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金井山駅の駅便(木造ではない)

金井山駅の駅便(木造ではない)

駅のトイレ

20130104_000.JPG去る3月末で廃止になった、長野電鉄屋代線の金井山駅。訪問は廃止の約2ヶ月後。ごらんのように駅前はとても広いスペースがある。中央の白い建物が待合室で、その中央に四角い看板を剥がした跡があるが、そこに「金井山駅」と表示してあった。廃止後に盗難を恐れて外したのだろう。右の建物がトイレである。

20130104_001.JPG公園のトイレのような造作。汲み取り口と、そこから伸びる換気塔(ただし「王子様」はない)。側面には外蛇口と屋外用ソケット。

20130104_002.JPGホーム側から。丸見えの男子小用。個室は…写真を撮っていないということは開かなかったのかもしれない。もう忘れてしまった。

20130104_003.JPG待合室には、まだ座布団も張り紙もあった。

冒頭写真、待合室とトイレの間に標柱のようなものがある。そこには…

20130104_004.jpgオハー

真田の六文銭をなんだと思ってるんだ…!



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東京タワーから見た赤羽橋交差点 GoogleEarthと現実と

東京タワーから見た赤羽橋交差点 GoogleEarthと現実と

地図・航空写真・分水嶺

「GPSログを取る仕事」なるもので、東京タワーに登った。標高250mの「特別展望台」にも登った。観覧車程度の高さから地上を見たことは何度かあるが、ここまで高いのは初めてかもしれない。空撮のような感覚。お台場とレインボーブリッジを見ると、ニューヨークかと思った(※行ったことありません)。

20130101_000.JPG赤羽橋交差点方面の眺めが、こんなにすてきだとは知らなかった。写真は東京タワーからほぼ真南を見たもの。まっすぐ向こうに伸びているのが国道1号で、右下に続き、やがて虎ノ門、桜田門に至る。上に首都高を従えて左右(東西)に走るのは、外縁東通りの延長である環状三号線(正確には環状三号線の一部を「外縁東通り」と称している)。そして、左下に伸びるのは都道301号、国道1号(桜田通り)の1本東に並行する道だ。

平面の地図上ではあまりパッとしない交差点だが、こういう角度で見ると、赤羽橋交差点は重要な結節点というように見えてくる。こんな五叉路を効率よく裁く信号をセッとしている人はすごい。

20130101_999.JPG同じところを、GoogleEarthで表示してみる。建物が3D化されているので、かなり近い。難点は、「レンズの焦点距離」を選べないこと。カシミール3Dを日常的に使っていると、そういう点が不満になる。贅沢な不満だが。


東京タワーからの写真をもう一点。

20130101_001.JPG西南西、一の橋ジャンクション方向だが、見ているとビルに酔う。背の低いビルがいろいろな方向を向いている。「正面」と感じる向きがバラバラなので、焦点が合わないのだ。

それはそれとして、首都高とビルの近接具合は、Nゲージのジオラマでもここまで近くに建物は配置しないよというくらいに近い。これが現実の都市。事実は、ジオラマ上で再現された空想の世界よりも、ずっと空想的なこともある。こういうところで、空間を自在に飛び回って写真が撮れたら面白いだろうなあ。


※追記

友人から「ここに写っているビルの下に、かつて住んでいた家が沈んだ」というメッセージをもらいました。故郷の喪失ということは、ダムに沈むとか高速道路の建設による立ち退きなどが真っ先に思い浮かびますが、都心のこういう場所にも、というか都心だからこそ数多くのそうした事態が起こっていることを思い知らされました。実家がそういうことになっていない私は幸せなんだろうな。ドーナツ化現象で老人ばかりになり、私がいたころは各学年3クラスあった小学校が統廃合の危機にあるけれども。



 

東武日光軌道線 200形 KS-40J台車

東武日光軌道線 200形 KS-40J台車

鉄道車両の台車

20130103_002.JPG東武博物館の屋外に、バスくらいの大きさの連接車両が展示されている。外側は近寄れないが、内部は館内から立ち入ることが可能だ。その車幅の狭さに驚く。

