天竜浜名湖鉄道が、天竜川を渡る橋梁。上の写真は下流側・左岸から撮影。 溢流部(西鹿島寄り)は7連のプレートガーダー、本流部(掛川寄り)は3連のワーレントラス。冒頭の地図を「写真」に切り替えればわかるとおり、現在もその関係は変わっていない。架設時と現在とで、溢流部と本流部が逆転したり、流量が変化してまったく流路が変わることも珍しくないのだが、この天竜川橋梁は架設当時と同じ状況にある。 歴史的鋼橋集覧はこちら。 第1連。 民家すれすれというか、おそらく流路だったところにトラスが架けられ、その下に堤防が築かれ、その内側(堤防では「外」になる)は陸地化されてそこに道路や住宅が…という流れかな、と推測する。それにしても、この「頭上注意」の下の低さはどうだ。民家の近さはどうだ。列車が通ると、とてもうるさいに違いない。 第1連~第3連は同型のトラス桁。写真は第3連。斜材は45度か。径間62.4vmなので、200フィート級だ。 第3連(トラス)と第4連(プレートガーダー)の架け違い部。こういうものを見ると、枕木高さ等の調整がシビアなんだろうなあ…という思いがする。それと、自分の水平感のおかしさが…orz 第1連を裏側から。 橋脚を見ると、トラス桁部分はπ型、その向こうのプレートガーダー部分は円形だ。 この角度のほうがわかりやすいかもしれない。 橋脚が華奢に見えるかもしれない。この天竜川橋梁の設計活荷重はKS12。上の写真の第2連のトラスの右側端柱右側に銘板があり、そこにも書かれている(銘板のアップはブレていたので割愛)。 この天竜川の上流側には、カンチレバートラスの鹿島橋が架かっている。私はその鹿島橋も記載したつもりだったが、まだ記事を書いていなかったようだ。後日、書く。 PR
太田川橋梁(天竜浜名湖鉄道)その1の続き。第2連から第12連について。
おそらく第3連。第2連と共に短い(第2連の支間は12.9m、第4連以降は19.2m)。 第3連と第4連は長さが異なるので高さも異なるので、このようになっている(右が第3連)。気になるのは、第3連左端、ウエブの上に三つ、下に四つ、それぞれ縦に開いた孔だ。かつてここにリベットで何かの部材が取り付けられていたのだろうか? こちらは下流側。赤く囲った部分に、謎の物体やプーリーが存置されている。かつて電信線が通されていたものか。といっても、蒸気機関車の時代に撮影された写真にも、撤去されていたように見える。 これが謎の物体。碍子…ではないような。4枚の水平方向の板は放熱フィンにも見える。どういう用途の何だろう? 気長に気に留めておくことにする。 (左岸南側より。画像右手=戸綿、左手=遠州森) 天竜浜名湖鉄道の、遠州森~戸綿間にかかる…というよりも、戸綿駅の、遠州森寄りにある橋梁である。橋梁192m、全12連。今年(2011年)1月に登録有形文化財(建造物)となっている。今回は戸綿から見ているので、そちらを基準に書く。 この太田川橋梁は12連で、戸綿駅側から1、2、…と番号が振られている。第1連のみ下路プレートガーダーで、下を県道58号が通り、第2連から第12連までは上路プレートガーダーである。径間はそれぞれ異なる。 戸綿駅のホームから見ると、こうだ。 左下にガソリンスタンドが写っている。実は、そのスタンドを見に行ったので、この太田川橋梁は行きがけの駄賃だったりする。スタンドについてはいずれ書く。 まずは、第1連。 桁下高さを稼ぐために下路となっている。しかし、橋梁ガードはない。もしここにハイキューブコンテナを積んだトレーラーが突っ込んできたら…。 (9/3追記:ここはガード下4.45m。ハイキューブコンテナ積んだトレーラーは約4.1mなので、大丈夫でした) 橋台に乗る端部。塗装標記はこう。 