中央本線の万世橋架道橋である。今後長い時間をかけて、鋼製橋脚をめぐっていきたいと思う。ただ「見てきただけ」であり、写真を提示するだけで、考察はほとんどないと思う。
場所は、かつて交通博物館があった場所の神田寄りである。御茶ノ水-神田間の短絡線上にあり(という表現は「文字通り」ではないな)、中央通り(国道15号)をひとまたぎしている。神田川と、区画整理されていないような歪な区画に挟まれ、苦渋の選択のようにカーブしながら道路を跨いでいる。 中央通りから見るとえらく長い架道橋に見えるが、交通博物館だった地点から見るとあまりに雑然としていて、適当にあったものを桁に利用して架けてしまった、みたいに見える(んなわけない)。この雑然感は、交通博物館跡地と、シェル石油の広大な敷地+低い建築物が路地裏感を醸し出しているからかもしれない。 御茶ノ水寄りの橋台。写真撮ってるときには気づかなかったけれど、「石丸電気」の「気」の下に、舳先のような形の装飾がある。これ、なんだろう? そのまま前進し、北西から南東を見る(地図で言えば左上から右下を見る)。見事に微妙に曲がっている。こちら側はふたつの桁が離れているが、向こう側はくっついているのに注意。写真は、左が上り線(東京行き)、右が下り線(新宿方面行き)。 そして、中央通りの中央分離帯に立てられた橋脚はトラ塗りになっている。両側に柵があるので、ここにぶつかるのは至難の業なのに。 上り線の裏側。 この桁は1928年横河橋梁製で、設計は黒田武定による。黒田は田中豊と同年代の人で、昭和14年には『鉄道工学』という書物を著している(共著)。通常、橋桁は直線状とするが、ここでは橋台の位置からして曲線桁を架けなければならなかった。そこで、黒田が設計したのが、日本初(であるらしい)の曲線鈑桁であった。 黒田はおもしろい人で、国鉄の「操重車」、クレーンを持つ業務用車両として、橋桁架設用の車両を提案し、実現している。その発展形というべきソ300は、碓氷峠の麓の横川鉄道文化むらに保存されているし、ソ1形が稼働している写真は土木学会の中にたくさんあったと記憶する。 この区間(東京-万世橋間)が開通したのは1919年(大正8年)。そして、この曲線桁が架けられたのが1928円(昭和3年)。関東大震災のためだろうか、文献には心当たりがあるのでこれは後日。 御茶ノ水側橋台。 そのまま北東に歩き、振り返って撮影。万世橋架道橋の北東面。 道路を渡り、神田方から御茶ノ水方を見る。 この橋脚が、この時代にして鋳鉄なのである。圧縮力がかかるだけであり、鋼鉄にするまでもないとでもいうのか。鉄製橋脚はもっと古いものかと思っていたら、意外に新しかった。 神田側の橋台。上り線は歩直線状に突っ込んでいるが、下り線は橋台がスキューしている。 支承部上り線。 支承部下り線。 PR
クーパー荷重の不思議のつづき。
もはやクーパー荷重の不思議を調べているのか、単なる鉄道ネタを追いかけているのかわからなくなりつつあるが、引き続きクーパー荷重の基準の検証である。 前回のエントリではwikipedia英語版を漁って車軸配置別の製造両数をざっと調べたが、手元の本に全部書いてあったので修正の意味をこめて再掲する。両数の出典は『蒸気機関車のすべて』(久保田博、グランプリ出版)である。この本と著者は国鉄目線で国鉄の黒歴史を賛美しているため、本来の設計のまずさを乗務員の決死の行動や取り扱いで解決することを美談として紹介したりしてどうにも腑に落ちない文脈も多いが、こうした数字は間違いなかろう。と思ったら間違ってるじゃねーか! 同書に「アメリカの鉄道におけるSLの生産量数10万5650両」と題して下記のような表(製造初年は筆者が加筆)がある。しかし、これは生産量数ではなく、「アメリカ国内での使用両数(アメリカの鉄道会社が購入した両数)」だと推測する。前回のエントリに書いたとおり、、1Dは3万3000両製造され、うち1万2000両が輸出されたという記述がwikipediaにある。それを差し引くと久保田氏の数字に近づく。日本人が聞きかじった(と邪推したくなる)記述よりも、アメリカのヲタのフィルタを通して書かれたものを信じたい。久保田博氏が、数字の前提を取り違えて発表してしまったのだということにする。