物語としてどちらがおもしろかったかといえば、もりた版である。
阿井版は、タイトル通り妻の目からみた三島の存在感であり、 三島と家族(二人の権妻を含む)の物語である。 史実の細かな記述があるので、そういう面では資料たりうる。 ただし、物語としてはエピソードごとに数か月ほど前後したりするので スッと頭に入ってこない。 もりた版は、高橋由一が主題ではあるが、 本書の主題である由一と三島との関係を結ぶ高崎正風や 岸田吟香(岸田劉生の父)の名脇役ぶりが楽しい。 由一や通庸の人物像はしっかりと固定されているのも読みやすい。 由一にとっての三島の存在と、三島にとっての栗子隧道の存在が 同等、同格に描かれていると感じる。 雪がなくなるころ、栗子隧道に行こうと思う。 PR
三島通庸の描き方を見てみよう。
阿井版の主人公は、タイトル通り妻・和歌子である。 そのため、夫はよき人である。 野心家でも傲岸不遜でもない。 とってつけたようにそうした表現が入ることもあるが、基調は「よき人」である。 酒田県令になったのは、長州閥の伊藤博文に「追放」されたとあり、 そこに三島にとっての絶対的存在である同郷の大久保利通が 地方の鎮撫、「徳化」、「皇化」のために行ってくれ、と依頼する。 福島県令兼任については「自由民権運動色の濃い福島県庁の人事を一新するため」 とあり、「弾圧のため」というニュアンスではない。 栗子隧道は、山形県発展のために必要なものとして描かれ、 その他通庸が建設したものすべて同様である。 一方、もりた版では、あくまで由一と対峙する、しかも由一より高みに立っている存在として 由一が身分をわきまえずに「同等、同格」になろうとする相手として描かれている。 酒田県令になったのは、排斥されたというニュアンスはなく、 大久保が未開地を開化するために派遣したとされている。 福島県、栃木県と異動するのは徐々に中央政府に近づいていき、 事実、最終的に三島は警視総監になるのではあるが、 そのための地方修行、というニュアンスである。 栗子隧道は、山形から中央へと脱出するための出口であるとともに 国家の中枢に食い込む入口として描かれている。 これだけ異なる三島像であるが、三島が見せる高橋由一への態度は、 両書とも非常にそっけない。 三島は、あくまでも発注した一業者としてしか見ていない、という描かれ方である。 阿井版は、由一に重きを置いていないため。 もりた版は、こうしたほうが構図が簡単になるため。 誰が物語を書いても、三島と由一の関係はこのようになってしまうのであろうか。
もりた版である。
新潮日本美術文庫23『高橋由一』によれば、 明治14年10月25日付の新聞に、山形滞在時に 由一は10点を仕上げたとの記事があるという。 しかし、もりた版では「栗子山隧道図」のみを納めたように描かれている。 確かに、物語の筋からいえば、山形滞在中には「栗子山隧道図」だけを 悩んで悩みぬいて仕上げる、というのが話が作りやすいであろう。 しかし、読者はこれを事実と受け止めてしまう。 縁戚の「和子」とのこと(これも事実か否かは不明)なども、事実と受け止めてしまう。 物語の展開上、人物を創作してしまうのはよくあることである。 手塚治虫もよく使う手法である。 だが、こんなんでいいのか、物語というのは?
先日書いたプラグキャップを交換した。
摩耗していたものは端子が鈍色をしていたが、 交換品(中古)は金色。 今度はちゃんと「カチッ」といってプラグがはまるようになった。 交換したのは左側。 右側は、見たところちゃんと金色だったので交換せず。 アイドリングスクリュー。 いままで、タンクをはずさないと調整できないもんだと思っていたが、 タンク下に見えるではないか! 手を突っ込めば回せるではないか! ただし隙間はごく狭く、普通の男性の手では、おそらく厳しい。 私の手(指を広げて幅22cm)で、突っ込んだ手が抜けなくなりそうだった。 対処としては、TAIYO GIKENの陽刻のある燃料ポンプをはずせばok。 始動・暖機後のアイドリングが低いので、これを適切に調整したら、 今度はチョーク引いたときに4000rpmにもなってしまった。 結局、元に戻す。 とりあえず快調也。
両者を読了。
どちらも参考資料に同じものをあげながら、 事実たるべき数値が異なるのが興味深い。 栗子山隧道について、もりた版では辻褄があわない。 ・明治13年12月貫通 ・明治13年7月19日貫通 ・明治13年10月19日拡幅完成 わずか3ページの間にこうした記述が出てくる。 天皇行幸に伴う開通式は、 ・明治14年10月3日午前10時 としている。 阿井版では ・明治13年7月中旬 東西それぞれ坑内で互いの鑿音を聞く。 両者間、60間と見積もる ・明治13年10月19日貫通 ・明治14年6月「残工」あり 天皇行幸は、 「明治14年10月3日夜半(改行)、通庸は米沢をあとにして夜明けに栗子隧道に達し、 開通式典の準備を行う」 「午前10時、天皇の乗る板輿が着御」 という記述から、翌4日に天皇が現地をおとずれたように読める。 私自身が出典を確認したわけではないため どちらを正、どちらを誤とすべきかはわからないが、 貫通というのはただ一点が通じただけであり、 拡幅し、覆工し、天覧にふさわしい仕上げを ほどこさなければならないことを考えれば、 矛盾がないのは後者である。 一方、天皇の行幸については、前者が正しいようである。 www.city.yonezawa.yamagata.jp/kanko/rekishi/pg/r07.html (米沢市の歴史探訪のページ) |
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