英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(10) 油皆洞橋について、後日、現地を訪れた@hetima01さんから、「トラス間は実測で3.8メートル」との情報をいただいた。はてさて、これは鉄道橋としてどうなのか。 英国系100フィートポニーワーレントラスの幅で、寸法が明確なのは次の2橋だけだ。 ●2代目六郷川橋梁(複線)トラス間22フィート(6.706m) 出典:本邦鉄道橋の沿革に就て(久保田 敬一、PDF) ●初代武庫川橋梁(3主構複線)の、片側のトラス間15フィート(4.572m) この英国系ポニーワーレントラスはすべて鉄道橋の転用と考えていいので、元が鉄道サイズだとしても、のちの車両限界は幅3mなので、トラス間3.8mでも成り立つように見えてしまう。 こうして考えると、伊達橋などを測ってくればよかったと後悔することしきりである。橋梁観察は、必ず一度目は見落としがある。困ったものだ。 PR 歴史的鋼橋集覧に記載されている地図は誤っている。 国道418号から一段木曽川に降りたところを走る道に、この油皆洞橋はある。写真は西から東を見ている。ご覧の通り、1.5車線程度の幅しかないので上流川に歩道橋が架けられている。 正面。親柱がきちんとあるが、橋の脇に入れないよう…というか転落防止のために金網がある。 西・上流側「油皆洞橋」。 西・下流側「ゆかいどうはし」。「橋」を濁らないことが多いよなあ。 ポニーワーレントラスの端柱部は、英国式その他大勢と同じ。いずれ、リベットの打ち方なども見比べてみたいとは思うのだが、もう少し数を集めてから。 参考写真。 東側上流側の親柱「油皆洞橋」。 東側下流側は「昭和卄九年十二月竣功」。(表示されない場合:昭和29年十二月竣工) 東側正面。歴史的鋼橋集覧には「主構間隔を縮めてある」とある。ここでもまたかよ!なのだが、1.5車線くらいしかないので、明らかに鉄道用のポニーワーレントラスよりも幅が狭いのに、実測していない。クルマにメジャーは積んであるのに。ひとえに雨のせいにしてしまう。 左右のトラスの幅が詰められたということは、横桁もなんらかの影響を受けているはずだ……。 どうも、横桁の端部を見る限り、端部をぶった切っているようには見えない。まあそうか。トラスの下弦に乗るのだからな。 では裏側を見れば解決するかというと…… まったく近づけない。かなり急な斜面であり、足場などない。幸い、立木が多いので、それにつかまりながら、なんとか見通せる位置に行く。真下に行くことは不可能。なんとか、「曲線型の横桁だな」ということは見えた。 撮影したものをトリミングしてみる。 昨日の見沼代用水橋梁と見比べても、違いはないように見える…? まったくもって謎。近づいて採寸して、他の横桁と比べてようやく云々できる存在。でも、近づけない。 橋台部分はこんなだ。 有名な浜中津橋。詳細はwikipediaがあるので、そちらに任す。さらなる詳細は、土木史研究発表会論文集の1987年6月分にあったはずなのだが、ちょっとリンクが見あたらないのでわかったらリンクすることにする。歴史的鋼橋集覧もぜひ。大阪市のサイトにすらある。 阪急各線が梅田を出て、中津を過ぎて新淀川を渡る直前、車窓左にこの桁が見えるはずだ。写真奥は1926年開通の阪急の新淀川橋梁だ。 水平がおかしいように見えるかも知れないが、画像右に向かって下っているから、これでいい。勾配は1/32。右が梅田方(大阪駅方)、左が新淀川方である。 浜中津橋の下は遊歩道である。もちろん最初からこうだったわけではなく、以前はここは長柄運河という独立した川だった。そのため、ここに架橋が必要だったのだ。 この桁は数奇な運命を辿った桁で、1874年に鉄道が開通した際、単線桁として使用開始された。しかし、複線化を織り込み済みであり、本来の姿は3主構(トラスが3つ、トラスの間に線路が敷かれる)であった。それの、「中央主構+側主構」のみでとりあえずは製造された。