アメリカで製造されたものは、カナダとメキシコにも大量に輸出されるのだ。カナダにはディーゼル機関車メーカーはあるが、メキシコにはない。 「アメリカの鉄道におけるSLの生産量数使用両数10万5650両」 (年号は製造初年。wikipedia英語版を斜め読みして拾ってきたものなので誤ってたらスミマセン) 2B 2万5000両(アメリカン)1831~ 1D 2万1700両(コンソリデーション)1864~ 2C 1万7000両(テンホイラー)1847~ 1C 1万1000両(モーガル)1860~ 1D1 9500両(ミカド)1884~(当初「カルメッツ」、1897より「ミカド」) 2C1 6800両(パシフィック)1900年代~ 2D1 2400両(マウンテン)1911~ 1E1 2200両(サンタフェ)1903~ 2B1 1900両(アトランティック)1900年頃~? 1C+C1 1300両(マレー)1919~ 2D2 1000両(ナイアガラ)1927~ 1C1 1000両(プレーリー)1885~(テンダー機) 1D2 750両(バークシャー)1925~ 1E 700両(デカポッド)1867~ 1D+D1 700両(マレー)1909~ 2C2 500両(ハドソン)1927~ 1E2 450両(テキサス)1919~ 上記の数字には説明したいことが山ほどあるが、それをやると枝のほうが幹より太くなってしまうので必要最小限のことを非常に大雑把に書くだけで我慢する。 ・輸送量の増大に応じて、後年のものは大型化し、それ以前のものを置き換えている(例:2B→1D) ・20世紀に入ると客車が木造から鋼製になり、重量が増大したためより大きな出力が要求された ・アメリカでは1930年代にはすでにディーゼル機関車が製造され始めていた ・大型の車両ほど製造両数が少ないのは、短期間のうちにディーゼル機関車に置き換えられてしまったため そう考えると、クーパー荷重が制定された1894年頃に幅をきかせていた車軸配置は、やはり1Dの機関車だということになる。 20世紀に入ると蒸機機関車の製造両数が減っているが、これは、小型の機関車で軽い列車を牽引するよりも、出力を増大した大型の機関車で重い長い列車を牽引したほうが、人件費が安くなるからであろう。アメリカの蒸機機関車が極端に大型化し、走行装置を2組組み合わせた関節式蒸機機関車(いわゆるビッグボーイやチャレンジャーなど)が開発されたのも、人件費節約のためである。2両の機関車を運用するより1両でまかなえたほうがいい。そして、機関車が超大型化すれば火室内への投炭は人力では不可能であり、ストーカーを使用することになり、これも省力化になる。 遠からず、ディーゼル機関車が爆発的に普及し、1両あたりの出力こそ大型蒸機機関車には及ばないものの、一人で4重連の機関車を運転できるようになれば、やはり人件費がものを言ってくる。その上、20世紀前半には、消耗戦や経営の異常さから、早くもアメリカの鉄道は斜陽化している。これらさまざまな要因が絡み合い、大型蒸機機関車の製造は19世紀の小型のそれよりもずいぶん少なくなる。 そんなこんなで、クーパー荷重からKS荷重は1D+4軸の炭水車、という基準となってしまった。後年、実際の電気機関車の車軸配置に即したEA荷重や、ボギー旅客車に即したM荷重が制定され、ようやく現実を反映したものとなり、ここに私は一安心して筆を擱くというか、PCの場合はどう表現すればいいのだ一体。
KS荷重だのクーパー荷重だの書くくせに、その根本を問うたことがなかった。それらの活荷重は、車軸配置1D+4軸テンダの蒸気機関車が重連で使用される ことを前提としているが、そもそもなぜその車軸配置を基準にしているのか。日本では、「1D+4軸テンダ」は、絶対にメジャーな車軸配置ではないのに。
