私が担当した本が、本日から書店に並んでいる。写真は神保町の書泉グランデ6階(許可を得て撮影)。
『駅Q』『列Q』。鉄道をテーマにしたクイズ本だが、たぶん、「これは楽しい!」と思ってもらえるはず。 いままで、鉄道クイズ本はありそうでなかった。作るのが難しかったのだと思う。問題を「Q:用語/A:その解説」とすれば、すぐにでも、だれにでも作れるのだが、そんなものが売れるわけがないと世の中の編集者は思っていたのだろう。私もそう思う。こんな本、誰か欲しいだろうか? Q:キハ58に搭載されていたディーゼルエンジンの型式は? A:DMH17H。(以下wikipeidaのコピペのような説明) * * * 本書二冊は、『駅Q』の冨田さんが作成した問題をきっかけにして生まれた。こちらで多少の編集はしたが、最初から、問題は上記のようなテイストがいっさいなく、『駅名おもしろ大辞典』(夏攸吾著/日地出版)のような「楽しさ」に満ちあふれていた(意外なことに、冨田さんは同書をご存じなかった)。考えたこともないような観点で、「駅名」で遊んでいく。「駅名」であり「駅舎」や「駅の歴史」ではないことが、鉄道に詳しくない人も、あるいはものすごく詳しい人も楽しめる要素だと直感した。これはいける! ならば、単体ではなく、シリーズ化したい。そこで、栗原景さんに『列Q』を依頼した。列車名をメインに問題を考えていただいた。こうした設問にはユーモアが必要で、その点、ユニークな問題も散りばめられている。 問題の例は、amazonをご覧いただきたい。 ・駅Q ・列Q 冨田さんは、「鉄道コム」のスタッフの方。仕事とはまったく別に個人で駅のデータベースを作り、そこから駅名の漢字を集計したり、駅の数をカウントしたりしていることから、本書ができた。 カバーデザインは、『タイポさんぽ』で知り合った松村大輔さん。イラストはライター・イラストレーターの川辺謙一さんにお願いした。すばらしいカバーになった。 (関連項目) ・『鉄道をつくる人たち』(川辺謙一著/交通新聞社) ・タイポさんぽ(藤本健太郎著/誠文堂新光社) ・『タイポさんぽ』刊行記念トークイベント「タイポがたり」 ・川口メディアセブン「かわぐちタイポさんぽ」 『駅Q』『列Q』どちらも、解答できなくても読み物としてもおもしろいはず。ぜひ。各冊定価780円。 PR
米屋こうじさんの写真集が発売された。ほぼ同時に銀座のキヤノンギャラリーで写真展が開催された。オープニングパーティーもぜひうかがいたかったが、どうしても都合が付かず、その後もアレで、なんとか最終日に写真展にうかがった。
(撮影自由でした) 大きなパネルが並ぶ会場。 米屋さんのお好きな、アジアの鉄道風景…いや、アジアの、と形容するのは適切ではないかもしれない、「鉄道がある風景」が、そこにあった。拝見して思ったのは、「どれだけ、鉄道の近くにいたのだろう?」ということだ。 とにかく、鉄道のそばにいる。夜明け前から夜更けまで鉄道を見つめている。間にご飯食べたりビール飲んだりしながら。そうすると、ふと、その瞬間が舞い降りてきて、自然とそこに絵ができていた…そんな印象の作品ばかり。それに出会うのもまた、写真家のワザだと思う。(念のために書くが、偶然いいシーンに出会ったからこそ作品できあがった、などというくだらない話をしているのではない) 作品の色は、赤と、真っ青。どちらも印刷では表現しづらいような色。緑はすこしくすんでいる。写っている人々の肌は、褐色だから赤の印象を強める。そして、太陽光線。もし、米屋さんと行くアジアツアーなんていうものがあったら、なんとか工面して参加したいものだ。私も、こういうシーンに立ち会いたい。もっとも、写真など撮らないかもしれない。写真は米屋さんにお任せして、この目で、見たい。 * さて、写真集。制作の過程は米屋さんのブログにアップされている。 鉄道憧憬 感想は…写真展のパネルとは別物だということ。写真集は写真集だけの作品世界になっているということ。当然といえば当然のことなのだが。 