙石線、その向こうに万石浦が左に見える。その坂の右に、もう使われなくなってずいぶんたつ三菱の給油所があった。

敷地内は雑草が繁茂していた。近隣は住宅地なのに、ここはこのまま放置されている。雑草の向こうに、スリーダイヤモンドが薄く残っていた。


籠原駅の跨線橋

籠原駅の跨線橋

跨線橋

JR高崎線の籠原駅。電車の増解結が行われる駅として知られている。駅舎は橋上、東西自由通路まで備えた近代的な駅だが、跨線橋は古レールをプラットトラスに組んだものだ。

屋根はアーチ。このアーチ部材は古レールで、軸方向の部材はアングル材である。



3・4番線ホームの上野側に増設された階段とエレベーター。この増設部分を、一つ上の写真と見比べてほしい。一つ上の写真は、高い窓と、腰板にはポスターの羅列。こちらは足下まで採光用のガラスが連なる。一つの上の写真の通路では、もしそこにベンチがあっても座る人など皆無だろう。でもこちらなら、きっと、そこが休憩所になるに違いない。

こうして比べると、時代によって跨線橋というか公共の通路への考え方の違いがあることがよくわかる。国鉄時代の跨線橋というのは単なる通路であって、客は一刻も早くその場から逃げ出したい空間だが、最新の通路は少しでも長くそこにいてもらう場所、いやそれだと誤解を招くな、またそこを利用してもいいと思わせる空間である。

ホームの上に戻る。古レールは階段部分のフレームにも使われている。そして、後付けと思われる屋根の部材とも溶接されている。こういう「現物あわせ」なところがおもしろい。











当初、階段は大宮側のみだったものの、のちに高崎側にも増設されている。



本別海郵便局(北海道)

本別海郵便局(北海道)

郵便局舎

野付半島の付け根、茶志骨から南の国道244号は、行き交う車もほとんどない。尾岱沼の集落が少し目立つだけで、あとはひたすら左に海を見ながらゆるやかなアップダウンを行く。

尾岱沼から約15km。本別海という集落に入ると、少しホッとする。時間にしたら15分、いや実際は…なのだけれど、その前から延々と無人の台地を走り続けているわけで、そうしたあとで郵便局のような「集落の証」があると、かなり大きな町に感じる。

郵政書体が残る。「郵」の文字、偏の中央が「田」になっているのは勇足郵便局と同じだ。


No Image

ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)

鉄道

ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編)の続き。

1990年代前半、東海道新幹線は「ひかり」が主役であり、東京と新大阪の間は3時間というのが常識だった。単純に、往復で6時間。2往復なら12時間だ。アルバイトとして考えれば1日に2往復すれば、倍、稼げる。このように、一度乗務して、東京帰着後に別の乗務行路に入ることを「着乗(ちゃくじょう)」と言っていた。

1往復後に泊まりの行路に入る「1往復半」、あるいは泊まり行路明けからもう1往復する「1往復半」をする人は多かったが、私は2往復を好んだ。あくまで、時給制のバイトだからである。2往復は4年間で62回やった。その大半は1992年度に集中している。乗務行路の関係で、1993年3月改正以降はあまりできなくなった。

一番多く乗ったのは、1992年3月改正での103A→108A→253A→284Aである。この組み合わせは、コーヒーで忙しい朝の下り、昼にかかって弁当がバカ売れする上り、ビールと弁当が売れる夕方の下りと、それぞれが満席で売上げが大きい列車で、A車ワゴンでは10万円売ることが目標だった。しかし、最後、夜の上りだけは、ガラガラのことが多かった。1日で売上げ20~30万、一方、バイト代は1万5000円くらい。なかなか会社に貢献していたと思う。

* * *

年末年始は時給が200円増しだった。バイトが確保できないからである。私は積極的に入り、1992年末から1993年始にかけて、こんなシフトを組んだことがある。

(12/29)夜の1往復 253A-284A
12/30 (睡眠3時間で)2往復 203A-78A-253A-284A
12/31 (睡眠3時間で)2往復 103A-108A-253A-284A
1/1 (睡眠5時間で)1往復 77A-114A
1/2 (睡眠5時間で)2往復 205A-6A-253A-284A(なぜかY編成)
1/3 (睡眠3時間で)2往復 203A-78A-253A-284A

稼ぎに稼いだけれど、フラフラだった。立っていても眠ってしまいそうになる。少しの休憩時間を見つけて、車販準備室などで居眠りをした。12月、1月ともに、バイト代は20万円を少し切るくらいまで稼いでいた。

* * *

前にも書いたが、この253A-284Aが大好きだった。1992年3月14日から1993年3月17日までの1年強、369日間運転されたはずだ。そのうち、253Aには73回、284Aには76回乗務している。5日に1回は乗ってい計算になる。

