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『大正・昭和前期における鋼鉄道橋の発達とその現況』(小西純一・西野保行・中川浩一)に、こんな項目がある。
曲線トラス
1932年には土讃線伊予川橋梁用に線路の曲線半径300mに合わせてトラスを格点で折ったトラスが設計・架設されたが、現存しない。
現存しないのか、でも航空写真で見てやれ、と思い、いつまであったのだろうかとwikipediaを見ると、なんと1950年11月4日にはその区間が新線になってしまっていた。これでは鮮明な1970年前半撮影の1万分の1航空写真には写っていない。


20100926.jpg1947年撮影の国土変遷アーカイブを見てみた。橋梁部分を抜き出す。

小さくてよくわからないけれど、この部分が曲線になっているようだ。













『日本鉄道請負業史』には、この部分の写真が掲載されていた。
20100926-1.gif鮮明ではないが、かろうじてトラスの姿が見える。「曲線『トラスト桁』」は、むろん「トラス桁」の誤りだろう。














とはいえ、どれも決め手に欠ける。「これは!」という写真がない。これぐらいはっきりと写ったものはないだろうか。

大きな地図で見る
(JR福知山線 尼崎-塚口間)
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銀座のニコンサロンで開催されている吉野正起氏の写真展『道路』に行ってきた。50点の作品が並んでおり、吉野氏ともずいぶんお話をさせていただいた。気がついたら2時間以上が経っていた。

20100925-02.JPG(許可を得て室内を撮影しています)


ニコンサロンの案内産経新聞の案内を見て、私はてっきり廃道の写真展だと思い込んでいたのだが、まったく違っていた。いやもちろん、伊豆の賀茂トンネル旧道の写真は代表作的に展示してあり、来訪者の多くはその作品をベストだと感じるようだが、作品の大半は「道」そのもの。関連した写真を撮る人たちにとって、当たり前すぎてシャッターを切らない光景が、そこには溢れていた。

交通量まばらな地方の幹線道。
夏の山間、1車線から分岐する1車線の強引な道。
ダートと舗装路の境界。
波浪が砕け、空から降ってくる日本海の道。
雪が積もり始めた、山間の除雪済みの道。
雪解けを待たずに作業が始まった、キャタピラ跡がある作業道。
……。


バイクにしろクルマにしろ自転車にしろ、道を走っていると常にこうした光景は展開しているはずだ。でも、当たり前すぎて立ち止まらない。我々がレンズを向けるのは、フォトジェニックな何かがあったとき。たとえば重ねた歳月を裏付ける標識や、美しい日差しに出会ったとき。そういうものではなく、当たり前すぎる場所を作為のないように切り取るのはおそらくとても難しいと思うのだが、そうして切り取られた「あるある!」という光景がひたすら静かに並んでいる。作品を見た人は、自分がこれまでに見てきた「似た光景」を一瞬で連想できる。そして、「いますぐ走りに行きたい!」と思うに違いない。


被写体となる道路は東日本のもの。雪景色も多い。鉛色の空も多い。新潟育ちの私にはとてもなじみ深い風景だったので、より強く共感できたのかもしれない。


作品はすべてスクエアフォーマットで展示されている。その意図などもお聞きしたのだが、それはここには書かずにおく。ぜひ実見して、直接吉野氏の道への思いを伺って欲しい。吉野氏はとても気さくに、道路への思いを語ってくださった。道路に魅せられ、もう夢中になっているというお気持ちが強く伝わってきた。

芳名帳には、荒川好夫氏や柴原直行氏のお名前があった。荒川氏は、私がもっとも好きな鉄道写真家。その作品は、本当に見惚れてしまう。『カシミール3Dで見る・自分で描く 空から眺める鉄道ルート』でお世話になった。柴田氏は、かつてバイク雑誌でものすごくお世話になった、バイクを撮らせたら世界でもトップレベルの方で、ツーリング取材で道とバイクの写真をひたすらお願いしたこともある。私が密かに尊敬する方々が、これら「道路」をご覧になって、どうお感じになったか、お尋ねしてみたい。