テンダーの4軸を無視して書けば、車軸配置1Dのアメリカ式呼称は「コンソリデーション」といい、日本では9600形機関車が代表的である。代表的というのは適当に言っているわけではな く、大正時代に、国鉄の機関車として初めて、同一形式として大量生産がなされた車種のひとつであり、784両もが造られ、しかも日本における最後の蒸気機関車になった(=当時の使用状況において、使い勝手が よかった)というものだからである。他の車軸配置1Dの機関車は、テンダーの車軸配置を問わず、10形式計154両である。 ここでテンダーの4軸を無視した報いが来る。その9600形のテンダーは3軸である(初期にはあえて2軸の小型テンダーを連結した車両もあった)。4軸テンダーを備えるのは、 9200形(47両、ボールドウィン製)、9300形(12両、ボールドウィン製)、9400形(12両、アルコ製)の計71両のみである。この少数派の 車軸配置が、1946年に最大となる6000両弱もあった蒸気機関車使用線区における橋梁の活荷重の基準なのである。これは、あきらかにおかしい。もっとも、おかしいと いっても、これら3形式71両のそれぞれの軸距は、これまたクーパー荷重と合致しない。9600形はほぼ一致するが、炭水車の輪軸が1本少ない。 (この図における、エンジンとテンダー間の距離は、元となる形式図から読み取れなかったため、クーパー荷重以外は誤っている可能性があります) さて、ではアメリカでクーパー荷重が考案された1894年という時代を考えよう。wikipedia英語版によれば、車軸配置1D(AAR=アメリカ鉄道 協会の呼称では2-8-0。以下、アメリカでのことは2-8-0と書く)の蒸気機関車はなんと3万3000両も製造され、うち1万2000両が輸出された という。前駆たる2-6-0は1860年代に登場し、この2-8-0はペンシルベニア鉄道(PRR。「アメリカの鉄道の標準」たることを自称していた大鉄 道)にまず登場した。一説に依れば、1866年にリーハイ・アンド・マハノイ鉄道(のちのリーハイ・バレー鉄道、PRRの北東に位置する)が登場させたと いう主張もある(Swengel, F.M., The American Steam Locomotive: Vol.1 , the Evolution of the Steam Locomotive, Midwest Rail Publishing, Davenport, 1967.グーグル・ブックスでも検索できず)。ボールドウィンが提案したこの車軸配置は、当初は導入する鉄道が少なかったが、1875年にPRRが採用 して一気に普及した。従来、4-4-0が引いていた貨物列車の倍の重量の列車が牽引できたためである。 4-4-0はそれまでのアメリカでもっとも成功した車軸配置であり、1872年の時点でボールドウィンが製造する蒸気機関車の60%(年間製造両数は不明 ではあるが、数千のオーダーだろう)であり、かつアメリカ全土で使用されている蒸気機関車の85%を占めていた。一大勢力ではなく圧倒的勢力を誇った車軸 配置であった。この4-4-0にとって変わったのが、2-8-0なのである。 アメリカの機関車は日本と比較することが無意味なほどにバカでかいが、アメリカにおける、車軸配置別の製造両数を簡単に記す。すべてwikipedia英 語版による。 ・4-4-0(2B) 相当な両数があったはず ・4-6-2(2C1) 7000両(北米) ・2-8-0(1D) 3万3000両(うち輸出1万2000両) ・2-8-2(1D1) 1万4000両(うち輸出4500両) ・2-8-4(1D2) 700両 ・4-8-2(2D1) 2200両 ・4-8-4(2D2) 2500両 冒頭の疑問に戻ろう。なぜ1Dを基準にしているのか、という問いに対する答えは、制定当時のアメリカで相当多数の貨物用蒸気機関車がこの車軸配置だったか ら、ということになろう。アメリカの鉄道は基本的に貨物主体であり、それは今でも変わらない。 日本でクーパー荷重が公式に制定されたのは1909年。1Dの機関車はあるにはあったが、まだお試し期間である。過熱式はまだまだ製造できず、飽和式だった頃で、ちょっとこの時期の蒸気機関車の運用事情には疎いのだが、車軸配置C1の2120形(268両、ダブス他)が同一形式としては最多両数だった時代である。 1928年に制定されたKS荷重は、単にクーパー荷重をメトリックに修正しただけだが、その時点で貨物用機関車の主力は1Dの9600形から1D1の D50形に以降しているため、なぜ1Dのまま活荷重を再設定したのか、意味を計りかねる。とはいえ、こういうものは経験則でなされることも多いだろうし (イギリス式橋梁の活荷重の考え方がそうだ)、あるいはこの活荷重を解析する術もなかったのかもしれない。国鉄技術陣の彷徨は大正時代に始まっているが、 こうしたメトリックへの変換時に「前例を踏襲する」ことも含めて、国鉄解体まで尾を引いた技術陣の非常に硬直した、後ろ向きの雰囲気というものを嗅ぎ取ってしまうのは、あながち穿った見方でもあるまいと思っている。 クーパー荷重の解決に続く。