煉瓦積み隧道でいえば下駄歯仕上げにしてあるようなものである。 それが、後日複線化され、やがて道路橋に転用された。その際には最初からあった側主構が撤去され、中央主構と追加された側主構だけが転用されたのだ。土木学会をして「撤去の時期が来たら復元保存すべき貴重桁である」と言わしめる存在である。 あとは写真を並べるのみ。 追加された端部の部材。また、裏側をよく見て欲しい。 両サイドの水色のトラスが本来のもので、4本の縦桁は後生に加えられたもの。 床版は、このようトラスの下弦からは浮いている。 親柱1。梅田方・下流側。 親柱2。梅田方・上流側。 親柱3。新淀川方上流。 親柱4。新淀川方下流。 梅田方から。 塗装標記。 斜材の様子。 <参考文献> 冒頭にリンクを貼った各文献。
先に紹介した京葉臨海鉄道 白旗川橋梁と同型の桁がある。
この区間は複線になっており、下り線がポニーワーレントラスになっている。 橋の東側、国道357号の「塩田第一歩道橋」から西を見ると、浜野水門ごしにポニーワーレントラスが見える。それだ。 このトラス桁には近づくことはできない。歴史的鋼橋集覧において、白旗川橋梁と同じように「信越本線犀川橋梁上り線から撤去した鉄道院設計の桁を架設した」ということと、同じスペックが記載されている。 おもしろいのは、その犀川橋梁上り線はこのトラス桁を撤去後、もちろん新しい桁を架けたのだが、その新しい桁も歴史的鋼橋集覧に収録されていることだ。現地の開通は1888年(明治21年)8月15日であり、転用されたポニーワーレントラスは1919年(大正8年)石川島造船所製だ。ということは、このポニーワーレントラスは二代目(以降?)の桁で、いまあるのが三代目(以降?)ということになる。初代の桁がどういうものかはわからないが、おそらく信越本線の史書や絵葉書等に残っているだろう。探してみようと思う。 京葉臨海鉄道には、歴史的鋼橋集覧に掲載されているポニーワーレントラスが2連ある。そのうちのひとつがこれ、白旗川橋梁だ。場所はここ。 この桁は、信越本線犀川橋梁下り線の桁を転用したもので、同じ桁は同じく京葉臨海鉄道の浜野川橋梁(後日書く)にも転用されている。犀川は、上高地から松本に抜ける梓川の下流にして千曲川に合流するまでの名称で、長野県を象徴する河川名のひとつだ。 国道から眺めることができる。 手前(画面下)のは水道橋。そして、この区間の国道の橋は「汐見橋」という。 約100フィートの4パネルのポニープラットトラス。1919年、石川島造船所製。桁下の白旗川はこのすぐ南(上流)で別れ、やがてどちらも暗渠になる。 東側から見る。西側へは立ち入れない。 向こう側に見えるのは、白旗水門。基本的に空いているようだ。 近づいて見る。 支承。 斜材と垂直材は、すべて共通のようだ。100フィートクラスのピン結合ポニーワーレントラスでは、端部と中央部では部材の強度が異なっている(補強の入れ方が異なる)が、この白旗川橋梁では同じのようだ。 注目したいのは横桁の付き方。垂直材とガッチリ結合されている。垂直材から横桁に対しては、三角形のアングル材で結合されている。 画像の上は縦桁、下は下弦材。村田川橋梁と同じく、一部のリベットがボルト留めに置き換えられている。なぜ一部なのかは不明。 少し引いてみる。縦桁。枕木も見て欲しい。村田川橋梁と同じく、凹型を天地逆さまにしたような形状をしており、その下にスペーサー的に木材が挟まっている。木材は圧縮には強い。枕木のような役割にはぴったりだ。 桁の裏にもぐる…のはかなりつらいので、カメラだけ突っ込んで撮影。横桁の存在感というか、この橋の主役は横桁であることがよくわかる。 最後に、東側の踏切から。 この踏切には警報機はない。信号で交通を遮断する。 これだけ近くで貨物列車を見ることができるのは幸せだ。 |
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