オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」をある程度詳細に見ていく。
年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年) 年代別 鉄道路線延伸の過程(2)東海道全通時点(1883年~1897年) 年代別 鉄道路線延伸の過程(3)明治後期(1898年~1912年) 年代別 鉄道路線延伸の過程(4)大正期(1913年~1927年) の続き。下記の路線名称は、わかりやすさを優先するために現在のものを適宜使用する。 【1928年(昭和3年)~1932年(昭和7年)】 【1933年(昭和8年)~1937年(昭和12年)】 最大のポイントは丹那トンネル開通かもしれない。 高知については、鉄道創業以来50年以上を経て、ようやく全国の県庁所在地同士が結ばれるようになったということだ。 1927年と比べると、相当、現在の路線網に近づいているといってよかろう。しかし、まだ、青い線(私鉄)が多くある。 【1938年(昭和13年)~1942年(昭和17年)】 岩泉線、二俣線なども戦時下だからこそ開通した路線だ。 個人的には、深名線がこの時期に全通していることと、このすぐ後に昭和新山の活動で被災する、のちの胆振線が開通しているのが興味深い。 PR ここは、環七が整備されて以来、ずっと空き地なのだろうか。 環七に限らず、かつてあった畑や宅地の区割をほとんど無視して直線的に道路が作られる際には、こうした場所が多く現れる。画面右に見切れているビルは、上空から見ると三角形だったりする。土地が三角形に切り取られても、そこそこの面積があれば、活用できる。 ここに環七が通る前はどうだったのか、などと考えて古い航空写真を見ても、そもそもこんな小さく区割されておらず、広大な畑だったりする。また、1974年の航空写真を見ても、この大きさでは当時どうだったのかまでわからない。ここに家があったことがあるのかないのか。それだけが気になる。 場所はここ。 かなりの角度で道路を渡っているのがわかる。45度くらいか。その道路も、京成線をくぐった先で左(西)にククッと曲がっている。もうちょっとうまくできなかったのかしら。 さて。 通常、カバープレートがある場合は騒音防止を意図してバラストが敷かれているのだが、ここはそれがない。なぜ木材で覆ってあるのか、その理由がわからない。 桁は3主桁の複線桁。縦桁はレール直下付近に2本。先に言うと、銘板は見つからないので活荷重は不明だが、有名な荒川放水路橋梁等、歴史的鋼橋集覧に掲載された三つの京成本線の橋梁がすべてKS12であることからして、ここもKS12だろう。若干華奢な桁、というのもうなづける。 鉄製橋脚については後述するが、2本の脚を結ぶ水平材の下、ガードレール的な位置にあるコンクリートの柵の形がおもしろい。 向こう側へ。 さて、この橋梁の名称は、「都市計画第6号線架道橋」という。しかし、wikipediaで見ると、「都市計画第6号線」は九段から練馬に向かう靖国通り・青梅街道のことだと書いてある。そして、現在くぐっている墨堤通りは「東京都道461号吾妻橋伊興町線」である。では「6号線」は何? wikipediaにあった。 戦前の都市計画では、足立区千住宮元町交差点から墨田区鐘ヶ淵陸橋交差点までは幹線環状道路第六号其の二(其の一は現在の東京都市計画道路幹線街路環状6号線(山手通り))の一部であった。 いまでも山手通りを「環六」と呼ぶことがあるが、その「6号線」であった。先に見たのは放射6号線であった。
『東京人』2012年3月号に掲載されている、京成関屋駅付近の廃線跡。なんと、アスファルトに塗り込められたレールが残っている。それも、触れる場所に。『東京人』の丸田祥三さんの作品でそれを知り、行ってみた。