この車両は1954年製。同系の台車を履いた車両はいまも各地に残っている。両端が電動台車で連接部は付随台車だが、基本は同じ。連接部のほうが写真が撮りやすいので、こちらで書く。

20130103_000.JPGいちばん目を引くには、板バネが「逆さま」に取り付けられている点だろう。「逆さま」というのは便宜的にそう呼ぶ。一般的には2軸貨車のように、U時型、つまり天方向に親バネ(長いバネ)を、地方向に短いバネを配する形の方が、目にする機会が多かろうと思うからだ。

目的は、省スペース化と軽量化だろうか? 2両分の車端部の荷重は、板バネを束ねている部分にかかる。それを台車枠から吊ったリンクが受けて荷重を台車に伝え、されに軸バネ(コイルバネ)を介してレールに伝えている。鉄道車両の台車によくあるように、2組の板バネを上下ペアにして使うよりも天地方向のスペースをとらず、を使っているものだ。

20130103_001.JPG台車枠側面にはブレーキシリンダーがつく。こうした機械的摺動部分は、見ていて本当に飽きない。


1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(3)

1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(3)

TT250R

1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(2)の続き。

大晦日は竹富島と黒島に、バイクを持ち込まずに行った。竹富島では原付を、黒島では自転車を借りた。

石垣に戻り、市場でグルクンやシャコガイの刺身などを2000円分も買った。そして、夜。

20121229_001.jpgサザンゲートブリッジの下で宴会をしていたら、地元のオジイが三線と「八重泉」を手にやってきた。大城さんといって、船をもっていた。ラジオで紅白を聞きながら、オジイの話を聞いた。「1月4日に乗せてやる」と言ってくれた。

20121229_004.jpg三線に聴き入った。沖縄に惚れると三線を買ってしまう人は多い。でも、オジイの三線は、石垣に暮らす者としてのたしなみであるかのように、自然だった。アメリカ統治下の話などもしてくれた。「あのころはよかったなあ」という言葉に、世間知らずな二十代前半のぼくらは声も出ない。

刺身はとても食べきれない量だったので、翌日、寄ってきた猫にあげた。

* * *

翌2日は、闘牛を見て過ごした。1時間近く、角を突き合わせたまま動かないこともあり、いささか退屈なときもあったが、全部見た。

20121229_000.jpgそして、ついに1月4日。こんな格好で飛行機に乗った。写真はZZ-R氏からいただいたもの。

バイクはその日の朝、大半の荷物はくくりつけたまま、有村のターミナルに預けた。自分のために買い込んだ大量の缶詰…TULIPのポーク340g缶1ケース、ルートビア1ケース、キャンベルスープ1ケースなどは、小包で1月7日(日)着指定で送った。

飛行機には、デイパックとタンクバッグだけで乗り込んだ。まさかこんなことになると思っていなかったので、靴も持っていないから、オフロードバイクのブーツだ。上着はバイク用の、肩パッドの入ったゴアのジャケットだ。頭は…三が日は銭湯が休業だったので、4泊、風呂に入っていないことをなんとかバンダナで隠している。荷物にくくりつけてあるのはトレーナーだ。

12時45分、石垣発。那覇で乗り継ぎ、17時5分、羽田着。行きは77時間かかったが、帰りは4時間20分。なんというあっけなさだ。東京の家に戻ったら、留守電に、現地でずっといっしょに過ごした3人から「おかえりなさーい」と入っていた。約2週間、バイクの走行距離はわずか300kmだった。後日、3人から受け取った手紙には、私を空港に送った後、約束通り大城さんは船に乗せてくれたという。その写真も送ってくれた。

