和歌山県和歌山市の中橋である。英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(その6)和歌山県新興橋で紹介した新興橋の兄弟橋と言ってもいいもので、1953年にこの地で供用された。歴史的鋼橋集覧によれば、拡幅し、どこかからか再転用されたのではないかとしている。 英国系ポニーワーレントラス共通の「下弦の上に、1パネルにつき2本の横桁が乗る」というものを改造して、本来あるべき場所(画像中、赤く囲った部分)の真下に横桁をリベット留めしている。なお、この赤枠内の鉄板は強度メンバーではない。こんな歪んだメンバーがあってたまるか。 このように、下弦の内側の部材に、横桁をリベット留めしている。こうして見ていると、この横桁は、本来の横桁を転用したのではないのか、という疑念も湧いている。いままでこの横桁と同じような長方形で、縦のリブがいくつもかましてあるものは見たことがないが、縦桁を避けるようにリブがついているので、これはこれで「リブが後付けである」ということの状況証拠であり、やはり本来の横桁を流用したのかもしれない。 角度を変えてみると、横桁の作り方が、従来見てきた100フィートポニーワーレントラスの横桁と同じくコの字型の部材を背面合わせにリベット止めにした構造だ。そして、端部を下弦の内側の部材にリベット留めしている。 どのように下弦にリベット留めしているかという例。 下弦は、内外2枚の溝形鋼でできているが、そのうち内側だけに横桁の荷重がかかる。内外はピンでつながれているのだが、こういう場合、バランスが崩れたりはしないのだろうか。 反対側全景。 新興橋の記事(その6) と合わせてご覧いただきたい。 PR
愛知県の、博物館明治村に、この30フィート複線ポニーワーレントラスはある。東京・神奈川県境の六郷川(多摩川下流の別称)に6連の複線桁として架かっていた。右75度の斜橋である。1875年、イギリスのハミルトン製。
のちに列車重量の増大等とあいまって、1915年に3連が御殿場線(当時は東海道線)の第2酒匂川橋梁下り線に、3連が上り線に転用された。『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状第2報 英国系トラスその2』(西野保行・小西純一・淵上龍雄)によれば、下り線に「六郷川より1連」という注釈がついているが、おなじハミルトン製の複線桁が3連あった現地のうち、1連だけが六郷川で、残り2連の素性が不明、ということはあるまい。おそらく、3連とも転用桁だったのだといまは思っている。 第二次世界大戦中、御殿場線は単線化されたが、第2酒匂川橋梁のうち残されたのは下り線で、上り線は1944年に撤去された。行方は知らない。下り線も、1965年に現在の桁に架け替えられた。御殿場線の橋梁群については経緯を追いづらいので、過去に書いた記事を参照していただきたい。 桁の話に戻る。上の写真のように、複線桁のうち片側にレールが敷かれ、片側は歩道になっている。レールの上には尾西鉄道1号機関車が保存してある。こちら側には銘板があるが、複製品だとどこかで読んだ記憶がある。 これが向かって右。 これが向かって左である。 この桁の最大の特徴は、レールが敷かれているということと、そこに縦枕木が再現されていることだろう。 縦枕木とは、レールの真下にレールと並行して敷くもので、橋全体の構造として、両サイドのトラス桁の下弦に横桁を渡し、その上に長手方向に縦枕木を敷き、その上にレールを敷くことになる。 このような感じになる。 横桁は、上の写真でわかるとおり、魚腹型だ。 また、レールは一部に双頭レールを使用している。 移設の際なのか、御殿場線として供用されていた際なのか不明だが、相当に補修の手が入っている。リベットがボルト留めに変更されている部分が多い。リベットでないと、非常に目にうるさい。 そう思いながら見ていて、ふと気がついた。横桁の腹材は帯板1枚ではなく、継ぎ足されている! そして、道路側を機関車側から眺めると、なぜか1本だけ、この継ぎ足しがなされていない横桁がある! いままでレポートしてきた横桁のうち、原型をとどめるものでも、継ぎ足されたものはない。これは、複線桁で幅が広かったためにこのようにせざるを得なかったのだろうか。製造する部材の寸法の制限によるものなら、横桁中央部で接合してもよさそうな気もするが、この場所ならば応力が小さくなる、などといった効用があるのかもしれない。 トラスの端部、端柱の上のピン部分はこうだ。 ピン周辺のリベットの打ち方の差は、今後の研究課題。おそらく、メーカーにより差異があるのだろうとは思うが、サンプルがあまりに少ない。 反対側から見る。 外側から(道路側)から見る。