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20121019_000.JPG新冠町農業協同組合農業倉庫。JR日高本線厚賀駅舎の並び、少し苫小牧側にある。貨車への積み卸しに使っていただろう場所は草原となっている。日高本線のこの区間の貨物扱いは、昭和59年2月改正で終了している。その時点でこの厚賀での貨物扱いがあったのかどうかはわからないが、以来28年、ここにある。

さらに1970年代中盤の空中写真を見ても、この草原は道路でしかない。周囲にはもう少し多くの農業倉庫があったが、とりたてて強調するほど減ったわけではない。今回は列車内からとりあえず写しただけだが、いずれきちんと撮りたい。


 
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20120525_004.JPG与板の街中には、いまだ越後交通の廃線跡が堂々と残っている。ホーム跡も容易にわかる。関係建築物を解体したものと思しき残骸もある。更地化したところは、運送会社の駐車場になっている。

もっとも、駅(跡)は街の中心ではなく、住宅地が尽きてそろそろ他の用途、たとえば田畑や山になろうかというあたりにあるので、残っているのもむべなるかなと思う。西に向かう廃線跡は遊歩道になっている。

さて、上の写真の写っているのは、日通の倉庫である。

20120525_000.JPG倉庫内は無人のようだったので(撮影は祝日の土曜日)、前に停まっているクルマは近所の人のものだろうか。

この建物は、「鉄道の駅舎だ」と言っても信じてもらえそうな形をしている。

20120525_002.JPG角度を変えて。妻面に掲げられている「日本通運」。中央の円形はもう読めないが、「通」のロゴマークと推察できる。

サッシはすべてアルミ(?)化しているが、その外枠は木製のまま。そして、波板(トタン?)や細い凹型が入った板を巻いたこういう外装は、新潟ではよく見るのだけれど、他の地域ではどうなのだろう?

20120525_003.JPG反対側の妻面。道路に面しているためか、3枚の戸。この、おそらく木製フレームに金属板を打ち付けた戸も、新潟ではよく見る。冒頭の写真を見ると、その戸袋がおかしな形で飛び出している。そこに、興亜火災の行灯がある。

いま気づいたのだが、ここに見える鬼瓦の下の瓦は三つ巴だ(反対側は無地)。五十公野の農業倉庫も三つ巴だった。

20120525_001.JPG一周して正面。正面玄関…と思しきところは実は玄関ではなく、その左隣りが玄関なのだが、その「思しきところ」にはこんな標識があった。上から

「電話一一七番」(縦長。時報じゃないのか?)
「電話 44」(楕円/電電公社マーク)
「電話117」)楕円/電電公社マーク)
電話番号2桁ということは、相当に古い建物で、かつ公共性が高い建物だったということだろう。


この日通倉庫は現役で使われている。撮影した日はたまたま休業だったらしいので、近寄ったり撮影したりできたら、もし関係者が仕事中の場合はご配慮を。



1984年(昭和59年)夏、自転車で新潟から柏崎まで走った際、発見して驚いたのが越後交通の廃線跡。そんなものがあるとはまったく知らず、偶然出くわしたその驚きは、いまも記憶している。PCはおろか携帯電話で検索すればすぐに情報が得られる今日、そんな出会いはなかなかなくなった。その越後鉄道長岡線の廃線跡を、この4月の連休にきちんと訪ねた。部分部分はかつて訪ねたこともあるが、多くの区間をたどろうとしたのは初めてだ。

槙原駅跡。
20120524_001.JPG「駅だったもの」がひとまとめにされ、虚しく朽ちるのを待っていた。しばらく前までは、ここにホームやレールもあったらしいが、整地されて間もないような雰囲気の砂利敷きになっており、ほぼすべてこの一塊に集約されていた。

ところで、背景の倉庫。いかにも鉄道駅の裏手にあった倉庫だ。

20120524_000.JPG右書きで「(大津)大津農業倉庫」とある。最初の「大津」を左に移したのだろうか。ここは現在「JA越後さんとう大津」との表示がある。合従連衡でいまのJA大津ができあがったが、1978年(昭和53年)まで、ここだけでJA大津を名乗っていた。以後、三度の改組を経て、いまは「JA越後さんとう」である。

こうして見ているのは、裏口。鉄道貨車に積み込むほうだ。なぜか、この農業倉庫の正面(写真で言うと「向こう側」)の写真を撮っていない。なんと迂闊な。

* * *
 
冒頭の写真のガレキの中には。
20120524_002.jpg油入地絡過負荷しゃ断器。
形式 H6-AE7-T
定格電圧 7200V
定格電流 100A
変圧器 6600V/110V
定格しゃ断容量 50MVA
極数 3P
周波数 50.60~
ZCT.NO B2394
はずし電圧 AC110V
引はずし電流 1.0/0.8A
○量 74L
総重量 175kg
製作 昭和44年5月
製番 B108926
○○(たぶん日立)製作所


二枚目の写真、左に見えるのは、吉岡材木店という製材所である。その左、緑の部分が、かつての鉄道の敷地。
20120524_003.jpgそこは、このように木材の乾燥のための場所になっていた。ところどころ、枕木が見えている。

ここから振り返ると…
20120524_004.jpgこんな形で路盤が残っている。


20120524_005.jpg製材所前の地面に突き立てられたレール。まるで、墓碑銘のようだ。



 
20120523_03.JPGかつて、駅の周辺には倉庫があった。正面の横には日通の倉庫、裏手には農協の倉庫。いま、駅が無人化され、貨物列車も走らなくなって久しくても、あるいは鉄道路線が廃止されても、倉庫だけ残っている場合がある。それが、とても愛おしい。

上の写真は、1984年3月末に廃止された国鉄赤谷線意義美濃駅跡の農業倉庫。手前の道路はかつての線路跡、五十公野駅跡だ。

20120523_05.JPGなんとすてきな文字。右書きで「農業倉庫五十公野支庫」。「農」の中に「民」があり、「野」の中に星がある。

20120523_04.JPG横(南側)から。倉庫そのものは前後対称なのだが、付帯する屋根およびその下の空間が異なる。

20120523_06.JPG正面側(道路側)。この車寄せのような庇の内側、梁は曲がった木材を加工したもの。

20120523_11.JPGその「向こう側」から。新たに設置された車寄せの屋根。

20120523_09.JPG正面玄関向かって左に掲げられた看板。

(新発田)支第43号
新潟食糧事務所
昭和五十九年三月一日設定
国内農産物(米)検査場所

云々。

向かって右にはこんなものが。
政府指定倉庫
(他の文字は読めない)

20120523_08.JPG正面玄関の鬼瓦。「が」にマル、はなんだろう?

* * *

五十公野駅、現役の姿。wikipediaにある写真と同じなのだけれど、私がアップしたものなのだ。

20120523_01.jpg20120523_02.jpg『赤谷線賛歌』など、他の本も探したが、現役時代の農業倉庫の写真はなかった。




 


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