阿賀野川の舟運で栄えた街の旧道に面した給油所跡の防火壁に、丸善石油のツバメが黒く残っていた。元は赤であり、ここだけ焼き付けられたような感じだ。 旧道に面した…と書いたが、この給油所の背面をバイパスが通っている。新店舗のようなENEOSがそちらにある。こちらは車庫として使われているようだが、右端に出光色の灯油の計量器がある。丸善のマーク、出光の計量器、新店舗のようなENEOS…。すべて系列が異なる謎。【はじめはかせ♪さんのご指摘にて修正】 上の写真の左の防火壁の裏には… 光の当たり具合か、赤いツバメが飛んでいた。ただし、隣の建物との隙間は狭く、また置くにいくほど狭まっていて、まるで閉じた穴に突っ込んでいくかのように見えた。 PR 佐渡汽船のサイトを見ていたら、お盆期間に臨時で深夜便が出る。これはおもしろい。乗ってみたい。8月10(土)・11(日)・12(月)日の3連休、ちょうど11日には新潟まつりで花火があがる。 全国的にお盆休みが始まる初日10日(土)は渋滞が怖いので、9日(金)夜かその明け方に東京を出るとして、となると佐渡に日帰りするのは11日か12日。12日は佐渡で走り回ったあとで東京に戻るのは体力的にキツイかもしれない。そう考えて、11日(日)に、深夜便で佐渡に渡り、夕方新潟に戻り、花火を見ることにした。フェリーターミナルは実家からバイク10分、花火だって昭和大橋まで歩こうと思えば歩ける距離。そういう意味では大変ありがたい。 8月11日(日)午前2時。思ったよりも多くのバイクが待っている。クルマも人も多い。とはいえ2等船室は充分に寝ころがれる程度でよかった。 往路はときわ丸。就航したばかりの2014年のGWにも乗っている。あれから5年だが、まだまだ塗装もきれい。 【関連記事】佐渡汽船 おけさ丸のディテール 日本海越しに毎日のように見て育った佐渡だが、渡るのは7回目くらいか。バイクでは3回目。今回は内陸を走ろうと思った。両津から南へ向かい、30分ほどした山道で、右カーブ越しに朝日が差し込んでいた。 佐和田。佐渡は港がある両津が最大の市街地という印象があるかもしれないが、国中平野の中心、佐和田のほうがずっと街だ。 帰りはおけさ丸。 ゴゴゴゴゴゴゴゴ…… バウバイザーが上がり、ランプウェイが下ろされると、そこにはバイクが6台横並び、その後ろには同じ形のトラックが2台。カッコイイ! まだ日も高いうちに佐渡を後にするのは忍びなかったが、よくばりな行程なので仕方ない。それにしても、これだけステキな場所を、新潟に住んでいたころはまったく行かなかった(生が鋼の修学旅行が最後)というのは、なんともったいないことだろうか。もし新潟在住だったら、年1くらいで行っている…かな?(そんなに行ったら飽きるかな) * おまけ。構内移動用というか両港を行き来するコンテナのための日野プロファイア。「平成11年式」「平成23年入替」と書かれている。
第3期・第4期真人沢水路橋(小千谷発電所用)の続き。
真人沢水路橋(まっとさわ)を過ぎ、道なりに1~1.5車線の県道を進む。写真右にあるように、県道は山裾をなぞるように敷かれ、谷側には田が広がる。 そんな真人沢をまたぐ、マッス感あふれる橋。これが「第5期真人沢水路橋」だ。 こちらの水路は、第3期・第4期真人沢水路橋よりもはるかに高い、標高150m付近にある。 近代的な外観。この中を水が…… 上から覗いてみたくて、道を歩いて上る。 鋼製なので塗装標記がある。 コンクリート部分についていた銘板。 真人沢水路橋 設計 信濃川工事事務所 施工 日産建設(株) 設計荷重 53.0t/m けた自重 5.5t/m 水荷重 42.8t/m 雪荷重 47t/m 基礎 直接基礎 基礎根入 けた座面から2.5m 着手 昭和63年3月 しゅん功 昭和63年10月 (カシミール3D+地理院地図+スーパー地形セット) 第3・4期、そしてこの第5期真人沢水路橋の走る導水ルートは、地形図ではわかりにくい。右下からきている青い破線は第3・4期のもので、一見、山本第二調整池に入っているように見えるが、第二調整池の湖面標高は140mほど。水路より40mほども高い。つまり、山本第二調整池の下をくぐり、山本調整池に入る。