愛媛県三崎と大分県佐賀関を結ぶ九四国道フェリー。写真はすべて佐賀関にて。 この「ニュー豊予」に乗ったのは2016年5月7日。そのときは知らなかったのだが、6月17日の「遊なぎ」就航に伴いこの航路からは退役したようだ。その後がどうなのかは、ちょっと検索して見たがわからない。 往路として、5月3日に三崎港から佐賀関に向かおうとしたが、低気圧の接近に伴い休航になってしまった。下の写真は休航になる直前の最後の便で、これも「ニュー豊予2」だった。波が非常に高く、接岸中でも船体は大きく揺れていた。 三崎港では後部から車両が出入りする。 PR 子供のころから慣れ親しんでいる、この門型クレーン。もちろん、親しんでいたのは逆の陸側からで、路地からはこんなふうに見える。 それを、佐渡汽船フェリーの上から撮ったのが上の写真。ドック周辺が、いろいろと興味深い。画面右に見える大きなクローラークレーンは、twitterでの@crane6540さんのご教示によれば住友重機(現日立住友重機械建機クレーン)のCT12000とのこと。最大吊り上げ能力650tというのがどれくらいのものなのかはわからないが、相当なもののようだ。 ドックの真正面を撮り逃してしまった。CT12000の稼働区域には、路面に鉄板が敷かれているのがわかる。履帯が錆色をしている。 そのさらに河口側にもドックがある。「新潟造船」の表示がある建屋の左側のドックは1944年製。逆の右側、青い屋根は「修繕機関工場」の間には、新潟交通入船営業所の建屋と赤い屋根のバスが見える。 ちょっと上流側に戻って。佐渡汽船の、ジェットフォイルのドックなど。 海上・河川上からの風景は、道路上からは見えないものがたくさん見えておもしろい。ところで、朝と夕方に鳴るサイレン、私はこのあたりで鳴っているのではないかと子供のころから思っていて、いまだに確かめてもいないのだけれども、ご存じの方、ご教示ください。なお、写真はすべて2014年5月撮影。2年前のものです。 なお『おでかけKomachiベスト』に、路地連新潟・野内さんのナビで新潟造船関連の記事が出ています。
ALP 306mt Bollard Pull Strikerを撮影したのは2016年4月2日。それと同じものがいまだ岸壁で艤装中だと思い、今回は望遠レンズを持って行っていたのでより寄った写真を撮った。
船首には「ALP SWEEPER」と書いてある。あれ? 先のブログでは「STRIKER」って書いてたはず、間違ったかな? と思い、先のブログに掲載した写真を見ると… 左側の門型クレーンのところ、すなわちドック内に、下半分くらいの、別の船体が見える! これはまったく気づいていなかった。ということは、この写真右に移っているのがSTRIKER、左のがSWEEPERだ。見比べると、4月に撮ったSTRIKERのほうが、7月に撮ったSWEEPERのほうより船橋(ブリッジ)が完成形に近かった。 残念ながら、あまりいい位置で撮れないが、真正面からは撮れる場所があった。なんという魅力的なフォルム。テスト航海は見たいなあ。
新潟の街歩きに参加した際、新潟造船の沖にで奇妙な形の船を見かけた。twitterにアップしたら、たちまち情報をいただいた。
さすが。ありがたい。 船にも、鉄道に於ける機関車のように、押す役割をするもの、牽く役割をするものがある。これはALPの306 mt Bollard Pull Strikerというもののようだ。公式PDFを見ても、同型の4種の違いは後部に搭載された機器の違いであるだけのような気がする。また、この特徴的な前頭部の形状は、おそらくバランスと、台船を推進するためなのだろうが、識者のご教示をお待ちしたい。 ●同日追記
ご教示ありがとうございます。「成功前後での接触保護」というのは、その詳しい意味まではわかりませんでしたが、曳航索が船体に当たったときの対策ということなのかな…という程度のところでとどめておきます。twitterすごい。 * まったくの余談だが、対岸の新潟造船、ここは向こう側では夜に水銀灯が光り、また、港っぽさもある。小中学生の頃、この真向かいにゲーム機を置いた店があり、ときどき来ていた。近くには新潟交通入船営業所もある。 ●関連項目 大滝工務店「いわき」の起重機
青函連絡船の本は多数刊行されているが、いずれも船舶、運航、ヒューマンドラマが主題であり、営業についてはなぜかほとんど触れられていない。ネットで検索しても、わずかに函館市史の記事がヒットするだけであり、あらゆるものが転載されているネットにない、ということは、まとめて発表された記事がほとんどないのではなかろうか。青函連絡船のそれに関心を持つ人はごく少ないことも一員だろうが。
函館市史のそれは、こう書いてある。「連絡船の営業成績は低下の一途で営業係数は昭和55年の227から58年の292(100円の収入を得るのに経費が292円)にまで下がってきていた。この58年度の赤字は238億円だったという」 いくつかの正史を図書館で見ても、乗客数やトン数こそあれ、営業的な数字は掲載がなかったのだが、『航跡 青函連絡船70年のあゆみ』に掲載されているとの情報をミリンダ細田氏(鉄道友の会秋田支部)からいただいたので転載し、先の函館市史のものも加筆する。 (表がうまく表示されないので、見づらい点はご容赦ください) 年度 旅客 貨物 収入 経 差し 収支 収入 収入 合計 費 引き 係数 昭和45年度 32 76 108 126 ▲18 117 昭和46年度 34 85 119 129 ▲10 108 昭和47年度 36 79 115 143 ▲28 124 昭和48年度 36 68 104 159 ▲55 153 昭和49年度 38 72 110 206 ▲96 187 昭和50年度 38 75 113 238 ▲125 267 昭和51年度 39 85 124 267 ▲143 215 昭和55年度 227 昭和58年度 ▲238 292 となる。上記から推定するに、昭和50年度から62年度の13年間での赤字額は2500億円を超えるだろう。その数値と、さまざまなことを比較するには私の手元ではあまりに数値が足りない。 こうした数値がわかる資料が掲載されている雑誌等、ご存じの方はご教示いただきたい。 【2016/3/4追記】 ・資料をご提供いただいた細田氏からは「定時運行に固執するあまり、高速性を最重視し、経済的な重油ではなく軽油を燃料にしたことも一因ではないか」「旅客輸送量のピークは昭和48年」とのコメントをいただいた。 ・昭和49年度から、経費が激増している。第一次オイルショックは昭和48年10月から翌年1月までの3カ月で、原油価格は3.9倍となった。それを背景としたのが「狂乱物価」で、総合卸売物価は昭和48年で15.6%、49年で31.4%上昇、消費者物価指数は48年で11.7%、49年で23.2%上昇。対して、運賃値上げは49年に5年ぶりに行われた(青函連絡船の運賃の変化は未調査)。 ・経費の内訳が、燃料代なのか人件費なのか、知りたいところ。オイルショック後であるだけに。 ・ |
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