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踏切防護協力員 いまに残る国鉄名鉄局

鉄道

 
明知鉄道岩村駅近くに「踏切防護協力員 名古屋鉄道管理局」の看板があると大町パルクさんのツイートで知り、見に行った。民家の軒先にある。日陰で屋根の下だからか、かなりきれいに残っている。錆びてもいない。

描かれた三角形は、こういう形をした柵があったようだ。こちらのサイト「駅の風景」に写真がある。

 
踏切との距離感。踏切手前の側溝については後述。

 
逆向き。このお宅は1階の道路側の外壁が改装されているので、かつては商店だったと思われる。おそらく4枚(以上)の引き戸だったのではないか。「国道情報連絡所」もそうだが、こういうのは一般家庭よりも商店に託している印象。

 
2枚上の「踏切手前の側溝」は、レールを同じ長さで切断し、両端に板を溶接し、ハシゴ状(踏み段がレールに相当)にしたものだった。レール底面が上面になっている。

* * *

踏切防護協力員については、いろいろな方が書いていた。

●こちらも岐阜県内、中央線沿線にあったとのこと。関係ないけれど、国労の黄色いバッジの写真も貴重。
国鉄の遺品、そして分割民営化に揺れたころ

●こちらには、ご自身の家がそうだったという記録。

●こちらにも。
福来口御番所屋敷と踏切防護協力員

●「専用線の機関車」で我々に強烈な情報を与えてくれた岩堀春男氏のブログ
http://nainen66.livedoor.blog/archives/8223624.html




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80年代前半の一般用特別車内補充券

鉄道

地図式の車補(特殊区間用特別補充券地図式)の路線図の続き。


一般用特別車内補充券(長岡車掌区)。

1981年だろうか。「年」が書いていないので困る。1322レは、新潟~直江津~長野~高崎~上野を1日かけて走っていた客車列車の新潟~直江津部分。といっても列車番号は4分割されていた。おそらく2回乗っている。これはそのときにコレクション用に作ってもらったもの。「往復」で100円になっているのは、手間をかけさせるわりに50円だというのもなあ…という、子どものくせに配慮したもの。

 
年不明。同じく長岡車掌区。313Mは「とがくし3号」と思われる。1980年10月の時刻表では「313M」がなく、「とがくし1号」が315M、「とがくし3号」が317M」。おそらく1981年10月か1982年11月改正あたりで列車番号が変わったと思われる。柏崎の親戚宅から新潟に帰るとき、いつもは自由席だが、このときは座れなくて指定席に移動したのだろう。

 
年不明。新潟車掌区。4003Mは「雷鳥3号」で、ぼくは柏崎から新潟に行くのに特急に乗ったのは1回だけ、と記憶していたのだけれど、この補充券があるということは、乗っているのだ。しかも車内で買っている。こんな真っ昼間の時間帯というのも妙だ。まったく記憶がない。

 
これも年不明。1982年か。新潟車掌区。1229レ。手元の1980年10月の時刻表では「229レ」はあるが「1229レ」はない。コレクション用に作ってもらったものと思われる。

 
1981年か。1337M、直江津車掌区。これは実際に使ったものだ。叔母と従兄弟(当時未就学児)とぼくとで、大久保隧道付近から鯨波駅まで歩いて、電車で柏崎駅に帰ってきたのだ。そのときの写真も残っている。しかし、日付を見て驚いた。なぜ6月13日なのだろうか。親戚宅に行くのは、春、夏、冬休みだったのだ。6月に行った記憶はない…。

 
1982年8月28日、金沢車掌区。501Dは「しらゆき」だ。この日、母と、初めて魚沼線・赤谷線に乗りに行った。基本的に普通列車での移動だったのだけれど、長岡~新津間は急行に乗らざるを得なかった。「記事」欄にはなんと書いてあるのだろう、読めない。

 
1984年7月30日、福井車掌区。224レ。鉄道少年団全国大会で武生に行ったときだ。なぜ鯖江~武生なのか思い出せない。鯖江に泊まったのだろうか。





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地図式の車補(特殊区間用特別補充券地図式)の路線図

鉄道


路線図が大好きな方々がいる。西村まさゆきさん、井上マサキさんは共著で『たのしい路線図』、さらに宮田珠己 さんも加わって『日本の路線図』を出している。いずれも重版がかかっているという、私の仕事的には「やられたー!」という実績。上はマニアフェスタで入手した井上さんの『「電車でお越しの方」の路線図を鑑賞する本』。DPZでも数多くの路線図の記事がある。
 