284Aはいつもガラガラの列車で、ダイヤ改正直後はカフェテリアの食材が大量に廃棄されていた。たしか4月に入ると見直されて、適切な数になったと思う。年末年始の乗客や売上げのメモが残っている。

12/29 バイト3人乗務、3人とも売上げ4桁
12/30 乗客数 新大阪~名古屋89人、名古屋~東京77人
12/31 乗客数 名古屋~東京70人

<関連事項>
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)

北斗星ニセコスキー

北斗星ニセコスキー

鉄道

 
廃止騒ぎが一段落したので「北斗星ニセコスキー」の写真を。

実は、初めて鉄道写真を撮ったのがこのとき。2003年1月。いや、それまではバイクの写真しか撮ったことがなかったんだけど、仕事がタフなので、まだ2月6日発売号(1月30日頃校了)の取材の内容すら決まっていないのに、逃避的に1月の3連休に「ぐるり北海道フリーきっぷ」で北海道に行った。

本当は、早暁の吹雪の中を走るキハ201の4灯狙いだった。もちろんそれは撮って、日が昇ってからうろうろしていたら「北斗星ニセコスキー狙いですか?」と声をかけられた。いや、そんなもん運転してるとは知らなかった、恥ずかしいことに。

先を急ぐか迷ったが、待つことにした。小一時間経っただろうか、ふと周りを見ると、撮影者が十数人集まっていた。いいロケーションだと思ったが、そうか、ここは定番撮影地だったのか。そして、まだDDが見えないうちから、山間にエンジン音が轟き始めた。待つことしばし、重連のDDが姿を現す。ゆっくりとこちらに向かってくる。ちょうど、キャブに朝の光が反射した。
 

このあと、帰りの列車として上りの「北斗星ニセコスキー」の開放B寝台を取った(旅程はいきあたりばったりだった)。しかし「北斗星6号」にB個室の空きが出たので変更して、それで帰った。札幌駅に「北斗星ニセコスキー」の発車を見に行ったら、札幌運転所側(手稲側)から、なんとDD51のプッシュプルで入ってきた。札幌駅での着回しを省くためだろうか。また、そのまま函館までプッシュプルだったのだろうか。このDDプッシュプルの写真は全然見たことがない。いや、私が撮っておくべきだったかもしれないが、フィルム時代ということもあって、札幌駅ではまったく撮っていない。
(2013年11月9日追記:検索したところ、上下とも小樽~札幌間でプッシュプルとのこと。下りは小樽まで、上りは小樽から重連)

北斗星ニセコスキーの運転はその年が最後になったはずだ。開放でいいから乗っておくべきだったか。鉄道写真は2005年頃まではかなり撮りに行っていたが、自分ならではの鉄道写真というものがどうしても作れず、撮るのをやめてしまった。先に、この時が鉄道写真を撮るのは初めてと書いたが、翌日の夕方に静狩で撮ったキハ281の写真はRailMagazineで表紙に使ってもらった。その程度の写真は、たぶん、誰だって撮れるのだ。だから、それはとても名誉で嬉しいことなのだけれど、この程度の写真は「作品」というには実におもしろくなかった。





北海道道950号野付風蓮公園線

北海道道950号野付風蓮公園線

道路全般

北海道の野付半島は日本最大の砂嘴。細く長く続いた砂嘴の上を道道が走っており、視界は左右とも海というシチュエーション。こういう場所はなかなかなく、沖縄県の海中道路付近や福岡県の海の中道あたりが有名どころだ。

片道18km。野付半島の付け根部分は標津郡標津町、先端部は野付郡別海町。つまり別科胃腸内から先端部に行くためには、一度、郡界・町界をまたがなければならない。

終端部、舗装が途切れるところで車両通行止め。この先に灯台があり、徒歩でなら行ける。12年前は行ったが、今回はパス。

右側に、ヘキサが向こうを向いて立っている。

すこし縦長のヘキサ。数字も少し変わっている。起点に立っているため、車両が来るはずもない方向を向いている。こういう杓子定規なところを感じ取るのは道路趣味の醍醐味の一つだ。

かつて、沿道にはトドワラと呼ばれる立ち枯れたトドマツがたくさんあった。先端部にはもっとたくさんあったのだが、それもどんどん姿を消していると聞いた。12年ぶりに訪れた印象としては、たしかにそのとおりのようだ。


東の果ての木製扉

東の果ての木製扉

木製扉の菱形・バツ形等

根室半島の納沙布岬に南側から向かう途中で見つけた扉。菱形に板が貼られたこれがこのまま右にスライドするのだろうか? 左の壁がトタンになっている部分にも戸状のものが見えるが、そちらはスライドするようには見えない。

前掲のものからほど近くにあった、双沖地区消防機材置場。建屋は古いが、左側などは塗装の跡があり、手入れはなされている。この建物のは扉であり、もしかしたら更新されているかもしれない。

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