吉野氏のブログはこちら。作品が一部閲覧できる。

<関連情報>
吉野正起写真展『道路2011 -岩手・宮城・福島-』
『余部鉄橋物語』(田村喜子著/新潮社)に補足。佐々木葉氏による、この本の補足というか指摘がある。

同書は佐々木氏を「自説を述べるだけ」と描いており、私は氏に大きな不快感を憶えたが、その点について自ら下記のように書いているのだから、まあそうなのだろう。ちょっとこの態度(「楽観的」のあたり)はないんじゃないの、と思う。
地域の人々の暮らしの状況などまるで理解していない了見の狭い女学者、というように書かれている(僻みか?)。確かにそうだったのかもしれないなとも思うが、もう10年近く前のことだから、それから少しは成長しただろう、とあくまで楽観的。(ブログより)


なお、佐々木氏葉は、ハーコート製のボーストリングトラスを転用した、長野県のりんどう橋を設計した人だ。詳細はこちら。橋の名前に氏の責任は皆無だろうが、「りんどう橋」という名称は、全国各地にある。もう少しまともな(地域を象徴するかのような)名称はなかったのだろうか。「ふれあい橋」よりはマシか。



そう考えると、新潟の信濃川河口の橋に疑問符がついた。。

・柳都大橋…「りゅうと」なんて、昔は言わなかった。柳の町であることは言われていたけれど。
・万代橋…佳字。
・八千代橋…佳字。
・昭和大橋…元号。
・千歳大橋…佳字。

寿命は、千歳大橋<八千代橋<万代橋、だな。

それに引き替え、関屋分水路の橋はすばらしい。

・新潟大堰橋(大堰そのものの名称)
・浜浦橋(地名)
・堀割橋(地名)
・有明大橋(地名)
・関屋大橋(地名)
本日発売された『鉄道ファン』2010年11月号の『東京鉄道遺産をめぐる21 帝都復興事業と万世橋付近 万世橋架道橋』(小野田滋)で、ついに万世橋架道橋が採り上げられた。場所はここである。



以前、このブログでも2回、適当なことを書き散らした。

鉄製橋脚 万世橋架道橋
この区間(東京-万世橋間)が開通したのは1919年(大正8年)。そして、この曲線桁が架けられたのが1928年(昭和3年)。関東大震災のためだろうか
(注:当時は「鋼製橋脚」と題していたが、鋳鉄じゃねえか!)

万世橋架道橋への期待
4月9日の記事『万世橋架道橋』を書いたときに気づいた、開通時と桁架設時の時期の違いの理由はいまだに不明だが、『鉄道ファン』の不定期連載「東京鉄道遺産をめぐる」が東京-万世橋間市街高架線を採り上げ始めたので、きっと明らかになるに違いない。wktkして待つ。


ようやく、その疑問が解決された。小野田氏の記事に寄れば、やはりというか、初代の桁は直線桁を角度をつけて接続し、その上に曲線の線路を敷いていたのであった。写真まで掲載されている。写真の出典は『市街高架線東京万世橋間建設紀要』。これは、国会図書館のデジタルライブラリーに収録されているのでざっと目を通したことはあったが、写真のスキャンが適当なため、正直なところ、写真は見るき気もしなかった。しかし、ここに初代万世橋架道橋が写っていたのだ。自分を恥じるしかない。もちろん『鉄道ファン』誌に掲載されているものは鮮明だ。

初代の橋はここに掲載されていた(下段)。


(リンク元=国立国会図書館デジタルライブラリー

よく見えないとは思う。画像はこちらの28ページに、資料全体はこちらにある。


ともあれ、すっきりした。初代の橋が3径間であったこと、橋台は初代のものを引き継いで使っていることが解説してあった。まだ、黒田武定についても、1/2ページを割いて解説している。今月の『鉄道ファン』は、この記事のためだけに買ってもいいし、これだけに倍の値段出してもいい。