こうしてみると、下弦とピンを接続する部分の、ピンを締めるナットの下の板の形が、それぞれの場所で異なる。回転してしまうようなものでもあるまいに、径間中央部は左右対称で、端部に行くほど端部側が長くなっている。 こうしてみてきたが、実はトラス桁だけでなく、鈑桁も保存されている。 この鈑桁が、はたして六郷川にかかっていたものが酒匂川に転用され、そのままここに至ったものなのか、それともどこかから紛れ込んでしまったのか、現地には解説がなかったので不明だ。 縦枕木は、敷設も、保存も手間がかかることだと思う。それでもこの形として見ることができるのは幸せだ。明治村は、平気で1日見学できる。また機会を設けて行ってみたい。 滋賀県の近江鉄道の愛知川橋梁である。愛知川-五個荘間にある。写真の左が愛知川方。見てわかるとおり、愛知川方のみ100フィートのポニーワーレントラスがかかり、五個荘川はスパン22mの鈑桁9連がかかっている。 冒頭の地図を衛星写真に切り替えていただきたい。なぜここだけポニーワーレンがかかるのか、不思議に感じないだろうか。河川敷というよりも、草の生えた土手。通常、スパンの長い桁は、本流部分にかかる。本流の中に橋脚を建てたくないからだ。いま、このポニーワーレンがかかる部分の真下は、愛知川の本流ではない。 ここで、1946年撮影の写真をご覧いただきたい。 見事にポニーワーレン部分に本流がある。ただし、川の流れはよく変化するものであるから、この橋が架設された1897年当時もこの流れ方だったとは必ずしも言えない。 参考までに、周囲まで写っている国土変遷アーカイブのサイトはこちら。 さて、橋の詳細に戻る。 すぐ西に並行して国道8号の御幸橋がかかるが、そことの間には木が茂り、全体が見えない。やむを得ず、すぐ近くから撮る。画像に黒い点が見えるが、レンズについた汚れらしい。 御幸橋は、その名の通り天皇に関係する命名であり、明治天皇ご巡幸にあわせて架設された橋をルーツとする。土木学会のアーカイブスに、当時の橋の写真(木製、ハウトラス!)や開通式当日の事故の記事がある。 東側から。もろ逆光なので、トラスの色を出すのがかなり厳しい。 踏切から見るとこんな感じ。トラス桁の外側に、横桁にくっつける形で「ゝ」型の部材がついているのだが、これがなんなのかわからない。 【2013.3.10追記】WEBサイト『水辺の土木遺産』に「J型スティフナー」といい、ポニートラスが外側に倒れることを防ぐもの…という記述があることを@Einshaltさんからご教示いただいた。感謝。 さて、気になる横桁である。いや、ここでは縦桁をご覧いただきたい。 通常の英国系ポニーワーレントラスは、トラスの下弦を結ぶ形で、下弦に横桁が載っかり、その上に縦桁が載っている。そのために横桁がは凹型をしており、レール面があまり上にならないように配慮されている。 しかし、この愛知川橋梁は、横桁の位置こそ同じものの、形状は直線。そして、縦桁が横桁と同じ高さにある。ここが最大の特徴であろう。 愛知川橋梁は、『明治 時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報) 英国系トラスその2』(西野保行、小西純一、渕上龍雄、1986年6月)によれば、いままで見てきたポニーワーレントラスとは別に「その他の英国系トラス桁」として、左写真の関西本線の木津川橋梁(ランガー桁に改造されたもの。いずれ)と同系に分類されている。両者ともに架設時から現在まで、転用されることなく現地にありつづけている。設計は、ともに白石直治、那波光雄の両名による。 「その他」となっているのは、いままで紹介してきた100フィートポニーワーレントラスは9パネルかつ横桁の上を縦桁が通る構造になっているのに対し、本橋梁は8パネルかつ横桁と縦桁の位置関係が少し異なるためである。木津川橋梁は、各パネル間に凹型と直線型の横桁を交互に配置し、直線型横桁と縦桁を突き合わせ、凹型に載せるような感じになっている。愛知川橋梁は凹型横桁を省略し(あるいは後天的改造で撤去し)、直線型の横桁と縦桁しかない。よって、本来は「その他1」「その他2」とすべきものではないだろうか。 なお、愛知川橋梁はハンディサイド製、木津川橋梁はパテントシャフト&アクスルトゥリー製である。上記論文には、愛知川橋梁にはハンディサイドの銘板があるとされ、写真も紹介されていたが、私が見る限り、存在しないようであった。 橋台部分。通常、両端のパネルにも2本の横桁を配置するが、ここでは1本もない。縦桁が橋梁内で完結せず、橋台に載っかっているのが興味深い。 横桁の端部は、一枚の鉄板があてがわれ、内側からアングルとともにリベット留めされている。 上下のピン部分。 ディテールの紹介は以上である。データ的なものは歴史的鋼橋集覧へ。 なお、この橋の下はひざくらいまでの藪である。