翌週、1月8日(月)午前中は半休を取り、有明でバイクを受け取ってそのまま鮫洲の運転免許試験場に向かった。そこで受けた限定解除の試験で合格した。

* * *

20121229_014.JPG切符類。波照間のフェリーは、こんな領収証を手書きしていた。要求したわけではない。

20121229_009.jpgサザンゲートブリッジ。元旦、初日の出は橋の上から見た。日の出は7時30分。さすがの西側だ。髪が赤く見えるのは褪色補正の結果。

20121229_003.jpg銭湯、濱の湯。「日本最西端の銭湯」。230円。トイレはなかなか…な汲み取り。お湯は熱い。シャワーはない。八重山毎日新聞のサイトによると、1998年頃に廃業したという。いまは石垣島に、こうした銭湯はない。



こうした旅が、17年前にはあった。大城さんが飛び入りしてくれた大晦日があった。ただ、懐かしい。

 

1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(2)

1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(2)

TT250R

1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(1)の続き。

船内で知り合ったZZ-R1100氏、チャリダーA氏、チャリダーB氏と4人で、サザンゲートブリッジの下にテントを張る。また、年末年始のためか、波照間、与那国行きの運航日が時刻表と異なり、頭を悩ませた。西表島には行けなそうだ。「年末年始だから」ということが念頭にないあたり、自分のダメさ加減がわかる。

以後の行動はこう。

12/27(水)
12/28(木) 石垣→波照間→与那国(バイクと。フェリー)
12/29(金) 石垣→与那国(バイクと。フェリー)
12/30(土) 与那国→石垣(バイクと。フェリー)
12/31(日) 石垣→竹富島→黒島→石垣(人間だけ。高速船)
1/1(月) 無
1/2(火) 闘牛見る
1/3(水) 雨
1/4(木) バイクを無人航送に託し、ZZ-R氏のバイクで石垣空港まで送ってもらい、飛行機で帰京。

* * *

20121229_010.jpgフェリー波照間。たしか200トン。ものすごく揺れる。船底をサンゴにガンガンぶつける。船内では横になっていたけれども、転がる。

この時期は3日ごとに1往復なので、島に2泊するといろいろおしてしまうということで、日帰りで往復した。2時間ばかりの滞在。当時の『ツーリングマップ九州』には波照間の地図は(たしか)なくて、会社にあったB4判の『マップル』をコピーして持っていった。2万5000図を…などとは思いつかなかったのが不思議。

20121229_005.jpgこうして見ると、いちおうテントも畳んで、荷物をすべて積んでいるのだな45リットルの青いランドナー(これは2012年の北海道ツーリングでも使っている)、その上に28リットルのICIのデイパック、その間にテント。後輪手前のタウチェのデイパックは背負っていった。そしてオフロード車にはとても似合わない、タンクバッグ。

まだまだ沖縄ブームではない頃。年末のこの場所には誰もいなかった。

次に、与那国。フェリーよなぐにの写真はない。

20121229_006.jpg最西端。ここはクルマでは行けないのだが、バイクを押していった。押せば自転車と同じ扱いだからな。もちろん、だれもいなかった。

事前にZZ-R氏から「比川浜というところがテント張れるよ」「ユキさんち、というカレー屋がうまいよ」と聞いていたので、そこに向かってテントを張る。ここに長期間滞在している人もいる。サトウキビのアルバイトをする「ワタリ」だ。


20121229_007.jpg私のテントは写っていない。みなここに定住している。流木とドカシーで屋根を作り、完全防水にしている。しかし、私は少し「引いた」。石垣の米原もそうだが、そこに「住む」キャンパーたちは、地元の人にはどう見えるのだろうか。東京の住宅街の公園に定住している人がいたら、間違いなく追い出される。それとどう違うのだろう? この、旅をしているようでそうではないキャンパーたちに対する否定的な感情は、いまも変わっていない。バイクの仲間たちが、誰一人としてこうしたキャンパーがいず、きちんと働いていることとは対照的だ。というか、私はそういう集団を好むのだろうな。




 

