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子供のころ、すなわち昭和50年代半ばか末ころまで、
新潟市の万代橋の下に鉄道の線路があったと記憶している。
近寄ろうとしても無理だった記憶もあるので、あるいは金網等で囲われていたようにも記憶している。

国土地理院の国土画像情報(1975)を見てみよう。
画面中央右側に大きな面積を占める沼垂貨物駅から
右下、万代橋方向に線路が延びている。
機能的にはここは折り返し用の線路であり、
ここでスイッチバックして河口側に向かっていた。
これの末端が見えていたのであろう。

河口側には旧万代貨物駅があったが、新潟地震で被害を受けて廃止となったと記憶している。
駅ではなくなったが、引き込み線として機能していた、ということだろう。


ここで、国土変遷アーカイブ(200dpiでご覧ください)で1952年の空中写真を見てみよう。
(注)国土変遷アーカイブは正方位ではない。右に数度傾いている。

画面下の中ほど、最下段にあるのが工事中の現・新潟駅、
その上(北)にあるのが移転前の旧新潟駅である。
両者の右(西)側の結節点から上(北)すなわち信濃川方面に向かって
一本の線路が延びており、それは信濃川に出会うと右(河口)に折れている。
その先には万代貨物駅があった。
これが、前述の線路とつながっていたはずである。

八千代橋はまだなく、画面右が万代橋、左が木造時代の昭和大橋である。


ここまで見てきて、wikipediaのこのファイルが誤っていることに気がついた。
今度、関東地方測量部で旧版地形図を見て確認してこようと思う。
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両者ともに、常盤橋を重要なポイントとして設定している。
現存しないこの橋の描写が優れているのはやはりもりた版で、
質感からなにから、橋の様子が浮かび上がってくる。

阿井版では、イメージがわかない。
物語としてどちらがおもしろかったかといえば、もりた版である。

阿井版は、タイトル通り妻の目からみた三島の存在感であり、
三島と家族(二人の権妻を含む)の物語である。
史実の細かな記述があるので、そういう面では資料たりうる。
ただし、物語としてはエピソードごとに数か月ほど前後したりするので
スッと頭に入ってこない。

もりた版は、高橋由一が主題ではあるが、
本書の主題である由一と三島との関係を結ぶ高崎正風や
岸田吟香(岸田劉生の父)の名脇役ぶりが楽しい。
由一や通庸の人物像はしっかりと固定されているのも読みやすい。
由一にとっての三島の存在と、三島にとっての栗子隧道の存在が
同等、同格に描かれていると感じる。


雪がなくなるころ、栗子隧道に行こうと思う。
三島通庸の描き方を見てみよう。

阿井版の主人公は、タイトル通り妻・和歌子である。
そのため、夫はよき人である。
野心家でも傲岸不遜でもない。
とってつけたようにそうした表現が入ることもあるが、基調は「よき人」である。

酒田県令になったのは、長州閥の伊藤博文に「追放」されたとあり、
そこに三島にとっての絶対的存在である同郷の大久保利通が
地方の鎮撫、「徳化」、「皇化」のために行ってくれ、と依頼する。

福島県令兼任については「自由民権運動色の濃い福島県庁の人事を一新するため」
とあり、「弾圧のため」というニュアンスではない。

栗子隧道は、山形県発展のために必要なものとして描かれ、
その他通庸が建設したものすべて同様である。


一方、もりた版では、あくまで由一と対峙する、しかも由一より高みに立っている存在として
由一が身分をわきまえずに「同等、同格」になろうとする相手として描かれている。

酒田県令になったのは、排斥されたというニュアンスはなく、
大久保が未開地を開化するために派遣したとされている。
福島県、栃木県と異動するのは徐々に中央政府に近づいていき、
事実、最終的に三島は警視総監になるのではあるが、
そのための地方修行、というニュアンスである。

栗子隧道は、山形から中央へと脱出するための出口であるとともに
国家の中枢に食い込む入口として描かれている。


これだけ異なる三島像であるが、三島が見せる高橋由一への態度は、
両書とも非常にそっけない。
三島は、あくまでも発注した一業者としてしか見ていない、という描かれ方である。
阿井版は、由一に重きを置いていないため。
もりた版は、こうしたほうが構図が簡単になるため。
誰が物語を書いても、三島と由一の関係はこのようになってしまうのであろうか。

もりた版である。

新潮日本美術文庫23『高橋由一』によれば、
明治14年10月25日付の新聞に、山形滞在時に
由一は10点を仕上げたとの記事があるという。
しかし、もりた版では「栗子山隧道図」のみを納めたように描かれている。

確かに、物語の筋からいえば、山形滞在中には「栗子山隧道図」だけを
悩んで悩みぬいて仕上げる、というのが話が作りやすいであろう。
しかし、読者はこれを事実と受け止めてしまう。
縁戚の「和子」とのこと(これも事実か否かは不明)なども、事実と受け止めてしまう。

物語の展開上、人物を創作してしまうのはよくあることである。
手塚治虫もよく使う手法である。
だが、こんなんでいいのか、物語というのは?



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