全体に、ネガで撮ったプリントを原版にしたかのような軟らかい色調なのは、意外だった。会場で米屋さんがおっしゃっていたのだけれど、写真展の作品が掲載されているわけではない。おそらく、この色調の雰囲気とこのサイズで見るからこその作品のセレクトと思われる。ページをめくるたび、そこに現れる人たちの表情に、読み手の心はほぐれていく。これこそスナップと呼びたい。 外国製のポストカードは、良質のスナップが多いけれど、それに通じるものがある。1枚1枚が切り離せて、ポストカードみたいに、机上に飾ったり、壁に貼ったりできたらいいのに。 そういう造りなので(と私は勝手に思っている)、大きなパネルで展示されていたバングラディシュの写真は収録こそされているが、失礼ながら、こちらはパネルの色調と大きさに軍配を上げる。そして、そういうパネルもまた「ほしい」と思わせてしまうのだから、こわい。いままで写真展はそこそこ見てきたけれど、「ほしい」と思ったのは初めてかもしれない。どれもすてきだったけれど…P53のWay home from school、がほしい! * 写真集は、ハードカバーで2310円。安い。ジュンク堂池袋店2階に旧知の店員さんがいるのでそこで買おうとして言ったところ、なんと最後の一冊で、ちょっと傷んでた。だから取り寄せてもらい、先日、やっと入手した。いまはジュンク堂にもちゃんと面陳されている。 こういう本が、こういう世界が商業的に受け入れられるとき、やっと、鉄道趣味が、「それと意識しない文化」になるのではないかと思う。常々思っていることだけれど、鉄道趣味誌は「楽しい」が、ない。憧れも、ない。知識しかない。タコツボ化がひどいと思っている。(鉄道)写真家がめざすものと、鉄道ファンがほしがるものが違ってしまっている。ほどよい文芸作品がいっさい存在せず、ラノベと文芸評論しかない、みたいな感じ。それじゃダメだろ。これは、メディア側の問題だと思っている。なんとかしたい。 * 米屋さんのパネル作品には、これから仙台、大阪、札幌で会える。絶対に行くべき。 米屋こうじ写真展:I Love Train ~アジアレイルライフ~
作品のいくつかは、米屋さんのサイトにも掲載されている。 http://www.geocities.jp/yoneya231/ スマホですみません。米屋さん、最終日、多くの方々に囲まれてお忙しいところ、やっとお話しできました。。。
※2016年1月、『されど鉄道文字』を読んで改稿。下線部は『されど鉄道文字』で判明した、私の誤認だが、そのままにしてある。後述の(C)(D)(E)は私は分けるべきと思うし、それを同じ「スミ丸ゴシック」として記述してしまうことには反対する。それは『されど鉄道文字 駅名標から広がる世界』(中西あきこ著)で述べる。
「鉄道文字のおはなし」という記事があるのを知ったので、パラパラとチラ見してそれなりにページ数があったから買った。ところが、体系だった記述になっておらず、多くのミスリードを招きそうだ。 「スミ丸ゴシック」という言葉と「書体」の概念を知ったばかりの人が、なんでもかんでもそれにあてはめようとしている、という印象。国鉄の書体を策定した方へのインタビューもあるのだが、「なぜその書体が制定されることになったか」という話がいっさいない。国鉄の書体はおろか、世の中の書体を誰が作っているか、看板のペンキ文字を誰が書いているか、そういう前提の知識がない、特に若い読者は、この記事で大きな誤解をしてしまうだろう。基礎と俯瞰を織り交ぜながら記事は書かれるべきで、編集者は、それが不足していたら指摘し、再構成すべきだ。 * 国鉄は、いくつかのオリジナル書体を持っていた。官庁(ではなく「公共企業体」ではあるが)らしく、ゼロからすべて自分たちでまかなおうとしたからではないかと勝手に思っているのだが、たとえば国鉄時代にはこんな書体があったのは、鉄道を知る人なら漠然と知っていると思う。 (A)車両の文字表記書体(1)機関車の形式記号等 例)「C62」「EF65」「DD51」という書体 (B)車両の文字表記書体(2)客車・貨車の形式記号等 例)「クモハ101」「ワム80000」という書体 (C)現在「国鉄方向幕フォント」として知られる書体 (D)行灯色の駅名標やホーム上屋柱(現在のJR東海の駅名標の平仮名書体に近い) (E)Π型の駅名標に使われていた書体(こちらのサイトの「神足」) ・ほか (縦書きホーロー看板の駅名標の書体には(C)(D)どちらもある) 上記のうち、(C)が1967年に最初に制定されたスミ丸ゴシック、(D)が後年追加された(新たに追記された?)スミ丸ゴシックである。「スミ丸ゴシック」または「スミ丸角ゴシック」というのは書体のセットの名称なので、これ以外のものをそう呼んではならないと思う。これらの書体にも図面があった。その図面は鉄道ジャーナルやRailMagazine等で何度も公開されており、広く知られている。 現在は各社独自に書体を規定しており、駅名表記も車体標記もバラバラである。 なお、国鉄だけでなく、郵政省も独自の書体を持っていたし、引き継いだ日本郵政も独自の書体を改めて定めている。出版社では、写植時代、大手版元は独自の書体を持っていた。書体とは、そういうものである。 * さて、以下は過去に読んだ本と自身の経験による記述である。私の思い込みによる誤りもあるかもしれないので、それを含んでご覧いただきたいし、誤りがあればぜひご指摘およびご教示いただきたい。なにしろこの手の話題はとても少ない。いきおい独自研究になってしまう。 本書の記事が恐ろしいのは、なんでも「スミ丸ゴシック」だと考えてしまうことである。そして、(C)(D)を区別していない。また、端部が丸い文字はすべて「丸ゴシック」に分類してしまう。写研の書体である「ナール体」は、たしかに丸ゴシックの派生なのだが、これを単に「丸ゴシック」と称するのは書体の話の記事ならば、ありえない。ナールは、ゴシックの端部を丸めただけの書体ではなく、総合的にデザインされた、とても優れた書体である。いまでも道路標識で多用されている。 この駅名標の写真がいつの時代のものであるか、それがとても重要だと思うのだが、仮に国鉄時代だとしたら、私がキャプションをつけるなら「稀に写研書体の駅名標もあった。これはナール体といい…」。JR化以降なら「JR化以降、写研の標準的な書体を使用するようになった。これはナール体といい…」。 国鉄時代の駅名標は、地域ごとに非常に強い個性があった。地元の看板書きが書いたのではないかと思っているのだが、非常に大きな地域的な偏りがある。ごくごく一般的に言って、町の看板屋が書く文字といういうのは角を丸めた太い文字がほとんど。なのに、そうした個性溢れる文字をすべて上の(C)(D)でいう「スミ丸ゴシック」を基準にして語り、「それ以前は丸ゴシック」と結論づけるのは暴論に過ぎる。私が30年ほど前に撮った狭い地域での数十の駅名標の写真をご覧になっただけでも、いかに個性に富むか、またいかに偏りがあるかがわかるだろう。昭和50年代後半になっても、まだ(C)(D)とは別個に、看板書きが「スミ丸ゴシック」などおかまいなしに書いていたのである。 また、駅名標は適宜塗り替えられていて、昭和40年代は、さらに前の世代の駅名標が多々残っていた。より地域色が濃かった。図らずもそれを記録しているのが、『駅名おもしろ大辞典』(夏攸吾著/日地出版)である。筆文字の駅名標も多数掲載されている。 * もし「デザイン」として国鉄文字をの記事を作るならば、JR東海の須田寛初代社長が制定に関わった、というあたりを掘り下げるべきだろう。それを現在に継承するJR東海の見解も聞くべきだろう。また、JR6社の駅名標の標準形式の意図とそのデザイン的な比較もあっていいだろう。書名は『鉄道デザインEX』なのだ。 それ以外にもいくつもネタはある。たとえば東京メトロが現在のサインに置き換えたときにはパンフレットを発行し、そこには書体まで細かく指定してあった。