橋りょう名 太田川橋りょう 位置 戸綿~遠州森間12K266M87 支間 12M90 塗装年月 2000年3月 塗装回数 3回塗 塗装種別 下塗 塩基性クロム酸鉛系サビ止ペイント 及塗料名 中塗 長油性フタル酸樹脂塗料 上塗 長油性フタル酸樹脂塗料 塗料会社 大日本塗料株式会社 施工者 加藤塗装株式会社 下路桁なので、横桁がかましてある。腹材との接合部は、上に赤く囲ったとおりの場所にある。リブひとつおきに配置され、リベット留めされている。 銘板。 鉄道省 活荷重KS12 図すは212 川崎車輌株式会社製作 昭和八年(○○○○○○) ----------- 材料 I.○○○鉄○ C. 仝上 L. 仝上 日本鋼管株式会社 鈑 川崎製鉄所 鋲 浅野○○製○所 隣接する第2連の桁から、上路になる。 その架け違い部分。右が第1連、左が第2連。こちらも支間は12.9m。左下に見えている屋根は公衆トイレ。 第2連を下から。 奥(画面下)が第1連だ。 この部分の橋脚は、下路鈑桁を受けるために幅広になっている。上路鈑桁の部分は、いささか持てあまし気味だ。 太田川橋梁(天竜浜名湖鉄道)その2へ続く
一昨日、『「鉄道物語」マイブックでつづる鉄道写真家17人の写真集展』と広田尚敬『Fの時代』の違いを書いたので、その続きとして、広田氏の2冊の写真集をもとに、もう少し書いてみたい。
広田尚敬氏の「鉄道写真60周年」企画として、6社から7冊(インプレスからは出たのかしら…)刊行するというものがあった。そのうち、所持しているのは表題の『Fの時代』(小学館)と『Cの時代』(JTBパブリッシング)だけである。そのほかの4冊(インプレスは見てない)は、手には取ったけれど、買ってはいない。本当は、あと1冊、『昭和三十四年二月北海道』(ネコパブリッシング)は欲しいのだけれど、いちまんえんにおののいて未入手である…。 『昭和三十四年二月北海道』は置いておいて、なぜ『Fの時代』と『Cの時代』を持っているのかというと、この2冊が突出して「写真集」として、優れているからだ。私の「写真集観」にあうのだ。広田氏の作品といえど、編集がダメなら写真集として鑑賞できなくなる。『Bの時代 鉄橋コレクション』(講談社)はその悪い例で、「過去に撮ったものから、鉄橋を撮影地にしたポジだけ集めました」というようにしか見えない。編集者は、広田氏が「なぜそこで鉄橋を構図に入れたか」などは考えていないのではないか。『Cの時代』の中にも、鉄橋(この言い方は好きではないが)を渡る作品はいくつもある。効果的に組み合わせてある「流れ」もある。それができていないのは、編集が悪い、のだ。 さて、『Fの時代』と『Cの時代』。この2冊は、判型も違うし、制作の方法論も違う。推測だが、『Fの時代』は、贅を尽くして「思う存分、作り上げた」もの。4935円という定価がそれを物語る。紙、印刷、装丁、すべてに手を抜いていない。横長の本を、書店の棚に並べやすくするために箱入りにするなど、それだけで単価で数百円はかかるはずである。でも、できた。思う存分できるのは、編集者としてこれ以上羨ましいことはない。一方、『Cの時代』は「キャンブックス」といA5判のシリーズに組み込まれている。装丁(いわゆるデザイン)も価格もシリーズの統一感や制約がある。なのに、この2冊の写真集の展開は、そっくりなのだ。 具体的に同じという意味ではない。読者が、「次の展開はこうかな…」と予測できるのだ。言い方を変えれば、読者が自然に「流れ」を感じることができ、引き込まれていく。どちらかといえば『Cの時代』よりも『Fの時代』のほうが、より強く「流れ」を意識できる。例えば、44ページから。 隧道から飛び出す、右向きのC59 ↓ 右向きC62の後追い ↓ 右向きD52の真横 ↓ 右向きD51と左向きC59のすれ違い(ここで向きが入れ替わる) ↓ 左向きC59 ↓ 左向きC59 ↓ 画面左端にC62正面がち ↓ それが引く客車内からC62のテンダ (この流れ終了) 任意のページで、こういう見方を試して欲しい。