先日、ふらりと立ち寄った。古本屋独特の、トイレに行きたくなるにおいの中を見るともなしに見ていると、堀淳一氏の『地図の楽しみ』(河出書房新社)。のちに文庫になっているものだが、これはハードカバーの第4刷である。奥付を見ると、1972年1月初版で5月で4刷。当時は本が売れた時代だとはいえ、かなりのハイペースだ。
そんな時期の本だから、蒸気機関車が普通に出てくるし、戸井線(未成線)の記事も生々しい。なにしろ、建設中止から27年しか経っていないのだ。現代で考えれば、1983年に建設中止となったコンクリートの構造物がそのまま残っているわけで、そろそろ廃化が進むころかもしれない。 同時に、山海堂の『新・野宿ライダー』(寺崎勉著)があった。2007年に4刷だか7刷りだかまで重版していた。山海堂が倒産してしまったのはその少しあとである。 翌日、水郡線の山方宿駅に併設された交流館みたいなところに立ち寄ったら、そこはノベルスに特化した図書館の様相を呈していたが、1冊、1985年に刊行された『オフロード・ライダー』(晶文社)があった。このような本である。まだ『ガルル』が産声をあげる前であるが、それらがあろうがなかろうが、彼らはそこにいる。 風間深志氏、賀曽利隆氏、西田始氏らの文と、佐藤秀明氏らの写真と文で綴る本。ここにその断片がある。もう更新されなくなって久しい「ツーリングマップル」のページだ。見ているといろいろつらくなる。この断片は、もうそっと仕舞ったほうがいいんじゃないだろうか。
鬱々とした閉塞感から少しでも逃れたくて、それでも女々しく仕事道具も鞄に入れて18きっぷで日帰り途中下車のタビ。
水郡線の木造駅舎や、あまりにものどかな無人駅の開放式(?)待合室で和めればとおもったのだが、今日は寒くてそれどころじゃなかった。 常陸大宮駅近くの民家の軒先にあった看板。商店だったようには見えない建物だった。 こうして撮影してきて、さて月星の地下足袋はいつまであったのか、などと検索してみると、まだ普通に売っている。そして、「日華ゴム」で検索したら、これまた月星の旧社名だった。下記からすると、この看板は1949年以降1962年までに掲示されたもので、最低でも48年はここにこうして貼り付いている。その割にはきれいである。 ●月星=ムーンスターの歴史 1873 つちやたび店(個人商店)
↓ 1917 つちやたび合名会社 ↓ 1928 月星マーク制定(後述) ↓ 1931 つちやたび株式会社。社歌は北原白秋作詞、山田耕筰作曲。 ↓ 1939 日華護謨工業株式会社 ↓ 1949 日華ゴム工業株式会社 ↓ 1962 月星ゴム株式会社。氏家工場稼働(←常陸大宮に近いといえば近い) ↓ 1972 月星化成株式会社 ↓ 2006 株式会社ムーンスター なんでこんなにしょっちゅう社名を変えるのかは詮索すまい。 コンバースオールスターをライセンス生産していたなんて知らなかった。オールスターは何足買ったことか。初めて買ったのは1985年で紺、以後10足以上は買っている。最近はまったく履いていないが、まだ靴箱に1足あったような気がする。 あああ。看板一枚でいろいろと勉強になるものだ。実は月星がコウモリマークを使用していて、そこから日石のコウモリマークを連想して、「新日本石油 写真で見る120年」にあたって、本来やろうとしていたことそっちのけで読み始めてしまったのだが、もうやめておく。 仕掛品がたくさんある。こんな記事でお茶を濁さず、4月中にはいろいろ片付けたいと思う。 |
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