◆ご指摘から始まる机上の遊び
先の記事を書いた後、@fuzzy_studioさん(阿房列車ピクトリアル)から 「もともと単線の臨港貨物線用鉄橋でしたが、将来環状線として使用する為複線仕様にしていたのは素晴らしいと思います。」 とのコメントをいただいた。そんな経緯はつゆ知らず、まあ、乗ったことも一回しかないのに橋梁そのものへの興味で現地に行ったわけだが、改めてwikipediaの年表を見るとたしかにそのとおり。以下、そこから私が興味の赴くままに見たり調べたり検索したりして、自分の糧としたことを書く。 大阪環状線の大阪-天王寺間の経緯を簡単に記す。 ・1898.4.5 西成鉄道として、大阪-西九条-安治川口間開通(単線) ・1900.12.1 国有化 ・1909.10.12 「西成線」の名称制定 ・1912.7.17 複線化 ・1941.5.1 電化 ・1928.12.1 関西本線の貨物支線として、今宮-大正-浪速-大阪港間開通(単線、非電化) ・1961.4.25 西九条-境川信号場(大正-浪速間)間開通、大阪環状線全通。 大正-今宮間の旅客営業開始。 #境川信号場-大阪港間は、廃止まで単線・非電化 ・1984.2.1 浪速-大阪港間廃止 ・2004.11.9 境川信号場-浪速間休止 ・2006.4.1 境川信号場-浪速間廃止 境川信号場から先は廃止からそれほどたっていないので、航空写真でも痕跡がある。 大きな地図で見る 右上に境川信号場の痕跡、そこから左下に向かって延びているのが、この大阪臨港線である。別ウインドウでぜひ全線を目で追ってみてほしい。 ◆文献での検証 西日本は馴染みがないので資料もほとんど持っていないが、『鉄道ピクトリアル』2002年3月号「鉄道と港-臨港線回顧」に「地形図に見る関西地方の臨港線」(高山礼蔵)という記事があった。そこに「国有鉄道 今宮-大阪港」という一節があり、たしかにこうあった。 「1928(昭和3)年、関西本線今宮から分岐して市街南西部を木津川、尻無川まで複線高架構造で建設…」(下線は筆者) 「途中の木津川、岩崎運河(現在は尻無川)の巨大な箱形の下路トラス橋は、大正区の玄関口として異彩を放っているが、これら高架線、橋梁が後年、大阪環状線の施工に大いに役立った」 旅客線への転用を前提として建設したのかどうか、そこまで明確に記してはいないが、複線電化を基準にしていることは間違いなかろう。 ◆大阪臨港線 先に掲示したGoogleマップを追っていけばわかるのだが、大阪臨港線は複線化を前提にしている部分がいくつかある。たとえばここだ。 大きな地図で見る なぜか、下路プレートガーダーが複線分用意されている。写真はnoafactoryさんのサイトに写真があった。ほかにも、橋台や用地の一部が複線を前提としていることが、Googleマップからでもよくわかる。また、先のRPの記事によれば、大阪臨港線には三つの可動橋があったという。それらはnoafactoryさんのサイト末尾にある航空写真でわかる。 ◆大阪臨港線の実際の様子 ここまでに至るヒントを教えてくださった@fuzzy_studioさん(阿房列車ピクトリアル)がまとめられたページはぜひご覧いただきたい。 ・「在りし日の大阪臨港線~港のスイッチャー」 ・「昭和50年代の大阪港・大阪臨港線(浪速貨物線)風景」 ◆まとめ あのばかでかいダブルワーレンが、のちのちの複線化を前提に作られていたとは驚きだった。正確に言えば、雑誌の記事を読んでいたのに、土地勘もなにもないためにスルーしてしまっていた。なんともったいないことか。でもきっと、それに気づかないだけで、そんなことはしょちゅう起きているのだろうとも思う。 同時に、1928年という時代に、将来を見越した計画をした当事者の計画性にも驚く。道路も鉄道も、そこに存在するに至る理由が必ずある。橋梁もそれらの一部であるし、橋梁単体としても由来があるはずだ。この経緯は、できるだけ正確に把握しておきたい。今回、タイトルの橋梁について、架けられてからの変遷は自分で辿ることができたが、大阪環状線の経緯を知らなかったために、架けられるまでの経緯に考えが及ばなかった。大変勉強になった。ご教示いただいた@fuzzy_studioさんに感謝申し上げます。 PR |
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