場所はここだ。 当時の地図を今昔マップ(1965-1968年)から転載する。 レールが光ってる! …というよりも、手前に廃車体みたいなのがあるぞ…。 分割されている様子。明かり取り窓があるから、郵便車または郵便・荷物合造車だろう。シングルルーフ、ガーランドベンチレーターから、それほど古いもの(例えば木製とか)ではないはずだ。 帰宅後、検索したら、こちらのサイトに詳しく書いてあった。また、検索を重ねると、ワールド工芸が「スユ37」と断じているので、それで間違いなかろう。 1974年の航空写真。 まだ墨堤通りを横切る線路(黄色くした部分)とともに、既にこのスユ37も写っている。 なお、例によって、このエントリ最上部の地図を拡大していくと、この廃車体も「建築物」であるかのように、フォルムが地図に落とし込まれている。 京成沿線はまったく不案内なので、こんな場所に廃線跡や廃車体がきちんと残っていることに驚きだった。訪れたときは日の向きがイマイチだったので、日を改めて行ってみたい。また、丸田さんを意識しすぎて17mmでしか撮っていないので、ここにアップするのもためらわれるような写真しか撮れていない。今度は時間も改め、さらに自分の好きな28mm単焦点で行ってみようかと思う。 (追記)現像しなおし、うるさかった「色」を捨象する方向で画像を作り直した。レンズの歪曲も修正した。少し画面が整理されたとは思う。なるほど、青系統の色調にしたり(色温度を下げる)アンバー系(色温度を上げる)で現像すると、「コントラストが高い道路やコンクリート」が落ち着いて見られるようになる。ちょっといろいろ作り直してみよう。 *** 2012年6月10日追記。 『鉄道ファン』1981年11月号に「東京の下町にある郵便車の倉庫」という記事があった。写真も掲載されている。そうだ、この記事は子ども心に深く印象に残っている。しかし、その存在を忘れていた。当時でも「スユ3720」までしか判別できていない。「ある商事会社の一隅に」とあるので、当時のここには商事会社があったのだろう。
2007年9月の話だ。週半ばの火曜から木曜まで珍しく仕事で道東に出張があり、帰路は釧路空港から羽田の予定だった。ところが、木曜になって台風が来た。私が搭乗するはずだった釧路~羽田便以降、すべて欠航。翌日も満席。釧路市内のホテルは搭乗予定だった人たちがあふれるのと、翌日の飛行機も乗れないことが予想された。
私は釧路駅で「スーパーおおぞら12号」が「通常通り」運転されるのを確認すると、空港返却の予定だったレンタカーを釧路駅で乗り捨て、飛び乗った。札幌に行けばなんとかなるだろう--。 しばらくはおとなしくすわっていた。闇の中を突き進むキハ283系。遮音された床下から感じるエンジンの響き。車窓は横殴りの雨。前面展望を見に行った。 吹き付ける嵐の中、キハ283系は突っ走る。新得を過ぎればあとはほぼ無人の山中、闇の中を9灯のヘッドライトが切り裂いていく、という表現がぴったりだった。 感じたのは、運転士の孤独感。台風による強風と大雨の中、視線を前方に集中し、ひたすら決められた速度で走っているに違いない。真っ暗な運転台で一人、速度の恐怖と戦う孤独感はいかばかりか。それに対して、乗客は完全に安心し、心地よい移動を楽しむことができている。 進路は開かれている。進める。その安心感(違うんだけれど)。とにかく、進んでくれる頼もしさがあった。 時折、線路脇に鹿が見える。鹿は、こんな台風の夜でも、エサを求めて歩き回っているものなのか。 JR北海道の確実な運行のおかげで、札幌に着いた。しかし、新千歳空港発の飛行機も相当数が欠航になったらしく、市内のホテルはまったく予約がとれない。イエローページを片っ端から電話し、ほぼ1ページかけ終わる最後の最後で「トリプルの部屋なら開いていますよ。いまキャンセルが出ました」。そこにシングル扱いで止めてもらえることになった。ラッキーだ。 札幌駅内を移動していると、やはり宿にあぶれた女性が、ホテルの状況を私に聞きに来た。私は事情を説明したら、あきらめ顔で公衆電話に向かった。こちらの部屋はトリプル、でもまさか一緒に泊まりませんかとは言えない。 翌金曜日、混乱の中、スーパー北斗とスーパー白鳥、はやてを乗り継いで東京に帰った。スーパー白鳥が1本運休になった気がする。そのため、会社に行ける時刻には東京にはつかなかった。 そうなるならば、翌日は土曜日であるし、いっそ、北海道に私費でとどまっていた方が、個人的に土日を北海道で過ごせてよかったかもしれない。などと考えても後の祭り。どうしようもない。なんだかとてももったいないことをした気分になった。 (20120225 写真のファイル名のつけ間違いで写真がおかしくなっていたものを修正。一部削除) |
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