No Image

1980年頃の地方の商店の年越しと年明け

記憶

実家は「小学校前の文房具店兼駄菓子屋」だった。いまと違って子供たちもたくさんいた。10円を握りしめて何を買おうか10分も20分も迷っていく子供たちがたくさんいた。店番は母か祖母の仕事だったが、手を離せないときには私が出ていた。1980年頃、私が小学校中学年の頃の話だ。

大晦日も店を開けていた。午後を回ると、子供たちが来るようになる。掃除に飽きたか、邪魔になったか。けっこう駄菓子が売れる。それも夕方くらいまでで、午後7時くらいになると、もう誰も来なくなって2時間、という感じになるので「そろそろ閉めるか」といって店を閉めていた。


元日。
店は休みなのだけれど、午前中から玄関の呼び鈴が鳴る。子供たちだ。「今日は休みですか」。店が閉まってるんだから休みなんだよ!と言いたいところだけれど、鍵を開け、入れてあげる。お年玉をもらったからだろう、子供たちはちょっと贅沢に買い物をしていく。いつもは買えない、ポテトチップスなどの100円(当時)のお菓子を買ったりして。あとはおもちゃ。50円の飛行機や文房具。思えばその頃、駄菓子やおもちゃは100円以下のものがほとんどだった。300円のガンダムのプラモデルなどは、なかなか売れなかった。でも、毎日何十人もの子供たちが店に来て、10円、20円を相手に商売をして、もちろん大人もそれなりにものを買いに来ていた。商店街でもない、街の中にぽつりとある店が(副業としては)やっていける時代だった。


2013年になった。
このいまの状況を、30年後、「あのころはこうだった」と懐かしむ時が必ずくる。逆に、30年後がどうなっているかはちょっと想像ができないけれど、よい1年1年が重なればいいと思う。あらゆる人々の健康を願いつつ。

2013年1月1日
磯部祥行

 

『15歳の機関助士』(川端新二/交通新聞社)

『15歳の機関助士』(川端新二/交通新聞社)

鉄道の本

20121229a_000.JPG沢柳健一氏の『思い出の省線電車』と同じ系譜の、著者の体験記。「交通新聞社新書」にはいろいろな思いはあるが、こうした貴重な証言を商業出版物として刊行するのはとても有意義なことだと思う。応援したい。

著者は鉄道誌でもおなじみの、名古屋機関区OB。昭和4年生まれ、戦時下に国鉄に入り、促成栽培で機関助士に登用され、終戦を迎えるまでの体験を記した本だ。「戦火をくぐり抜けた汽車と少年」のサブタイトルどおり、著者の、14歳から17歳までの記録である。現在御年83歳、よくこれだけの記憶が…と驚く。


総じて、戦中の話である。本書の終盤では、同僚が空襲で殺されても、駅が炎上していても、命じられている仕事を黙々とこなしている川端氏と鉄道員たちが描かれている。宮脇俊三の『時刻表昭和史』に、玉音放送のあとも列車はいつも通り動いていたという記述があり、東京大空襲や広島の原爆投下の直後でも、市電は復旧してできるところから動き始めたというような記録があるが、おそらく、当時の「働くこと」の感覚というのはそういうものなのだろう。自分に与えられた仕事、しなければならない仕事のを、個人的な事情よりも優先する。それが当たり前の時代だったのだろう。失礼な憶測になるかもしれないが、個人が、与えられた労働を捨てて自分や家族を守りに走ってもほとんど意味をなさない時代、そして社会だったのかもしれない。『関東大震災と鉄道』(内田宗治著/新潮社)に描かれた鉄道員の姿とも重なる。

もしいま同様の状況になったとしても、現代人の常識では、仕事よりも自分や家族を優先するだろう。逃げる必要があるときは逃げるし、その仕事が危険だったとしても逃げる。それが許される時代、それを許す社会になった。