あるいはそれ以前の営団地下鉄の書体、4550というのだが、それだけで本まで出ている。(こちらの記事に詳しい。新設計書体〈ゴシック4550〉 — 営団地下鉄用に設計されたサイン書体の資料集) この記事は、鉄道各社が腐心してきた書体・サインの歴史を知らないライターが思い込みでさまざまなものを混同し、そのまま書いてしまったように思う。本書には、この記事に限らず「サイン」の写真が出てくるが、それがどういう意図で作られているかは書かれてない。例えば「エキのナカ巡り探検隊」という記事では、サインやデザインのキャプションは「なかなかしゃれている」「しゃれた街灯」「目を引く」「俗に『修悦体』と呼ばれる独自のフォントを発見」「なんともシンプルなサイン」…路上観察にすらなっていない。 非常に残念な記事であり、かつ、ここに書いてある記事を鵜呑みにしてなんでも「スミ丸ゴシック」と言い出す人が出ないことを祈るばかりだ。 スミ丸ゴシックについては、こちらのサイトが非常に詳しい。この方に書いていただけばいいのに。 スミ丸ゴシックに関する研究 * * 以下、ついでに記す。 JR東日本は、JR化当時、駅名標の書体を「ゴナ」に定めた。写研の書体である。時が経ち、駅名が改称され、新駅が造られ、駅名標を変更する際には「ゴナ」に酷似したモリサワの「新ゴ」が使われるようになった。PCで扱えるのが後者で、前者は対応していない(だから出版物からほぼ駆逐された)。現在はそういう仕事環境なので、いきおい「ゴナのようなもの」を使ったのだろう。新ゴは「似ている」ということで写研から訴えられている。 ちょっとどの駅かの記憶がないが、そうした書き換えの狭間に、メイン書体がゴナ、隣駅表示が新ゴになっている駅名標を見たことがある。慣れてくると一発でわかる。とくに「か」「さ/き」「り」などが見分けやすい。ぜひ。
2012年北海道ツーリングの終盤、ミッションがおかしくなった。5000回転ほどまで上げないと、ローからセカンドに入らなくなった。ドグが欠けたか。まあしょうがない、だましだまし丁寧に走り、帰ったら修理に出そう。そう思っていた。しかし、最終日前日には、3速、4速への入りも悪くなる。セカンドへは、7000回転くらいまで上げないと入らなくなった。
帰京後、YSP横浜南に相談すると、どうもドグだけではすまなそうだ。3年前のオーバーホールでは腰上だけで済んだが、今回はクランクも割らなければならない。20~30万円コースだ。加えてブレーキ周りはディスクの交換をしなければならないほどだ。クラッチも、まだ滑ってはいないが、替え時ではある。それらでプラス10万以上かかる。 対して、腰上オーバーホール後まだ5000kmくらいしか走っていないし、チェーンとギヤも交換したばかり。なにより、オリジナルのカラーリングだ。こういう時のために、予備エンジン(5万km走行)も持っている。いろいろ迷う。 1997年3月に2台目のスーパーテネレとして購入してから16年。30~40万かけて修理してまで、このヤレたバイクに乗るのか。好きで乗ってはいたが、絶対評価で言えば、フロントタイヤは細いしブレーキは効かないしフレームはよれる。気持ち良くはない。 だから、もう乗るらないことに決めた。 これからは、ランツァ(妻のだが)とRMXに乗ってあげよう。 * かといって、車検場での廃車手続き、つい億劫で行かなかった。いよいよ年度末、4月にはると税金がかかる。そんなときになって、ようやく手続きに行った。 さようなら、練馬ひ69-51。抹消登録だから、再度登録すれば乗れるのだけれど、その時には、練馬C…などというナンバーになってしまう。 北海道から帰ってきてからいっさい乗っていないので、オドメーターは5万5214マイルを差している。8万8858kmほどだ。10万kmには届かなかった。 * 北海道から沖縄までの47都道府県と、ロシアを走った。林道ばかり行っていた。アタックにも持っていった。全盛期の「女神湖スカイエンデューロ」にも出た。国内に数百台しか入っていないスーパーテネレとしては、かなりダートを走った方だと思う。