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北海道のオホーツク海側を南下していく。左手にはずっと海、右手には野や山。

国道沿いに、もう営業していない給油所があり、トラクターやダンプが停まっていた。防火壁には共同石油のGマーク。

オホーツク海に向いた給油所で働く毎日はどんなだったのだろう。






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かつて、歌登町営軌道の終点だった志美宇丹(しびうたん)。周囲は民家が点在し、畑と牧草地が広がる。2008年までは小学校もあった。ちきさんのサイトによれば、2004年までは郵便局があった。もし2009年、2010年まで存在していれば、ストリートビューに記録が残ったのに、と思う。

撮影は2023年。廃止から19年が経つが、建物は会社の事務所として使われているようだ(写真は修正している)。

 
片流れの屋根を持つ、おそらく木骨モルタルの建物。窓は二重、内窓は木枠で外枠は金属。ドアは木枠。ということは、外枠は後付けか。

 
「志美宇丹郵便局」と読める、旧郵政書体の跡。取り外された文字はどこにいったのだろう。保管されているのかな。








 
北海道中川町の佐久から南に道道が延びる。途中で分岐して恩根内に抜けるのだけれど、災害で通行止めのままだ。それをしりつつ、それぞれの終端まで行ってみようと走っていると、見るからに学校跡の建物があった。周囲には数軒の農場が広がるが、それが最奥部だ。

 
 
校舎の向かい側は雑草が高く茂っている。空中写真で見ても緑一色だが、元は校庭だったところだ。中川町公式サイトによれば、この校舎が落成したのは1978(昭和53)年。

 
 
おそらく校門。銘板などはない。

 
玄関。けっこうな規模だが、玄関正面(写真では建物奥)にあるステージの小ささからしたら、やはり「小中学校」という規模なのだと感じる。

 
ガラス越しに覗いてみる。

『中川町史』(1975)によれば、共和に「安部志内尋常小学校所属志文内教授所」として学校が開かれたのは1910(明治43)年で児童数は17。翌年には36、翌々年には65と倍々で増えている。年表を転記するとこうだ。

1910(明治43)年 安部志内尋常小学校所属志文内教授所設置
1914(大正3)年 志文内簡易教育所と校名変更
1916(大正5)年 志文内尋常小学校と名称変更
1941(昭和16)年 共和国民学校と改称
1947(昭和22)年 中川村立共和小学校と改称/中川村立共和中学校として共和小学校に併置開校
同年 幸分校設立(~1963年)/板谷分校設立(~1974年)

サイト「学舎の風景」によれば、閉校は1991(平成3)年3月末。その時点まで児童・生徒がいたかわわからないが、その後、校舎は役場などの物置となったようだ。

中川町の議会だより2021年10月号(No138)には、廃校校舎の危険性の懸念について、町長が、要するにお金がないので手がつけられないと回答している。

校舎からグラウンドを挟んで教員住宅跡があり、その隣に「茂吉小公園」がある。斎藤茂吉を記念したものだ。この地に、斎藤茂吉の兄が拓殖医として駐在しており、そこを茂吉が訪ねて5日間滞在した。そのときに詠んだ短歌は最低でも57首あり、それらは歌集『石泉』に収録されている。昭和1桁の当時の様子は、中川町のサイトに詳しい記載がある。

* * *

こうしたことを読むと、改めてまた現地に行きたくなる。旅とは、再訪することだと思っている。


 
長野県の無住集落には、集団移住後40年以上が過ぎながらも、いまもなおそこそこの数の家屋がそ建っている。老朽化は進んでいるようだが、ときどき出入りがあるようで、小ぎれいだ。

 
一部ガラスの破損がある、倉庫風の建物。消防団の建屋だ。消防車が納められていたと思われる車庫の扉は赤く塗られたバツ形。それも折り戸だ、これは珍しい。

 
建物は冒頭の写真の位置なので、開き戸でもよさそうなものだ。折り戸は蝶番の負担も大きく、現にツライチに閉まらなくなっており、すき間が生じてしまっている。扉の上部に掲げられた看板の文字は消えている。

 
すき間から中を覗いてみたけれど、当然もぬけの殻だった。

いまは色褪せて赤茶色となった扉、現役時はどんな色だったのだろう。







 
福島県相馬市の海側のおもしろい位置にある樋門(左の水路トンネル)。このあたりの海岸線は写真左のように壁状になっているのだけれど、そこをトンネルで水を潜らせて海側にプールを設け、そこから海に排水している。内陸側は八沢浦といい、干拓地だ。

後述するようにここは東日本大震災で大きな津波被害を受けている。おそらく水門は嵩上げされ、上屋は新しくなっている。


地理院地図で水色は標高0m以下、青は標高マイナス1m以下。ここを干拓するために作られた水路と樋門(=堤防を貫通する水路トンネル)だ。


(今昔マップ on the web 東北地方太平洋岸1901~1916)

かつてここが沼沢地だった時代の地形図。

 
 
 
このプール部分から海にどう排水しているのかは、肉眼ではわからない。最初にできたときは海底を水平に掘り進め、干潮時にサイフォンの原理で海の中に排水していたようで、初期のころはすぐに詰まり、その除去作業で多数の人命が失われている。

これらはおそらく震災後に嵩上げされている。

 
樋門を上流側から。海際に立ちはだかる丘を潜っている。

 
写真中央に見えているのは八沢排水機場。この排水路と樋門のおかげで、八沢浦は300ha強を干拓できた。その経緯はこちらのPDFに詳しい。

周辺は、東日本大震災で津波に洗われ、甚大な被害を受けた。ここで集落がまるごと消滅し、亡くなった方も50人近い。現地はもともと干拓地で平たかったにせよ、現地に立つと、津波被災の平野部独特の、平たい印象がさらに強い。

 
 
銘板と記念碑。


***

 
一つ丘陵を越えた古磯部(こいそべ)地区に、福島交通のバス転回場がある。そこまでの道が砂利道というのも珍しい。そのさらに北の鴨部川に、防空壕の跡がある。

 
なんとなく、掘りやすそうな地質に見える。



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