また、「山手線を含む路線図には皇居が必ず書いてある」「イギリスではテムズ川が書いてある」と見抜いたのは、たしか石川初さんと大山顕さん。そういう話を聞くたびに、なんか思い出したくても思い出せないものがあった。「路線図なんだけれど、なんか、垢抜けないやつ…」。思い出した。新潟車掌区の地図式の車補だ。
 
まだ電車の車掌が持つのが端末ではなく伝票類だったころ、車内できっぷを買うと、独特の様式のきっぷをくれた。それを通称「車内補充券」、略して「車補」と言った。主に3種類ある。「地図式」「駅名式」「一般用」だ。新潟地区は「駅名式」ばかりだったので、東京の「地図式」に憧れた。

 
左は品川車掌区、右は三鷹車掌区。左は、いつ、何に使ったのか記憶がないが、東京~横浜なので、ちゃんと利用したときに使ったのだろう。右は1982年11月14日、中央線で青梅鉄道公園に行く際に、コレクション用として作ってもらったものと思われる。

両者を見比べてほしい。ほとんど同じようなエリアに見えるが、おそらく受け持ち路線の違いにより、地図が異なる。といっても描き方の基本は似ていて、左上が東北本線、右上が茨城、左下が奥多摩、右下が三浦半島。山手線は日暮里がほぼ真上、南部線や武蔵野線の北朝霞~新小平の凹ませ方も共通だ。太線は「東京近郊区間」、いまでいうSuica利用可能区間だ。

それにしても、よく押し込んだものだ。図案が得意な職員が原図を書いたのだろう。もしここに「高輪ゲートウェイ」が開通したら、どのように組み込むのだろうか。

 
これは南部線の矢向車掌区のもの。分倍河原~川崎、と乗っている。なんのために買ったのか、まったく記憶にない。基本レイアウトは上の二つと同じだが、武蔵野線が南浦和以南しか描かれていない。

 
さて、これが問題の「なんか、垢抜けない」と思ったもの。新潟車掌区のものだ。太線が何を表すのかはわからない。車掌区の乗務範囲だろうか。東京と同じ人がデザインすればいいのに…。


この地図、絵心がない。新潟~越後石山間の線は、途中で少し曲がっている。駅がかなり省略されているせいもあるが、越後線の吉田以南や信越本線の宮内以南が省略されている。また、赤谷線は描かれているのに魚沼線はない、これは、来迎寺付近はすで本線でも省略されているのだから、廃止予定の支線なんて黙ってろ、ということか。

 
一気に時代が飛んで、2007年10月20日。これは「鹿島臨海鉄道大洗鹿島乗務員発行」のものだ。この日、鹿島サッカースタジアム~神栖間の臨時列車が3往復した。神栖は貨物駅、当然、常備の乗車券などないので、このように「記事」欄に発駅・着駅のスタンプを押している。これは車内ではなく、乗り換え通路だったかで、特設の机で売られていた。

この路線図の特徴は、「連絡運輸区域」と「連絡運輸区域外」で駅の描き方を変えていること。また、おもしろいところは、自社線を右下にまとめて描き、わかりやすくしているところ。それに、常磐線と内房線が描かれ、それぞれ山手線につながっているところ。連絡運輸区域外なのに、川崎以遠が丁寧に描かれているところ。

当時の、いろいろな地図式車補を見てみたい。





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大学見学に使った東京ミニ周遊券と、ムーンライト

鉄道

大学受験に使った東京ミニ周遊券と、ゆうぽうとのつづき。

 
もう1組、1989年(平成元年)10月8日発行の1組がある。これは、友人Aと一緒に東京・横浜の大学の下見に来たときのもの。往復ともムーンライトだった。

 
これが当時の指定券。当時のカレンダーを見ると、10月は7(土)・8(日)・9(月)・10(火祝)だ。まだ週休2日ではなく土曜は昼間で授業があり、10月10日の祝日が固定だった時代。とはいえ、上の指定券を見ると、月曜日を挟む形だ。休みだったのだろうか。