ただし、ひとつだけ苦言を。本書では、昭和20年8月15日に放心状態のようになった日本でも鉄道だけは動いていた、というような描写がなされるとともに、夜からは沿線の家々に明かりが灯っていた、ということも書かれている。その灯りは、誰が作りだしているのか? 鉄道がいつもどおりであることが世の中に安心感を与えたと書くならば、電力もまたそうではないか。電力は物体として目に見えないので、鉄道ほど身近ではないかもしれないが、戦時下に電力を確保することは鉄道業界と同じくらいに大変なことだったろう。そうしたことも配慮してあれば、なおよかった。

20121229a_002.jpg本書の帯には「蒸気機関車が学校だった」とある。これは、本書にも写真を提供しておられる大木茂氏の『汽罐車』に出てくる「旅は僕の学校だった」と呼応しているものだろう(写真はサインとともにいただいた言葉だが、きちんと本文に出てくる言葉だ)。大木氏と川端氏とは、川端氏の現役時代から親交があり、川端滋賀中央西線の最後の蒸気機関車列車を運転した際にキャブに同乗もしている間柄だ。

大木茂氏の写真展『汽罐車』でも、トークショーをご一緒されている。そのとき、川端氏は「機関士仲間と会っても、電気機関車に乗務するようになってからの話はいっさい出ない、蒸機の話ばかり」とおっしゃっていたが(本書のあとがきにもある)、戦後のこと、転換教育のこと、電機のこと、蒸機に戻ったこと、ご本人にとっては思い入れのないことでも、読者が渇望しているエピソードはたくさんあると思う。読者としては、ぜひ本書の続編をいくつも望みたい。


●追記

本書に『鉄道精神の歌』というものが出てくる。youtubeにあった。



山田耕筰作曲。「国鉄国鉄国鉄国鉄…」すごい。原曲の著作権は切れている。




 

CROSSOVER NIGHT 2012

CROSSOVER NIGHT 2012

音楽

友人に誘われて、『LIVE IN TOKYO CROSSOVER NIGHT』に行った。計六つのバンドがぶっつづけで約6時間、演奏する。フェスのようなイメージだが、会場はホールなので、途中で抜けて屋台で飲み食い…というようなスタイルではい。

六つのバンド…とはいえ、すごくスタイルが違う。とりわけ対照的なのが、高中正義や鈴木茂の「一人のミュージシャン+バックバンド」スタイルと、ナニワエキスプレスの「完全なバンド」スタイル。渡辺香津美は異種格闘技といったところか。そのなかで、ナニワが本当にすごかった。かっこいい「バンド」だった。


「今回は、久々に5人で演奏できる!青柳誠が帰ってきた!」という清水興の言葉。ギターの岩見とキーボードの中村のかけあい。ベースの清水と岩見のかけあい。「ひさびさに一緒に演奏できる!」キーボード&サックスの青柳と岩見のかけあい。ステージ上を動き回るフロント陣、全員で飛び跳ねながら引き、ピンチヒッタードラマーの平陸まで立って叩く始末。曲間には、清水のよどみないMC。完璧なショーだった。

MC の清水興によれば、26日のリハが終わり、ホルモンを大量に食べたところ、28日の朝になって東原力哉から「痛風が出た、ダメだ」と連絡が来た。過去に足に痛風が出ても注射を打って平気な顔してライブに出ていた力哉。片手でもライ ブ出演を欠いたことがない力哉。彼がダメだというのだから、相当なものだと思い、急遽、平に打診したという。以前から曲も知っていたのだろうが、それにしても。通常の曲も完璧だが、ラスト、ナニワ80年代の曲のメドレーも完璧。

清水のMCと合わせ、今回のライブをもっとも真剣に考えていたのは、ナニワの5人なんじゃないか。高校生の平含めて。お客さんに楽しんでもらう、演奏を聴いてもらうということ。他の出演者は「会場が提供されるから出る」くらいにしか感じなかった。勝手な憶測だけれども。それくらい、ナニワの気持ちが伝わってきた。感動した。2003年、初回のCROSSOVER JAPANでも、幕間の不手際を清水たちが自らフォローし、セッションを始めたそうだ。そうした優しさを強く感じたナニワのステージだった。