そして小千谷発電所に至る(二つある発電所マークの左のほう)。一方、左下から来たこの水路は第二調整池に入り、新小千谷発電所(二つある発電所マークの右側)に入る。 国鉄小千谷発電所(→JR東日本小千谷発電所;千手発電所、新小千谷発電所と総称して「信濃川発電所」という)のために作られた真人沢水路橋。「まっとざわ」と読む。重厚なコンクリートアートが2本、完全に田しかないような1~1.5車線の山道をまたいでいる。 写真手前(東側)が「第3期」、奥(西側)が「第4期」のものだ。 第3期から第4期を見る。 戦前から平成まで都合5期まで実施された首都圏の鉄道用発電所の計画のうち、1939(昭和14)年に運用を開始した千手発電所の計画が第1・2期で、発電後の水をそのまま再利用して小千谷発電所で発電する、というのが第3・4期だ。 地形図から読み取ると、水路の標高は100mほど。地形図では水路隧道の真上にため池が書かれていて、調整池かと誤認しそうになるが、それは地上部の別のものだ。 左が第3期、右が第4期。 第3期の銘板。表面が波打っている。通常の、鋳造の銘板ではないように見える。 信濃川水力発電第三期 真人澤水路橋 昭和26年5月竣功 設計者 國鉄信濃川工事々務所 施工者 前田建設工業株式會社 第4期の銘板。 信濃川水力発電第4期 真人沢水路橋 開きょ 163M20 開さくずい道 千手方20M70 小千谷方20M10 ずい道 小千谷方10M00 設計 信濃川工事局 施行 第2工区共同企業体(飛島建設株式会社) しゅん功 昭和44年11月 第3期の千手方(上流方)。こういうふうに、山腹から飛び出し、山腹に突っ込んでいる。 開渠部はどうなっているのだろうか。第3期の小千谷方に登ってみたのだが、時期は8月、草がすごい。 早朝だったので、草に靴から腿までびしょ濡れにされながら、やっとここまで到達。これ以上近づくのは無理だった。 手すりがあり、その支柱としてレールが使われているのがわかったくらいで、水流は角度的に見ることができなかった。実は8月上旬に2回出向いているのだが、今度は草のない晩秋か春先に改めて来なくてはならない。 * * *
さて、「信濃川工事事務所」「信濃川工事局」について。のちに信越地区の工事を担当する局となったが、そもそもは、この信濃川水力発電計画のために、東京・田端に信濃川電気事務所を開設したことに遡る。 島秀雄の前と後の国鉄技師長であり、のちに国鉄総裁となった藤井松太郎の評伝『剛毅木訥』(田村喜子)には、1931年に千手に設けられた信濃川電気事務所(田端のをいったん閉鎖したのちに新たに開設された2代目なのか、移転扱いなのかは不明)に昭和12年ころに着任した様子が描かれている。藤井は浅河原調整池の設計に関わったのち、翌年には本省に戻され、鉄道省派遣橋梁修理班として大陸に渡った。 帰国後、1945年春に上越線の電化も担当していた信濃川地方施設部(おそらく電気事務所の発展)副長として千手に転勤。1944年11月に休止となっていた「第3期工事」を手がけ、終戦後の1947年7月に本省に戻った。部署を移るうち、のちに政治家となり、建設大臣や国土庁長官を歴任、田中角栄派の大番頭となる当時電気局長だった西村英一とともに信濃川発電所の第三期工事再開に向けて動き出す。 1949年の国鉄発足とともに信濃川地方施設部は信濃川工事事務所となる。藤井は第8代所長となる。そのころ、田中角栄が事務所に顔を出している様子が『剛毅木訥』に物語として描かれている。この真人沢水路橋も物語では触れられるが、残念ながらモブの一つである。藤井は竣功後、48歳にして理事・技師長として本社に戻り、十河信二の新幹線に反対して更迭され、のちに認識を改め、島秀雄の後に技師長として返り咲いたのは有名な話である。 【参考】 にいがた土木構造物めぐり |
カレンダー
最新記事
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
(10/22)
(10/21)
(10/20)
(10/19)
(10/06)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|