それでも指定券はとりづらく、友人とは往復ともバラバラの席になったが、車内で隣席の人に頼んで席を替わってもらった。

購入駅が白山になっているのは、高校の最寄り駅だったから。ムーンライトは165系にグリーン車の座席を取り付けたものだが、めいっぱいに倒して寝ていたら腰が猛烈に痛くなり、明け方はかなり苦痛だった記憶がある。

* * *

 
もう1枚、東京ミニ周遊券が手元に残っている。昭和62年8月4日、(たしか)古町6にあった日本交通公社新潟支店発行、8月6日から有効。行き先はコミケだった。コミックマーケット32の開催は8月8日~9日。

目的は『XANADU EDITER』。XANADUのダンジョンを自由にデザインできるツールだ。そういう同人ソフトが出る、ということが、おそらく『ログイン』に出ていたと思う。

また、秋葉原でノーブランドの5インチディスクをたくさん買う目的もあった。新潟では1200円くらいだったと思う。雑誌の広告を見て、東京はすごいと思っていた。たしかメッセサンオーが最安値で10枚800円くらいだった気がする、

どうやって行ったかも、帰ってきたかもメモがない。コミケで入手したものも何も残っていない。ただ、東京ミニ周遊券だけが残っている。


 


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大学受験に使った東京ミニ周遊券と、ゆうぽうと

鉄道

 
私立大学の受験シーズンだ。といっても、ぼくが受けた時代と大きく異なり、多くの大学で学部が再編成され、複数回受験が可能になり、当時は毎年固定されていた試験日が変わったりしている。これは、ぼくが高校3年生のときに東京の私立大学を受験したときに使った東京ミニ周遊券だ。

1990年2月、記憶によれば、5回上京している。残っているミニ周遊券はその一部で、A券片だけだったりB券片だけだったりそろっていたり。B券片は、新潟駅の改札(当時はすべて友人)で、渡さずに素通りできてしまったか、無人だったか。わざわざ無人駅に行ったりはしていない。

上左右は平成2年2月18日発行。B券片の痕は池袋。付近の大学を受験した。
下右、2月10日発行のもの。痕がないのは、おそらくA券片で東京都区内に入り、そのままA券片を改札で渡さずにB券片を使用開始したのではないか。A券片が残っていないけれど。
下左、2月27日発行。これは受験シーズンの掉尾を飾る学部用。A券片は改札で渡したか。
これ以外に、2月半ばと2月下旬に2回上京があるはず。

 
 
基本的に、前日に新幹線で上京し、五反田のゆうぽうとに宿泊、翌日受験して帰宅した。当時、ホテルは素泊まり5000~6000円程度が相場。たまたま母が「受験生パック」という、夕食朝食がついて8000円くらいとちょっと高いのだが、それを見つけてきたのでそれにした。上のしおりは翌年のものと思われる。「受」は「受験生パック」の印。

帰宅は節約のために各停の乗り継ぎだったと思うが、新幹線で帰ったこともあるかもしれない。なお、試験は全部落ち、浪人した。

 
これは1991年2月のもの。A券片しか残っていない。

平成3年2月9日発行のものと2月27日発行のもの。幸い、27日の上京で受験した本命に合格した。

 
なお、なぜか同日(2月27日)発行のもう1枚がある。だれか友人と同行したのだろうか、ちょっと記憶にないが、それしか考えられない。

【関連項目】
大学見学に使った東京ミニ周遊券と、ムーンライト


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ジェイ・ダイナーの思い出(乗務行路2)

鉄道

ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編)
ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)
ジェイ・ダイナーの思い出(乗務行路1)
の続き。

こちらは1994年3月改正の行路である。「のぞみ」は毎時1本の博多行きである。このときから「こだま」のビュフェ・車販営業は東京~名古屋間となり、名古屋泊の行路ができた。それまでも、名古屋営業所持ちの「こだま」はあったが、バイトは乗務していなかった。

 
28・29行路は朝イチの列車のために、前日の行路から「着前泊」、つまり東京の寮に泊まっての1泊2日2往復の行路だったが、現実としてそんな行路に入るバイトはほとんどおらず、それぞれ単独の行路として乗務した。401Aなどどうやって乗務していたのか記憶がないが、東京クルーセンターの事務所を当直が開けるのが6時だった気がする。走っていったのかもしれない。ただ、事務所に泊まって翌朝乗務するバイトもいた。