曲は、
・(未詳)
・BETWEEN THE SLY AND THE GROUND
・SPOT
・9TH MOUNTAIN HIGH
・メドレー(RED ZONE、JASMIN、BELIEVEIN'ほか<順不同>)
だったか。こういうの覚えるの苦手なので。

* * *

高中、鈴木は「オレのギターを聴け」というスタイル(別に悪いという意味ではない)。鈴木はMCもないに等しいし、演奏が終わるごとに必ず「どぉーもー」と一言だけ言って、そこは素人かよというレベル。パラシュートはセッション的な印象でバンドらしいまとまりは感じられず、バンドと言うよりも「井上鑑+バックバンド」だった。香津美は香津美らしく、バンドとしてのまとまりとか求めてないのでこれはこれでよし。すごい。オラシオ・エルネグロ・エルナンデスのものすごいドラミングも聴けたし。カシオペアはさすがだけれど、基本はナルチョによるフィーチャリング・野呂一生。今回のイベントは、ナニワがいなかったら単なる寄せ集めフェスにしかならなかったんじゃないだろうか。

個人的には、ナニワに感動した。2月のライブも行こうか。香津美もすごかった。香津美はCDより生に限る。


書きたいことは山とあるけれど、きりがないしとりとめもないのでここまで。
あ、高中バンドの、高中のボーヤ。ボーヤなんだから、バックで首を振り振りしないで。高中にスポットが当たると、その後ろで低い位置に生首が動いているように見える。ボーヤは隠れていてください。

* * *

20121229a_001.JPG大学4年生のときだっけ? ナニワのコピーバンドをやったときに作ったTシャツと、当時のCD。ほか。MODRERN BEATは発売当時の黒いインナーのものがあったが、人に譲ってしまった。サイレント・サバンナはレコードで持っている。


1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(1)

1995年~1996年の年末年始 八重山への旅(1)

TT250R

会社に入って1年目の年末は、週刊漫画サンデーの編集部にいた。週刊誌なので、年末年始は「繰り上げ+1号休み」となり、都合2週間、まるまるあく。それを利用して、八重山に行った。バイクはTT250R、有明埠頭からフェリーに乗って那覇へ行き、那覇から石垣へ。基本的に石垣島に滞在し、周辺の島にも行こうと思っていた。当時は情報がほとんどなく、キャンプ場などがあるのかないのかすらわからなかったが、港でもどこでも野宿できるだろう、という感覚で出かけた。

旅程はこうである。

12/23(土) 20時有明発(琉球海運)
12/24(日) (船中)
12/25(月) 21時30分那覇着。2時間遅れ。石垣行きフェリーに乗り継げず。

49時間30分の船旅では、初めて吐くほどの船酔いをした。その間、コンビニで買ったおにぎりしか食べなられなかった。

さて、石垣に行けなくなった。那覇~石垣のフェリーは3日に1便くらいしかない。ところが、乗る予定だったフェリーとは別の、石垣経由台湾行き『飛龍3』が20時に那覇を出港していたにもかかわらず、犯罪者が乗っていてそれを送還するというトラブルがあり、那覇に戻ってきていた。おかげで、それに乗れた。

2時乗船、5時30分出港。16時頃、宮古島着。3時間ほど停泊するので、下りていいという。

20121229_008.jpg船内で知り合ったライダーとともに散策する。九州本土から遠く離れた宮古島にも、本土と同じ形式で普通に国道があり、県道があることが奇異に見えた。

いや、同じ形ではない。手書き看板のようだ。

初めての沖縄そば(宮古島版)を食べ、18時40分、船に戻る。19時ジャスト、出港。


12月27日(水)0時50分、石垣港接岸。そのまま米原キャンプ場まで走るが、どうもイマイチなので、サザンゲートブリッジの下を住処とすることにした。

事前の情報収集が悪く、帰りはフェリーで帰れないことがわかったので、旅行代理店へ行き、帰りのバイク無人航送の手配を氏、自分が飛行機で帰るためのチケットを取った。飛行機代は、4万9610円もした。

