今回は、有名な東京都北区の十条跨線橋だ。何度も歩いてはいるが、カメラを持って行ったのは初めてである。(4/28大きな誤記があったので修正)
もういきなり横桁の写真でいい。 緩やかなRを持ち、中央部が幅広になっているこの横桁が並ぶと、三葉虫の背面部のようにも見える。この部分は車道で、左右の三葉虫の足みたいな部分が歩道のための別桁である。 で、この十条跨線橋の横桁の形は、今回の英国系ポニーワーレントラスの横桁に関心を持つきっかけとなった伊達橋(木曜に見に行くぜ)の横桁とは異なる。異なるのはRの形状と、縦リブの数、位置である。 <参考>(『日本の廃道』47号「伊達橋」by TUKA氏) 横桁の側面を見てみよう。I字形の断面に、長方形の鉄板をつけている。これは、全製造期間内で、相対的に後期のものである(支障の部分も参照)。 また、横桁の間にさらに1本横桁を通し、北側の歩道の支えにしている。南側の歩道はひとつの独立した桁だ。 ついでにピンを見る。下側の格点から。 次いで上側。 支承。 橋梁名が「東十条地蔵坂Bo」とある。また、塗装は1984年6月、すなわちまだ国鉄の時代である。塗料は関西ペイント、施工は株式会社河野塗装店。たぶんこの会社。 ここで見えている横桁で、横桁の構造がわかる。I形鋼のウェブ(Iの縦棒部分)に、鉤状(「型)チャンネルを4本リベット留めし、ウエブに沿ってできたスペースには同じ厚さの鉄板を挟んでいる。 赤い部分がレーシングのない斜材。この部分には引っ張り力がかかる。通常、引っ張り力がかかる部分の斜材は簡易だ。対して圧縮力がかかる部分(ハの字型部分)にはレーシングが施される。中央部3パネル間は、引っ張り力がかかる部分にもレーシングがある。 銘板。コクレーンのものが、北西側(交番前)と南東側にそれぞれついている。 この橋の素性を書く。1895年に製造されたトラス桁であって、実は何線のどこのものであるのかはわからない。わからないが、例の論文に記されているもののうち、1895年以降開通の路線を抜粋する。 ●1896年に開通した路線 ・日本鉄道(金町-松戸)1912年撤去 ・東海道本線(摂津富田-茨木) 1912年撤去 ●1898年 ・東海道本線(西大路-向日町)1912年撤去 ということは、このどちらかの転用の可能性があるといえる。 最後に全景。 なかなか横桁について「これはこうだ。いつからはこうだ」みたいに定義づけることができない。適当だったわけはないと思うのだが。 PR
横浜のみなとみらい21に保存されている「港一号橋梁」「港二号橋梁」「港三号橋梁」のうち、「港三号橋梁」が英国系ポニーワーレントラスである。これらの橋がかかるルートは、下記の地図から分かるとおり、実際に貨物線が通っていたルートである。かつて、そのまま赤煉瓦倉庫の前に通じていたこのルートは、いま、「汽車道」という名称の遊歩道というか公園というか、開放的な空間になっている。線路も改めて(だったと思う)埋め込まれている。
しかし、実際にこの場所で鉄道橋として使われていたのは「港一号橋梁」「港二号橋梁」だけで、「港三号橋梁」は別の地から移設されたもの。そのため、埋め込まれている線路のルートに並行して架けられているのが、上記航空写真を拡大すればおわかりだろう。 港三号橋梁は、ここに据えられるまでに2ヶ所で使用された。 まず、北海道の夕張線夕張川橋梁(紅葉山=現・新夕張-楓間。なお、どちらも後年、移設されている)として1906年に架設され、それが1928年に横浜港の生糸検査所専用線の大岡川橋梁(現在、当時の航空写真が閲覧できないため、場所を示せず)に転用され、1970年にお役ご免になっていた。これを短縮の上、1997年に転用したものが、港三号橋梁である。実際には、この地に来てから、この橋梁を列車が渡ったことはない。 現在は7スパン63フィートだが、大岡川橋梁時代は100フィートであった。そして、大岡川橋梁は、この桁のほか、総武鉄道江戸川橋梁(1907年架設)の2連とあわせた3連であった。