でも、2000年代に入ってからは日常生活に時間を取られ、1年以上まったく乗らなかった時期もあった。ここ数年は年間2000~3000km程度、要するに年1、2回の遠出くらいしかしていなかった。まあ、そんなものだろう。 とはいえ、このカテゴリ、これで最後ではなかろう。車体をどうするかは決めていない。とりあえず、そのまま保管しておく。 スーパーテネレに関するページ等へのリンクを記念においておく。 ・2001夏 北海道 最後のバイクツーリング ・2002春 ロシアンラリー ・ブログのカテゴリ:スーパーテネレ ( 26 ) ・Flickrにとりあえずアップした分:SuperTENERE
ここに、1枚の国鉄柏崎駅の入場券がある。私が生まれる6年前の3月。今は亡き母方の祖母から預かったものだ。祖母は柏崎に住んでいた。
「汽車が好きらろ? これ、持ってけっや。おれが持ってても、死んだらどうなっかわかんねっけの」 祖母はそんなことを言いながら、きっぷを集めていた小学生、たぶん6年生くらいだったと思う、その私にこの入場券を寄越した。祖母の家に遊びに行くのが最大の行楽だった、昭和50年代後半の話である。 祖母がこの古い入場券を持っていたのは、偶然ではない。ちゃんと、取ってあったのだ。十数年、仏壇の下の引き出しに入れて。 裏を返すと、ボールペンでこう書いてある。 41年3(月)20日 君代の見送り 「君代」とは、私の叔母の名である。当時18歳の叔母が、就職のために柏崎駅を後にするときの、その母による見送りの印であった。小学生とはいえ、私がそんなものを受け取っていいのかというためらいはあったが、「持ってれ(持ってろ)」と言われるがままに、大切にしまった。新潟の家に帰り、母にその話をした。 私はきっぷを手製のクリアファイルに貼って保存していたが、この入場券はそうする気持ちにならなかった。この裏面が見えるようにしたかった。といって、バラで持っていたらなくしてしまいそうだ。そこで、プラ板で挟んで、ファイルに綴じておいた。写真の下側、磨りガラスのように見えるのは、プラモデル用接着剤の刷毛の跡である。 * いま思えば、なぜ祖母は私にこれを託したのだろうか。孫は私を含めて10人いた。昭和41年に見送られた叔母も既に柏崎市内に戻って住んでおり、私と同世代の子どももいた。また、直系の孫も同居していた。なのに、なぜ私に? 理由などない、のが正解である気もするが、そうでもないかな、という自惚れた思いもある。 家族で祖母宅に遊びに行ったとき、いつも子どもたち同士で最大6人くらいで同じ部屋に寝ていた。親戚宅というのはそういうものだろう。しかし、ときどき、私だけが祖母の部屋で寝泊まりした。また、祖母宅に行けば、私が幼少の頃に亡くなった祖父のために、私が一番に仏壇に線香をあげていた。別に祖父に特別な思いがあったわけではない、実は名前すら知らない。ただ「そうするのが普通だ」と思っていただけだ。それを、祖母はとても喜んでいた。一度だけ、インスタントコーヒーを飲む祖母を見て、あまりに祖母と似つかわしくなくて、「コーヒーなんか飲むんだね!」と言ったら、「ちょっとつらいことがあったときに飲むんだわ」と言っていた。祖母は、私を少しだけ、ほかの孫たちよりも大事に思っていてくれたのかもしれない。そして、「汽車が好き」ということで、このきっぷを託していいと思ったのかもしれない。 それから何年か経ち、昭和63年に祖母は亡くなった。もし、この時点で私に託していなかったら、遺品としておそらく叔母の手元に渡っただろう。叔母ももういい年だ。昭和41年から47年も経っているのだ。いままで漫然とこの入場券を手元に置いておいたけれど、いつか、「預かっていたよ」と、渡さなければいけない気がするのだが、その時のことを考えると、なぜか涙がにじむくらいなので、笑って渡せる自信はない。 |
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