(続く)

『勇気ある決断 アメリカをつくったインフラ物語』(フェリックス・ロハティン/鹿島出版会)

『勇気ある決断 アメリカをつくったインフラ物語』(フェリックス・ロハティン/鹿島出版会)

土木・地図の本

PC240058.JPGアメリカの繁栄を築いたのは、土木インフラである。それを実現したのは、目先にとらわれず、遠大な構想を持って未来を見据えて実現に取り組んだ、偉大なる牽引役たちで、その多くは大統領である。しかし、いま、老朽化によってそれらが危機に瀕している。いまこそそれらを大々的に補修すべきであり、そのための投資と管理監督する、全米復興銀行を設立すべきだ…ということを主張する本だ。内容は、アメリカの「歴史的十大事業」の計画から実現、結果までを概説したもので、基本的に礼賛している。

帯にある、十大事業と、それを導いたリーダーたちを列記する。
・ルイジアナ買収(ジェファーソン)
・エリー運河(デウィット・クリントン)
・大陸横断鉄道(リンカーン、セオドア・ジュダ)
・ランドグラント・カレッジ(リンカーン、ジャスティン・モリル)
・ホームステッド(自営農地)法(ジョンソン)
・パナマ運河(セオドア・ルーズベルト)
・地方電化局(フランクリン・ルーズベルト、モーリス・クック)
・復興金融公社(フーヴァー、フランクリン・ルーズベルト)
・復員兵援護法(フランクリン・ルーズベルト、ウォレン・アサトン)
・州間高速道路システム(アイゼンハワー)

どの章も、礼賛、礼賛、礼賛、ネガティブな面、「だがしかし、それを補ってあまりある利がある」的な構成となっている。例えば他国の領土内に自国のための運河を建設したパナマ運河などというものは、アメリカ帝国主義の最たる例だと私は思うし、そうしたことも本文には書いてあるが、「ビッグスティック外交」=軍事力をちらつかせて相手国を脅し、不平等な条約を結ばせることについては、あまりにもアメリカの視点でしか書いていない。だから、各項目のネガティブな面は自分で礼賛と同じくらい調べれば、概要を把握するのには適当な本だ。幸い、ネガティブな面がなんであるかはわかりやすく載っている。


本書を読んで思うのは、次の二点。日本で言えば明治時代の志士のような、志を持ってものごとを成し遂げた人物がたくさんいること。もうひとつは、汚職や腐敗は日本の比ではないということだ。

私が周辺情報を含めてなんとか把握している大陸横断鉄道で見れば、前者がセオドア・ジュダ。後者は、ビッグ・フォーと呼ばれた泥棒貴族的な連中だ。アメリカの資本家は、とにかく自分の腹を肥やす。カルテルを組み、値段をつり上げ、政府から、庶民からむしり取る。株価を操作し、売り抜け、大儲けする。そしてその下で建設に駆り立てられた膨大な人数の最下層(奴隷も含む)が殉職していった。そうしたアメリカ経済の負の面は、本書だけではちょっとわからないと思う。日本では、そこまでの私服の肥やし方はない。働き方については『高熱隧道』的なものや、北海道のタコ部屋労働のようなことがあるけれど。

おもしろいのは、そうした面々やその関係者が、日本の経済にも深く関わっていたりすることだ。それは本書には載っていないので、アメリカ鉄道史とその登場人物(資本家)を丹念に追ってみると面白い。幸い、wikipediaに「アメリカ合衆国の鉄道史」というすぐれた項目がある。僭越ながら私が関わった記事もそれなりに役に立っているようだ。同じように、エリー運河にも、ホームステッド法にも、そういう物語があるだろう。それらを把握してこそ、アメリカのインフラ史をおもしろく感じることができるだろう。本書はきっかけに過ぎない。



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