先から引用し続けている『明治時代に製作された鉄道用トラス橋の歴史と現状 第2報』(淵上龍雄、小西純一、西野保行)によれば、「1907年製作、製造はブライスウエイト・アンド・カークBraithwaite&Kirk)となっているが、これは総武鉄道の2連(1894年開通、1926年撤去)を指すので、歴史的鋼橋集覧の製造年と異なったり、製作者が書いてなかったりしても矛盾しない。 現在地に移設する際の図面はここにある。 さて、本題の横桁である。こうだ。 直線である。そして、端部にカバープレートがない。下弦材の各パネル間に2本載るというスタイルは変わりがない。 トラス桁の高さは、図面では上下現在中心間で2800mm。ということはもう少し大きいが、9フィート+4~5インチといったところか。また新たなパターンの登場である。歴史的鋼橋集覧には、設計は1874年頃イングランドによる、となっている。 ここは、ピンがよく見える。そして、奇麗に整備されている。 ついでに、レーシング部分を。ボルト止めではあるが、ネジ側はリベットのような丸鍋である。もちろん、プラスマイナスなぞ切っていない。こういうものは、どうやってねじ込むのだろうか。 さて、謎をまたひとつ増やしてしまった。本当にパターン化できない。
引き続き、ポニーワーレントラスの横桁について書く。
引き続き、リストと首っ引きでググったり画像検索したりしている。 ふと、関西本線木津川橋梁にあたった。ポニーワーレンを補強したランガートラスという異形の橋で、つとに有名な物件である。これならば、ネット上に写真が あるだろう、と思ってさがしたら、あった。 ぼうふらオヤ ヂの関西きまぐれ紀行 by TAAさんなんだこれは。また横桁の新パターンじゃないか。まるで古い鉄道用台車の釣り合い梁のような凹字形をしている。この橋は1896年パテントシャフト製ということがわかっているので、ひとつ分類ができた。1896年パテントシャフト製の横桁は、凹字形。 ただし、トラスの高さは12フィート。 残念ながら、これはイングランドの共通設計のポニーワーレントラス(トラスの高さは9フィート)ではないが、ひとつのヒントにはなろうかと思う。滋賀県の近江鉄道の愛知川橋梁も、高さ12フィートである。図面がないのでわからないが、設計活荷重か、橋幅が異なるのかもしれない。 ついでに、木津川橋梁と言えば大阪環状線の斜橋も有名。ググっていたら、これをNゲージ用に作ってしまった人がいた。ブログを読むと、鉄道模型関連商品 メーカーのCASCO(事業停止したWINのウレタン製車両ケースの中敷きを継続販売している会社。WIN製のウレタンは私もかなり持っている)がペー パーでの製作を依頼したものだという。 CASCO のブログ 製 作者のサイト いやはやすごい。
写真もあまりなく、あっても横桁など写っているものはさらに少なく、そもそも考察することに意味があるのかないのかわからないが、『日本の廃道』47号のTUKA氏の記事「伊達橋」(福島県)を見てからどうにも気になり続けているので、軽く調べが及ぶ範囲で調べてみた。対象は、イギリス系(イギリス製ではない)の100フィートポニーワーレントラスの横桁の形状である。
伊達橋のは、こうである。下部が曲線を描いている。『日本の廃道』47号より引用。 この伊達橋が、鉄道黎明期のイギリス系ポニーワーレントラス桁の転用であることは確実だが、どこの何橋が転用されたかはわかっていない。『歴史的鋼橋集覧』は、日本鉄道(いまの東北本線)の名取川橋梁との関連性を指摘している。伊達橋の工事が1916年-1921年の間に行われているのに対し、名取川橋梁(7連)、名取川避溢橋梁(1連)はどちらも1917年に撤去されている。両者、計8連ともに1887年開通であり、伊達橋で使用された8連分(うち2連分に鉄材を継ぎ足して200フィート桁にしあげたのは『日本の廃道』ほかで述べられている通り)と、時期、個数ともにあう。場所も仙台と郡山、この距離感を現代の距離感で考えるのは非常に危険ではあるが、相対的に近いといえるだろう。名取川と阿武隈川の河口同士は10kmほどしか離れていない。水運で運んだのかもしれない。 転用した年度については、ひとつ注意しておきたいことがある。