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鬼志別は何度も通ってはいるが、たいてい、現地付近では存在を失念してパスしてしまう。今年、やっと訪ねた。いまの50歳前後には強烈な印象として残っている「飛行場前仮乗降場」の待合室に掲げられていた駅名の看板が主役の座を占めているように見える。

 
こういう印鑑類が保存・展示されているのは、とても素晴らしい。駅名標などは多くの写真や映像の記録があるが、こうした業務用のものは人目に触れることがないままに通常は廃棄されるものだ。「鬼志別駅」とある印鑑がいくつかあるので、鬼志別駅で使われていたものだろう。左には駅名の印鑑。切符に押すもので、元仮乗降場のものはなく、すべて「駅」だ。

切符にはさまざまな(内部向けも含めて)割引があり、「学41」は学割に押すもの。右下に、ほとんど見る機会がないものがいくつかある。

救31…被救護者割引
添38…被救護者割引の付添人(割引コードは33?)
遺51…戦没者遺族旅客運賃割引(靖国神社への往復に使える)
身81…身体障害者割引(単独)
障83…身体障害者割引(介護者付本人)
介85…身体障害者割引(介護者)
身障 第 号…身体障害者割引で使用
□戦…戦傷病者割引
□傷…戦傷病者割引
□後拂(後払)…戦傷病者後払

公…公務乗車用
衛…自衛隊後払
前…(なんだろう?)
ジ72・ジ73…ジパング倶楽部割引(1985年の設定。路線廃止は1988年)

その左隣に「中頓・東旭川・安国」という印鑑がある。これは、鬼志別から網走に向かうルートとして、石北本線を経由することを意味している。当時は名寄本線経由のルートもあったからだろう。中頓別の「頓」を「屯」と略しているものがある。


右上に「業務上拒否」というものがある。すごいなあ。個人名は廃止ラス前の駅長名と…局の部長かなにかだろうか。名前が列記されたボードがあるのだけれど、それを撮り損ねていた。

 
右から2列目、「青学44」は青年学級生及び勤労青年学校生割引だろうか。その2列左、「マル永」は永年勤続割引?

 
駅に掲げられていた運賃表には、どんな駅でも、東京都区内などへの運賃が書かれていた。ほぼ一定なので、なんらかの基準があるのだと思うが、わからないままだ。









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草木に埋もれていた天北線の上音威子府駅は、2015年に整備された。駅名標は、幸いにも、よくあるように「方向幕フォント」や「JNR-L」ぽい書体ではなく、現役時代と同じ字形で再現されている。

1998年に訪問した際には駅名標はなかったと思う。現役時代に撮られた写真を見ても形が異なり、照明もないので、再建されたものだろう。

 
整備から8年、草木の侵食はけっこうな勢いだ。路盤はほぼ見えない。

 
ホームにはアンテナのようなものが1本。電源が引かれている。

* * *

  
 
1998年8月に訪問したことがある。駅名標はなさそうだ。「上音威子府通信中継機室」と書かれた小屋のドアには、現役時代に書かれたものだろうか、落書きがあった。「機」は略字。

 
駅舎だけの写真をなぜ撮っていないのか。まあ、当時は鉄道趣味からは完全に離れていたし、記録しようという気持ちもなかった。

ホームにバイクを上げて写真を撮っているけれども、当時は別になんとも思わなかったし、世間もそんな感じだった。いまならためらう、というか、たぶんしない。






2023年3月末日限りで廃止になった留萌本線石狩沼田~留萌間。石狩沼田の次が、この真布駅だった。7月に通りかかったときには、線路もホームも待合室も残ったままだった。

 
駅名標は当然外されている。かつてなら放置だったのかもしれないが、いまならすぐ盗難に遭ってしまうだろう。待合室にも入ってみたかったが、ホームへのスロープが剥がしてあり、その手前には柵まであるので控えた。停止位置目標も支柱だけ残して取り外されている。

 
 
踏切跡。

 
 
2011年7月に乗ったときに車内から撮った写真。このころはほとんどガラガラだった。







 
2022年末に、邑久光明園を見学した。国立のハンセン病療養所だ。岡山県瀬戸内市長島には、この本土側の邑久光明園と、端部の長島愛正園が二つあり、この邑久光明園は、本来、近畿地区の施設で、西成にあったものが、1934年の室戸台風で甚大な被害を受け、移転してきたものだ。

そもそも国立のハンセン病療養所とはなんなのかは、ここで触れるにはあまりにも大きすぎるが、施設内では入所者たちが自らさまざまな仕事をして施設を維持し、ここにあるトロッコの線路は、その遺構である。

この存在は、@momoshima_jun さんのツイートで知った。

 
 

基本的に、長島は隔離されていた。本土との距離、わずか22m。そこに橋が架かったのは1988年だ。そんな最近まで、ハンセン病に対する無知と偏見があった、というか、いまも間違いなくありつづけている。

 
 
そのため、物資はいくつかの桟橋に船で搬入された。この薮池桟橋に搬入されたものを、入所者がトロッコで丘の上の施設まで運ぶために使われたのが、このトロッコ線路である。iPhoneの計測で軌間約44cm。

人力で、この角度を押し引き揚げていた。ウインチで引き揚げていたそうです。2023/4/3修正】どれくらいの物資の量かはわからないが、一度の便で到着した物資を運び上げるには、何往復も必要だっただろう。危険も伴ったはずだ。

* * *

光明園では、コロナ禍のために自由な見学はできなかったが、幸い学芸員さんに、ここを含めて見学できる部分に連れて行っていただき、解説をしていただいた。愛正園では長島愛正園歴史館などを見学した。

元々、岡山の方が療養所等について発信していたので、ごくわずかな知識はあったが、ここを訪ねたのは、このトロッコ線路がきっかけだった。

ハンセン病については、こうした施設がそこそこ近くにないと、知る機会すらないだろう。四大公害が、該当地域以外ではまったく忘れ去られているように。私も知っていたわけではない。ただ、WEB記事や文献で読むのと、現地に来て実際に見て学ぶことは、まったく異なる。後者のほうが圧倒的にリアリティを持つ。なにしろ、そこに収容されて70年以上…というような人生を歩んできた方を、この眼で見るのだから。


●上樋脇駅跡

廃止になった宮之城線上樋脇駅跡。ホームが残っている。線路跡はコンクリート舗装され、道路になっている。が、周辺の住宅のためにそのようにしてあるだけで、通り抜けることはできない。線路はこの先、樋脇川を渡っていて、そこ部分の橋梁は撤去されている。

 
ホームは、駅前だった住宅へのアクセスのためか、2ヶ所で欠き取られている。


 
市道?との交点には「上樋脇駅開設記念碑」がある。

●樋脇駅跡
 
 
そこから2kmほど西にある樋脇駅跡。「鉄道記念館」となっているが、特別な展示物があるわけではない。蒸気機関車の動輪がある、現地では大きく見えなかったのだけれど、C57のものらしい。宮之城線は簡易線でC57は入っていなかったと思うが。

 
廃止当時のものではないと思うが、駅によくあるタイプのベンチ。

 
1971年には荷物扱い廃止、無人化のようだが、窓口はサッシ化されている。後年の改造だろうか。

 
窓もサッシ化されているので、無人化以降もなにかしらの事務所として使われ、全体的に手を入れたのだろう。

 
 
ホーム側。線路が敷かれているが、嵩上げされている。大歯車のついた、電車の輪軸が置かれている。

 
写真左は「駅裏」だったところ。そこにバイパスができている。駅舎はバイパスに背を向けた形になる。







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