この日、裏側を撮った直後、落とし穴的に存在していた「藪に隠れた溝」に足を落としてしまい、スネを思い切りすりむいた。あいにく溝にはドブ状の水が多少あったようで、汚そうな土が傷付近に付着していた。 あわてて唾をふきかけつつ、幸いにも近くにあった水飲み場で洗浄し、すぐ薬局で消毒薬を入手して塗布した。よって、裏側をじっくりと観察する余裕がなかった。もしかしたら、もっと見ていればもっとなにかが見えてきたかもしれない。少し残念。 (2010.5.26 23:40一物行きもとい一部追記) 和歌山県和歌山市の大門川にかかる新興橋。英国製の鉄道用ポニーワーレントラスを転用した道路橋である。100フィートポニートラスは9パネルであるが、この新興橋は8パネル。では、どこで短縮したのだろうか。実は、この日は和歌山に行く予定など毛頭なく、「歴史的鋼橋集覧」を見てちょいと行っただけなので、いまにして思えばもっとちゃんと調べるべきであった。 こんな感じで街中に唐突にある。いままで見てきたものは鉄道橋だったり、元鉄道橋だったりしたので、「橋がここにあって当然」というシチュエーションであり、ここまでの唐突感はなかった。住宅街の中にあるので、電車が住宅街の軒先に保存してあるような感じ、といえば近いだろうか。 道路橋に転用した際に拡幅したとのことで、下弦材の上に乗っかっていた本来の横桁は失われている。その跡が、このようになっている。横桁があった場所に、適当な(そう見える)鉄板があてがってあるように見える。適当に見えるのは、この鉄板が歪曲していることから来る印象だろうか。しかもリベット留めなので、もともとあったものなのか、後付けなのかは不明だが、リベット留めしてあれば、その上に横桁が載る訳もなし、その理由が理解できない。 では、新たな横桁はどうなっているのか。下に潜ってみた。 この新興橋がかかるのは、大門川である。地元の方には申し訳ない感想だが、ドブ川である。余談になるが、ドブ川を漢字表記すると「溝川」になることを今知った。ドブ川と言っていいと思ったのは、水質調査で「2級河川ワースト5」の常連だからである(→参考資料)。で、そんな生温かい、かつ高さが確保できない環境ではこれくらいしか撮れなかった。まさか水に入ってまでは撮らない。 そんな環境なので、全貌を把握できなかったのだが、どうやら新たな横桁は、旧横桁のあった位置の真下に位置するようだ。旧横桁は下弦の上に載っていたが、新横桁はその同じ位置の、下弦材の内側の部材にリベット留めされている。 二つ上の写真のとおり、縦桁は横桁の間にある。いままでに見てきた英国系100フィートポニーワーレントラスはみな横桁の上に縦桁があったが、愛知川橋梁(いずれ)などは横桁の間に縦桁があるものがある。 (上の青い橋が福島県伊達橋、下の赤い橋が滋賀県愛知川橋梁) もし、この新興橋の転用元が愛知川橋梁タイプの横桁と縦桁を持つものだったのであれば、ポニーワーレントラスの左右の主桁を結ぶ床の部分を横桁ごとバキッと取りはずし、そのまま取り付け位置だけを変更すると、この新興橋のようになるのではないか。寸法も測らずに乱暴なあてずっぽうだとは思うが、この新興橋の横桁がどうにも転用された1954年頃に作られたようには思えないのだ。これは一つの謎である。 また、どこで短縮されたのだろうか。真横から見るとこうだ(適当な合成で見づらくてすみません) 黄色く囲んだ部分に、継ぎ板が当ててある。これを見る限り、左から2パネル目と3パネル目の間の上弦部分と、左から3パネル目の下弦部分で接合しているのかもしれない。こうした接合部の考証も、少しずつ進めている。 参考までに、上弦のピンの写真を。 和歌山市内の100フィートポニーワーレントラスについては、さらにもう一つ、疑問がある。和歌山市内に架設された数だ。 和歌山市内のは計3連が転用されたと、サイト「橋の散歩道」に書いてあるが、『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報) 英国系トラスその2』(西野保行、小西純一、渕上龍雄、1986年6月)にはこの新興橋の記述はなく(「歴史的鋼橋集覧」は小西氏の記述、ただし1996年)、もうひとつ現存する中橋のみである。「歴史的鋼橋集覧」にはこの新興橋と中橋のふたつ。もうひとつの行方を知りたいのだ。 今回の訪問では、中橋を見るのを忘れていた。いつかまた行ってみなければならない。同時に、縦桁や横桁の寸法も測ってこようと思う。三つの疑問は、なんとか解決してみたいと思っている。
写真で確認。1897年ハンディサイド製の近江鉄道愛知川橋梁の横桁は直線。十条と同じような形らしい。5月に確認してくる。
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