『歴史的鋼橋集覧』に「明治中期のイギリス系ポニーワーントラスを鉄道省から払い下げてもらって」とあるが、これが本当に正確であるのなら、鉄道省は1920年に設置されたものであるから、8連のトラス桁は1917年の撤去後、1920年5月15日の鉄道省発足までどこかで保存し、5月15日以降に払い下げ手続き、そして伊達橋への架橋作業が行われたことになる。しかし、単なる「鉄道院」との書き間違いの可能性も十分にあり、私は「書き間違い説」と取りたい。 さて、伊達橋のトラス構は、見れば見るほど真岡鉄道五行川橋梁や小貝川橋梁と同じだ。いまのところ、100フィートポニーワーレン橋のトラス構部分については製造所や年代についての差異を発見していない。詳細に見ればなにがしかの発見はあるかもしれないが、いまのところはまだ見つけていない。 この100フィートポニーワーレントラスは、鉄道を管轄していた工部省(1870年-1885年)主導で標準設計がなされていた。その設計者はEnglandである。もちろん、国家としてのイギリスのことではなく、人の名である。このEnglandなる人物は、1874年当時の「技師長」であったこと以外は残念ながらわからない。西野・小西・渕上論文『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報)英国系トラス2』によれば とあるので、おおかたポーナル直系のイギリス人なのだろうと推測している。ポーナルは、わが国鉄道黎明期の鉄道の土木工事を統括した人物で、プレートガーダー橋の標準形式などにその名を残している。のちに、ジョン・アレキサンダー・ロウ・ワデルを代表とするアメリカ流の設計に取って代わられてしまうのではあるが。この種のポニーワーレントラスを製造したのは、イギリスのBraithwaite & Kirk(ブレイスウエイト・アンド・カーク)、Cochrane & Co.(コクレーン)、Hamilton's Windsor Ironworks(ハミルトン)、Handyside(ハンディサイド)、Patent Shaft & Axletree(パテントシャフト)のほか、アメリカン・ブリッジ(アメリカ)とハーコート(ドイツ)がある。 話を横桁に戻す。そのイングランドが設計した、東海道本線六郷川橋梁(蒲田-川崎間)の100フィート複線ポニーワーレントラス桁の設計図が『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(土木学会誌第3巻第1号)に残っている。 この六郷川橋梁は1875年ハミルトン製で、1877年開通、1912年撤去である。横桁部分を見ると、曲線ではなく直線状である。しかも、太い部分が長い。 真岡鉄道五行川橋梁は、このとおり直線状である。この桁は歴史的鋼橋集覧によれば1894年、パテントシャフト製。 こちら小貝川橋梁も直線状。歴史的鋼橋集覧によれば1894年、パテントシャフト製。五行川橋梁とともに総武鉄道で使用されていた桁を転用したものと推測している。 秩父鉄道見沼代用水橋は、『鉄道のある風景』(猫が好き♪氏)の写真を見る限り、横桁は曲線状である。この桁は1885年-1890年の間に、イギリスのパテントシャフトで製造されたもの。ということは、 パテントシャフト製の、1890年ころまでに製造された100フィート単線ポニートラスの横桁は曲線状、1894年ころから製造されたものの横桁は直線状である ということだけがわかった。 そのほかにも多数の画像や資料写真を見たが、横桁が曲線を描くものと直線状のものとの差の根拠となる手がかりは掴めなかった。 ネット上を徘徊しても、ポニーワーレントラスの写真は少ない。江ヶ崎跨線橋にしても、プラットトラスの写真は数多あれど、ポニーワーレン部分の写真は少ない。十条の跨線橋にしても、裏側を写したものはない。自分自身が裏側を撮ってこなかったということを恥じつつ、今後に待ちたい。 |
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