大阪での折り返しは、時間がないときは「基地」で弁当をもらう。あるときは、社員といっしょにマイクロバスで西中島南方にある大阪営業所に行き、そこの4階の食堂で賄いを食べる。たまに弁当が足りないときがあり、そういうときは550円までだっけな、領収証を切ってよかった。

上の写真が「基地」の様子。正確に言えば「基地内の休憩室」。「基地」はワゴンに積む商品とワゴンが並んだ場所だ。上の写真は、リネンが足りなくなって、古い制服を着ている(黄色いエプロンとチェックの帽子だけが当時の制服)。右端に弁当が見える。


基地の弁当を食べているバイトたち。女性の制服は当時のもの。

名古屋での折り返しはどうだったか。この行路表によれば弁当が出ているが、ちょっと記憶がない。
 


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ジェイ・ダイナーの思い出(乗務行路1)

鉄道

ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編)
ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)
の続き。

もう公開しても差し支えないだろうと思うので公開する。

もっとたくさん持っていたと思うのだけれど、アルバイト(「東京クルーセンター」に所属する「メイツ」といった)行路表が2枚、出てきた。クリックで元画像に飛ぶので、拡大してじっくりご覧いただきたい。

まず、平成5年3月改正対応版(4月16日修正)。それまで朝晩、東京~新大阪の2往復だった「のぞみ」が、毎時1本、東京~博多間を運転するダイヤとなったときだ。バイトが乗るのはほぼ「ひかり」「こだま」で、一部「のぞみ」がある。「のぞみ」は女性しか乗務できなかったが、稀にどうしても人手が不足したときは男性を乗せた。

種別は列車番号でわかる。この頃は、
1~ 「のぞみ」博多
301~ 「のぞみ」新大阪
31~ 「ひかり」博多
81~ 「ひかり」広島
101~ 「ひかり」0系新大阪
201~ 「ひかり」100系新大阪
401~ 「こだま」
となっていた。
 
「編成」のGは100系カフェテリア、Xは100系X食堂車あり、(ここにはないが)Vは100系グランドひかり、N・Hは食堂車のある0系、Yはこだま用0系(ビュフェが5号車にある)、F・Jは300系「のぞみ」。イレギュラーな行路として、92Aは、本来は0系食堂車のみに乗務する広島営業所がG編成を担当している。そういうときは、カフェテリアに0系の商品が並ぶ。例えば、カフェテリアのジュースは「キリンHYPER70」だが、それは売らずに「POMつぶオレンジ」「POMつぶグレープ」を売る、という具合に。

「担当」は営業所(バイトとは無関係)。「釣り銭」「ワゴン」「(コーヒー用)ポット」とは、G編成において、ワゴン・釣り銭・ポットごと乗り降りするもの。東京と大阪にそれぞれ「基地」があり、1日にやりとりする本数が決まっていた。もちろん、出る数と受ける数は同じになる。それ以外の行路は、社内のワゴン使い、社員が持ち込んだポットでワゴンを仕立て、社員から釣り銭を預かり、販売後に釣り銭と売り上げをすべて社員に渡す。

時刻のところに▲印があるのは、泊まりの行路。泊まりの様子についてはジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)を参照。

列車番号が6000番台の列車、つまり季節運転の列車もいくつかある。運転しない日は、別の列車に乗っていく。その場合、所定2名を4名にしたりする。逆に、人手が足りない場合は、所定4名のところを3名、2名にしたりする。0系「ひかり」と「こだま」は割を食うことが多かった。なぜなら、0系「ひかり」は食堂車があり、乗務する社員の人数も多いため、なんとかなるのだ。100系G編成は社員は2名しか乗らないため、カフェテリアの売店しか稼働できなくなる。もっとも、どうしてもという場合は、売店を1人にしてA車だけ販売に行ったり、グリーン車のスタッフ(社員)がカゴで弁当類のみ売りにいくこともあった。