ついでに。同記事に記載されていたのだが、水害で不通になり廃止となった高千穂鉄道の第二五ヶ瀬川橋梁は、こことは別の方法で曲線区間でプレートガーダーを使用していたという。なんでも、主桁(つまり両側のプレート)は直線のまま、縦桁を「階段状にシフト」させたものだそうで、どういうものかを知りたかったのだが、画像検索しても、残念ながら水害で流された後の悲惨な画像ばかりが出てきていたたまれたなくなった。こんな橋の裏側を撮っている方などいるまい。

上の地図、現在線と旧線の描き方がおかしく、拡大して南下すると収集がつかなくなっているのはご愛敬か。
20100920-01.JPG中央本線の大日影トンネルは、甲斐大和から勝沼ぶどう郷の間にあるトンネル。1997年に新しいトンネルが掘られたことにより使用停止され、いまは遊歩道として整備されている。3月に訪問した際、かなりの人手に驚いた。午後3時すぎから往復1時間以上歩いている間にすれ違った人の数は100人は超えている。かなりの人気スポットのようだ。写真の右端が遊歩道となったもっとも古い大日影トンネル(1903開通)、左端は1968年上り線として開削されたもの、中央が、右端の代替として1997年から使用されているものである。

この遊歩道自体はたくさんの方がレポートしているので、いまさら書いてもしょうがない。ここを歩いているときに煉瓦について思ったことをつらつら書く。

煉瓦があると、人はよく「どんな積み方か」を気にする。イギリス積みだフランス積みだというのはかなり知られてはいると思うのだが、トンネルの場合は、上も見上げて欲しい。左右の壁部分がどんな積み方をされていようと、天井は長手積みなのだ。ごく一部に例外もあるが、ほぼそう思って間違いない。

では、どこから天井か。下記に示す起拱線(ききょうせん、またはきこうせん)から上である。
20100920-02.jpg鉄道のトンネル断面は馬蹄形をしていることが多いが、ここ起拱線から下はすぼまっていようが側壁である。ここでトンネルは「上」「下」が別れる。

上の写真では、新しい下り線のトンネルのコンクリートが、翼壁を浸食している。それでもピラスター(坑口の左右にある柱。坑門が倒壊しないように押さえつけている)を破壊しないようになっているのは景観的な配慮なのか、それとも構造的な配慮なのか。

起拱線は、側壁を見るとわかりやすい。
20100920-04.JPG起拱線より上は長手積み。アーチにかかる力をアーチの軸方向、列車の向きで考えると左右の方向に振り向ける。起拱線より下はイギリス積み。単純に、上から下へ、重力方向に力を伝えていく。

起拱線という見方を知っていると、トンネルを見る目が変わると私は思う。側壁が長手積みであることはほとんどないので、簡単に見分けがつく。

起拱線の上下で部材が異なることもある。天井部が煉瓦で、側壁部が石積み、あるいはコンクリートであるような例だ。大日影トンネルを出たところから見える煉瓦精暗渠が、その例である。起拱線がわかりやすいので図示しておく。赤い線が起拱線で、側壁は石積みである。20100920-08.jpg
大日影トンネルでは、側壁の一部に石材が使用されているが、残念ながら起拱線は関係ない。

面白いのは、トンネルの前後の出口の意匠が異なることである。

20100920-06.JPG冒頭の勝沼ぶどう郷側は煉瓦で坑門を作っているが、こちら甲斐大和側は石積みである。どちらも盾状迫石(たてじょうせりいし)という、劔型の石が坑口から放射方向に配置されているが、その大きさも並べ方も異なるのが興味深い。

向かい合う廃隧道、深沢トンネルも石積坑門だ。20100920-07.jpg
大日影隧道とまったく同じ意匠である。この、坑口の頂点、アーチなら要石の位置にある横に3枚並んだ縦長の石が、サザエさんのようだ。

この両トンネルの間には橋がある。
20100920-09.jpg残念ながら、遊歩道を整備したときに架けた新しい橋のようだ。





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