新潟県上越市の保倉川かかる、県道30号のポニーワーレントラス。平野部なのに、2車線道路の両脇に屹立するトラスは、ドライバーには「狭い」と感じさせることだろう。
橋梁史年表によれば、橋長76.8m、ポニーワーレントラスのスパンは48.2m。少し取り付け道路を持ち上げてプレートガーダーにするのが普通な気がするが、ランドマーク的な意味合いがあるのかもしれない。この保倉川は、かつては上越市と頸城村の境界であった(河川改修の結果、市村界と流路がかなりの部分で一致しない)。 東側。トラスはこれだけの高さがある。道路が幅員6mなので3mちょっとというところか。親柱、左は「もりもとばし」、右は「竣功昭和39年12月」。右に歩道の橋が見える。 西側。親柱は、左「森本橋」、右「主要地方道 新井柿崎線」。「崎」は「立」の下に「可」の異体字のほう。 おもしろいのは、西側、下流側の下弦に凹んでる部分があることだ。下流側だから洪水時に流木が…などではなさそうだ。 東側の支承。 側径間。13.4mのが両側についている。 こちらは下流側にかかる森本側道橋。きちんと親柱がある。東側は「森本側道橋」、右は「主要地方道 新井柿崎線」。西側は、向かって左が「平成9年3月竣工」、右が「もりもとそくどうきょう」。道路橋と東西の組み合わせが逆である上に「竣功」「竣工」混ざっている。 PR
国道17号の三国峠を越え、新潟県に入る。苗場スキー場の手前、湯沢町三国の集落。なんとも不思議な、突如登場する山間の寂れたリゾート。そこにゼネラルの給油所跡があるのはかつて書いたが、なんと、その外側の壁に日石カルテックスが描かれていた。
位置としては、こうだ。 外側だけ、塗りつぶされ損ねたといったところか。 ここな何十回と通っているのに、まったく気がつかなかった。もしかしてここに建物などがあって見えていなかったんじゃないか…などとも思ったが、ストリートビューを見ても、確かにかつてはここにスキー用品レンタル店があり、立て看板が多少は隠していたとしても、よく見れば見えたはずである。 とまれ、これで、17号を往復する楽しみがひとつ増えた。
ポール工房さんから「工房通信」が届いた。そこには妙高山の切手が貼ってあった。全国的に名が知られている山だ。その東南東、妙高高原駅の南側あたりから見た妙高山の姿が印刷されている。
GW後半、バイクで上越に行っていた。ふと思えば、あのあたりを昼間に走るのは初めてだった。通ったことは何度となくあるが、いつも夜だった。「移動」だった。新潟県下なので、それでいいと思っていたのだ。なんという迂闊さ。 それはともかく、ツーリング中、圧倒されたのは妙高の大きさだ。高い。遠い。まだ雪が深い。でも、周辺の人は毎日これを見て暮らしているのだろう、と感じた。ぼくが毎日佐渡を見て暮らしたのと同じように。 * * *
さて、その妙高山には登ったことがある。高校1年のとき、昭和62年の夏だ。記録によれば(当時の登山ではすべて「手帳」に行動を記録している)8月17日(月)から19日(水)の日程で、笹ヶ峰から入っている。 高校の山岳部の初めての夏合宿で北アルプス、白馬周辺に行き、台風に直撃されて這々の体で帰ってきた後の「二次合宿」として、1年生だけで行くものだ。ぼくは2泊を提唱したが、1泊を主張する人が多くて二手に分かれることになった。12人の1年生部員のうち、2泊組は4人だった。荷物の分担を考えると最適の人数だ。4人でひとつのテント、ダンロップの7人用を使ったと記録にある。「計画書」が出てこないが、ぼくはテントを持ったはずだ。 初日は新潟駅から、たぶん急行とがくし2号で妙高高原駅へ。そこから笹ヶ峰までバス、歩き始めて高谷池ヒュッテに幕営。天気は怪しい。 翌日は雨になった。0330起床のつもりが雨なのでみんなダラダラし、結局出発したのは0845だった。そこから曇ったり晴れたりで、小休止もダラダラと30分も休んだりして、山頂に着いたのは1245。相当のスローペースだ。霧雨。どこかで(忘れた)もう1泊するつもりだったが、ぼくが翌日に高校の軽音楽部のコンサートがあったことを思い出し、帰ることを提案した。そこからが大変だった。 だらだらと、力なく下った。行動が遅いのでもう日が暮れかけてしまった夕方、池ノ平に降りるつもりが、どこでどうなったのかスキー場のロープウェイ沿いの踏み跡を降りていった。登山道ではない、細い踏み分け道。泥。滑る。手帳には「めちゃくちゃな道」と書いてある。そんなところでも手帳をとっている。 途中でスキー場内の砂利道に出た。これで足場はokとなったが、一人2リットル持っていた水ももうない。ただただつらく、重い足を引きずって歩いた。霧の中なので、地図を見ても自分がどこにいるのかもわからない。というよりも把握するつもりもない。スキー場なんだからすぐに人家のあるところにいくだろう、というように思ったが、行けども行けども道は続く。 1900頃には真っ暗になったので、ついにヘッドランプを出す。霧雨の中に走る光線を、手帳には陳腐ながら「幻想的」と書いている。 2000頃、灯りが見えた。見えてからしばらく歩かないと、その正体がつかめなかった。街灯だった。スキー場の下のほうまで来たのだ。霧の中に浮かぶ街灯が、これほど心強いとは。「ものすごい感動。頂上に行ったときよりも感動」と書いている。そして、ついに自販機があった。心躍った…のだが、なんとオフシーズンで電源が切られていた。なんということだ。 そこからさらに30分。2030に舗装路に出た。すれ違った人に駅までの道を聞き、ひたすら歩いた。途中に自動販売機があったので、喉を潤す。そして2130、妙高高原駅に着いた。小さな缶ビールで乾杯。もう時効だ。そして電車で直江津駅に移動し、0130頃、駅前にシュラフを出して寝た。翌朝、「きたぐに」で新潟に向かい、0900頃解散した。これが、ぼくの妙高だ。 当時は、100グラムでも軽くというのが至上命題だったので、カメラを持っていくことは許されなかったのだが、同行したYが持ってきていて、妙高山頂で撮ってくれた。大変貴重な写真であり、大切にとってある。着ているのはモンベルのハイパロン雨具(安い)、履いているのはナイキのジャージ。登山靴は、もちろん重登山靴だがICIのオリジナルだったような。 * * *
GWに妙高を見ていろいろ思い出していたところに、ポール工房の切手が妙高山だったことがとても嬉しかったので、その記念にしたためておく。 |
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