 
上記行路に対応する、「のぞみ」社員乗務員の行路表(1993年5月)。23班で回している。200番台は「ひかり」G編成乗務。「分割」は列車がないので他の列車に回る。ほとんどは日帰りか1泊だが、中には2泊3日の行程も見える。「のぞみ」社員乗務員は「東京クルーセンター」に所属していた。

 
こちらは「G編成」社員乗務員の行路表(1993年5月)。こちらは17班で回している。バイトはこうした表を社員から入手し、「誰の列車に乗るか」を決めることもあった。単に「あの人は優しいから」ということもあれば、「お目当ての人」を追いかける人もいた。逆に「あの人はうるさい」と避けることもあった。こちらの社員は「東京営業所」所属だった。

続く。




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ツーリングトレイン釧路/ツーリングトレイン根室

鉄道

 
1995年夏、バイクのツーリングで初めて北海道に行った。当時は「テントは山でやむを得ず張る物だ」という主義のもと、屋根のあるところで寝ることにして荷物を減らしていったと思っていたのだけれど、当時の手帖を見たら思い出した。テントを持っていたんだけれど、天気が悪いことと、安価に泊まれるので一度も使わなかったんだった。そして、行き当たりばったりの行程ゆえ、3泊がライダーハウス、3泊がツーリングトレインとなった。

「ツーリングトレイン」とは、釧路駅・根室駅と、確か富良野駅に、JRが旧型客車を留置し、旅人に安価で寝泊まりさせてくれた施設。内部は「お座敷客車」のようにフラットになっていたと思う。まったく記憶がない。上の写真は根室駅の「ツーリングトレイン根室」だ。

 
そのときに受け取った案内。見ると、ホームのない線路に留置した客車だ。上の写真を見るとわかるが、ホームの上にバイクを駐車できたようだ。1995年7月30日。朝、苫小牧に上陸し、襟裳岬を経由して根室まで走った。初めてのバイクでの北海道、とにかく走りたかった。

 
そこで出会った人たち4人で、翌朝、納沙布岬の日の出を見に行った。曇天が予想されていて、案の定見ることはできなかった。

 
こちらはツーリングトレイン釧路の案内。根室は2両だったが、こちらは4両だ。

 
ツーリングトレイン釧路の領収証。駅長印を一つ一つ押している。ナンバリングスタンプ、8月3日のは6桁だが、翌日のは3桁だ。なぜだ。


●関連項目
えさしYOUの思い出











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北見滝ノ上駅の職員の名前の札

鉄道

官僚組織というものがこうなのか、一般企業はこれが当然で、中小企業が異常なのだろうか。まあ、官公庁や大企業というものは経済新聞に管理職の異動名前が載るくらいなので、これが世の中の標準なのかもしれない。

ここに示すのは、保存されている北見滝ノ上駅に掲示されている、職員の名前の札である。同様のものが三つあり、どういう「格」なのかわからないが、まずはこれ。


 
おそらく、上が北見滝ノ上駅。そして下が濁川駅のもの。これらのような駅にまで、総裁の名前が掲げられている。次いで北海道総局長、旭川鉄道管理局長、総務部長、運輸部長、工務部長、地方線部長。両駅で氏名の異なるものは、単に書き換えをしていなかっただけだろう。仁杉氏を除き、読める名前を検索してみると…

大森義弘(下写真の「宏」は誤記)…JR北海道初代社長
清水英朗(「郎」かも)…不明、JR北海道関連
天谷昭裕…JR東海専務、JR東海のセントラルタワーを擁するジェイアールセントラルビル社長
稲垣 優…
羽賀 肇…運輸大臣官房国有鉄道改革推進部施設課新幹線環境対策室長、JR東日本東京工事事務所、東北工事事務所長
前川 進…

となった。

上写真の「運輸長室」は下写真によれば「名寄運輸長室」だ。このポストは現業のかなり優秀な人がなるようだ。下段には、北見滝ノ上駅の駅員が書いてある。駅長1名、助役2名、営業係4名。「浊川駅」という略字が使われている濁川駅は、営業係が2名に営業管理係が1名。

下写真では、何駅の…とは書かれずにダイレクトに営業係が1名のみ。上写真から、これは濁川駅のことだとわかる。すぐ左に「管理駅 北見滝上」ともある。掲示されている総局長は北岡寛太郎、のちのJTB理事。経理部長の名前もある。

