久しぶりに、ほんとうにいい本に出会った。感動的にいい本だ(内容に感動するのではなく、本の存在として)。その理由はふたつ。
一つは、いままでにこうしたテーマの書物がなかったジャンルに、いきなりアラのない、極めて完成度の高い本が出たこと。もうひとつは、それが、本来の意味の新書であること。ただし、本来の意味の新書であるならば、書店の鉄道書コーナーにしか置かれない交通新聞社新書ではなくて、ちくまや文春、新潮あたりの新書に入ったほうがよかったんじゃないかな、とも思う(しかしあとがきによれば企画は交通新聞社によるものとのことなので、それは無理)。 本書を書くに当たって著者が渉猟した膨大な資料と、関係者への取材で得た見聞に思いを馳せる。しかも著者は三十代後半、鉄道公安制度が消滅した時点では中学生だ。同時代に生き、当時から関心を寄せていたわけではない。あとがきによれば、どうやら、関心をもったのは、本書刊行の、ほんの1年ほど前だったようだ。それでいてこの内容には舌を巻く。 鉄道公安官と聞いて誰もがイメージするのは、「警察みたいな存在」というものだろう。子供の頃、鉄道公安し職員と接点のあった私もそうだった。また一般的に、こうした本は、刑事ドラマみたいなエピソード集になりがちだ。本書にも、「刑事とスリ常習者の間の情」みたいな話は散りばめられている。そういう場合、職業や職制についての解説は一切なく、たとえば刑事ドラマではなんの解説もなしに警察における階級が使われていて、視聴者はそんなことは気にも留めない。 しかし、本書はそうではない。その誕生のエピソードから鉄道公安制度というものを説き起こし、存在意義と、その狭間で揺れ動く職員たちを考察する。犯人と絡むエピソードで読者サービスをしつつ、職制や職業を解説していく。ここが、すばらしい。個人的にはエピソードは不要だし、やや過剰な気もするけれど、なじみやすくするためにはある程度は必要だろうから、マイナス評価にはつなげない。 おそらく、本書は関係者への深い取材をベースに、そこから資料にたどりつき、取材内容を補強し、客観性を持たせていったのではないかと思う。そして改めて記事内容が重複・前後しないように注意しながら時系列で構成しなおしたのではないか。構成も見事で、第1章は、ツカミ。第2章は、誕生。そこから時系列で、最終章は昭和62年3月31日、すなわち鉄道公安制度の終焉の日と後日談である。この構成が著者主導なのか、編集主導なのかはわからない。 著者の立ち位置を示す部分がある。関心のない人は読み流してしまうだろうが、私はここで止まった。182ページ。鉄道公安職員と労働運動に関する記述なのだが、そこに、こうある。 あらゆる人に聞かせたい。よく、「現代の感覚」で過去を語ることがある。労働運動は、その時代背景と空気を知らない限り理解できない。昭和50年代の、国鉄のシステム、職員などあらゆるものが置かれた状況を理解せずに物言う人がなんと多いことか。鉄道の記事を書く人にすら、こうした視点を持った人がどれほどいるだろうか。この一文で、本書への信頼感は確固たるものになった。 一点だけ、「?」と感じる部分があった。198ページ、成田空港へのタンカー列車の警備を行っていたヘリが墜落した記述である。これは「エンジントラブル」であるから、鉄道公安職員が、過激派に殺されたわけではない。いや、もちろん、この著者のことであるからそんなふうにも書いていないのだが、文章の流れは、成田空港開設に伴う過激派の活動にまつわる話につながっている。誤読を招く恐れがある。 本書の帯には、「軽~く読んで、長~く本棚へ」「鉄道犯罪を阻止するプロ対プロのドラマがあった!」とあるが、そんな安っぽいキャッチはまるで本書の内容を言い表していない。ひとつの取材を引き延ばして引き延ばして1冊にしてしまったようなもの(交通新聞社新書にある)と一緒にするな、と言いたい。「しっかり読めて、長く本棚へ」「国鉄は国家であるとともに、国民でもあった。両者の面を持つがゆえに時代に翻弄された鉄道公安制度のすべて」くらいでいい。「軽すぎる」交通新聞社新書の中の、珠玉。パーフェクト。 ひさびさにすばらしい本に出会って、気分がいい。著者の濱田研吾氏と交通新聞社に最大の賛辞をお贈りする。 PR |
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