まず、任意のページで機関車の大きさと進行方向を見る。ページをめくり、次の「それ」を見る。どう違うか、その「差」を憶える。さらに次のページの「それ」を見る。きっと、「差」は同じか、等比数列のように、大きく上書きされて繰り返されていくはずだ。 膨大な数の作品を前に、それをどう並べればベストか…を考えることは、とても大変なことだ。1週間悩んでも答えがでないかもしれない。ただ、コツ はあって、鍵となる作品を軸に考えていく。上記の例でいえば、すれ違う作品が鍵である。また、最初と最後に位置する作品は、最初から「これ」と決まってい るだろう。その間をつなぐように、作品を構成していく。その作業は、「流れ」が見えてこないうちは辛くて辛くてしょうがないけれど、一度「流れ」が見えれ ば時間の経つのを忘れてしまうほど、楽しい。 最近の『レイルマガジン』のフォトギャラリーのページは、この「流れ」が見えないものばかりだ。『鉄道ファン』や『鉄道ピクトリアル』は、もともと見えなかった。要するに、拙い。『レイルマガジン』は、以前は、特集における読者投稿作品のギャラリーにしても、一人の作品によるRMギャラリーにしても、見せてくれたものだったが…。あまりにもダメ続きなので、買うのを止めてしまった。鉄道写真の「見せ方」ということについては、私の好みにとっては、あまりよくない方向に進んでいると思っている。 上遠別。北海道の日本海側、遠別町から南東方向に天塩山地に30km以上分け入ったところにある。道路は道道688号遠別名寄線。 37kmほどさかのぼったところで通行止めである。ここは正修地区。 ここまで、すれ違うクルマはゼロ。路面にはバッタが大量に発生しており、バイクで行ったのだが、靴やズボンにバチバチ当たる。バイクやズボンに、バッタの死骸がついてしまったのはかなり辛かった。現地に到着したときには、もちろん誰もいない。私ひとりだけの空間だった。(撮影の時系列が前後しているので、上の画像には他人のクルマが写っている)。 このまま直進方向が、道道741号上遠別霧立線。ここ正修から南下し、R239霧立国道の霧立とを結ぶ予定だったが、ここからちょっと行ったところで工事は中止されている。分岐を左折すると、道道688号遠別名寄線。こちらは現在も工事中だ。 前身して、振り返る。遠別側に架かる、「遠名橋」。なんという切ない名称なのだろう。 向き直ると、こんなゲートがある。 簡易なものだが、ずいぶんと年月が経っているようだ。少し、先まで歩いてみた。 なかなかいい感じだが、行き止まりなのはわかっているので引き返す。 「一の沢橋」。渡る川は、アイヤムナイ川だ。なお、かつての5万分の1地形図にはフイヤムナイ川と記載されていた。 遠別名寄線のゲート。 こちらはとても立派。 と、突然、乗用車とタンクローリーが現れた。 乗用車の方に「ここの工事は凍結されたのではないですか」と聞いたら「復活した」との返事。この向こうでは工事をしているということだろう。 ちょっとすると、初老の夫婦がクルマでやってきた。ご主人がここで釣りをするそうで、アイヤムナイ川に降りていった。 小一時間もここにいたろうか。帰り道、バス転回所とバス停を見つけた。1日3本もバスが走る? こんな無人の地に? 帰宅後、沿岸バスのサイトを見たら、たしかに走っている。ここ「32号」が終端なのは、転回場所がほかにないからか、それともここまで乗客が乗って来るという需要があるのか。 行き止まりだとわかっていて突っ込んできた道。片道37km。「なにもない」ことを、たしかに見た。 |
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