こういう名札の掲示を見ると、「幹部と現業」という職制上の完全な分断を感じる。まだ「学士」が高卒までと大きな違いであった時代の話だ。

 
こちらは北見滝ノ上駅か濁川駅での貨物の「顧客御芳名」だろう。こういうものが札になっているということの意味がまったくわからないが、そういう慣習だったのだろう。両駅とも引き込み線が多数あった。

 
現存する濁川駅舎。







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北見滝ノ上駅にあったハンコを読む

鉄道

 
いまだに5万分の1地形図には一部の線路が載っている(数値地図に残る鉄道の亡霊と誤記)渚滑線の終点、北見滝ノ上駅跡は資料館になっている。

 
 
これだけのものを散逸させずに遺してあるのは、素晴らしい。

 
ガラスケース内に『日本国有鉄道百年史』等もあるのだが、閲覧できないので完全な死蔵なのは非常にもったいない。そして、こんな塊もある。いささかの偏りがあるような、ないような。


私は、展示の目玉は、このハンコ群だと思う。和文タイプすら学校に1台とかしかなかった時代、きっぷは基本的に手書きとハンコでつくられていた。駅名だの列車名だの、手書きなら一瞬なのに、わざわざハンコ。「活字に準ずる」ことが、社会的に求められていたのか。

この箱には経理的ないろいろが見える。「糞尿汲取代」などは、いかにもだ。「自動車税」「軽自動車税」があるということは、駅管理の自動車があったのか。「自動車取得税」まである。「水料」とはなんだろう。「軟水道料」とは公共水道か。

左には「新富士 十条岐線入」「苫小牧 王子岐線入」「新旭川 国策パルプ岐入」などがある。木材の集積地だった北見滝ノ上から製紙会社に発送していたのか。

 
「父」「母」「妻」「妹」「弟」「長男」「二男」「三男」「長男」「二女」「三女」「四女」などというものは、職員のなんらかの書類に使ったのだろう。子供が多い時代のものだろう。「青木勇」という個人名もある。

 
「日本通運株式会社 北見支店長 山口昭治」。貨物の発送に関するものだろうか。貨物顧客については別項で記す。「無効印」も完備している。

 
「山田明義 291 3650」などは、職員だろうか。「尾碕勝義 310 9612」は、同じ尾碕姓の女性名の印鑑がある。家族だろうか。別項に書くが、氏名は、廃止時の職員ではない(異動済み)と思われる。

右上、貨物用だろうか「○○材 ○丸太」と読める。左上、「職員」「 耺員」がある。こうしたハンコは、中央で作られて一律全国に配布されたのだろう。ここまでが、内部用のハンコだ。

 
ここには窓口で使われていたと思われるハンコが収納されている。名寄本線各駅名や優等列車の印、そして何らかの割引である「学41」「添33」「救31」「身81(51?)」「障83」「介85」など、なかなか見る機会のないものもある。

右には駅名や列車名。こんな…といってはなんだが、盲腸線の終端駅でも、本州の「ゆうづる」「はくつる」「みちのく」は印鑑が用意されていたのだ。駅名の「仙台」「女川」などは貨物用だろうか。

「妹背士別」「妹背上川」「士別妹背」「上川妹背」は、渚滑から札幌方面に行く場合の経由地だろうか。妹背牛と士別ならば急行「紋別」の名寄経由、妹背牛と上川ならば急行「大雪」(旭川止まりなので乗り継ぎか)の中湧別・遠軽経由。「奥羽羽越信越北陸湖西」がひとまとまりになったハンコもおもしろい。

 
こちらも営業用ハンコ。古いものも見られる。「戦」「傷」は「戦傷病者等の日本国有鉄道無賃乗車等に関する法律」による無賃の扱い(国が支払う)ものだ。

「保35」「青学44」「青45」「高46」。「青」「青学」は、それぞれ「青年学級生」「勤労青年学校生」割引のどちらか(土屋武之さんほかのご教示による)。

左から2列目の中程、「千才空港」。

* * *

1996年の富内線振内駅跡だったと思うが、こうしたハンコを「ご自由にお持ちください」とあった。駅名のハンコを三つばかりいただいた。どこにしまい込んだか、見つからぬままだ。



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