12月18・19日と、若狭湾沿岸の鉄道路線に乗ってきた。小浜線と北近畿タンゴ鉄道宮津線、宮福線である。
いくつかの駅に降りた際、高架化された駅はどれも引っ込んでいて、やたら駅前広場が広いことに強い違和感を憶えた。なんとなく、町が嘘くさいのだ。そんな言い方をすると怒られるかな。 そう思ったのは、小松駅、東舞鶴駅、西舞鶴駅、福知山駅。まあ、「引っ込む」理由はなんとなく推測できる。かつては貨物扱い用に、あるいは車両基地的な役割をするために、大きな駅には多数の引き込み線があった。それが、高架化に際して抜本的に整理され、十数本が平行していた線路がわずか数本に縮小された結果、広大な空き地が誕生するのだ。 鉄道は町を分断する。そのため、よく「高架化して、分断された町を取り戻そう」みたいなかけ声と共に高架化が進められるが、実感として、地方都市では高架化されても分断された町が一体化するようには思えない。もともとの集客力が小さいうえに、前述のように高架化の際に駅前が異様に広くなり、それがさらに町の分断感をもたらすような気がするのだ。 その顕著な例として、福知山駅を見てみる。 大きな地図で見る 高架化工事中の衛星写真でも、駅南側は既にロータリーになったり、だだっぴろい土地が遊んでいたりする。そこにはなにがあったのか。35年前、1975年の航空写真を見る。 どうだろう、この駅南側のすごさは。扇形庫とターンテーブルもあるそこは、福知山機関区である。のちに福知山運転所に改組され、さらに移転して現在の福知山電車区となった組織だ。これらの敷地がすべて不要になったため、駅前の広大なスペースができてしまったのだ。 もともと、北側が駅の「正面」であり、街もそちらに発達してた。南側は上の航空写真でもわかるとおり、畑ばかり。それが、現在では南側にも多少の住宅地が出来たが、高架化して1階を自由通路にしても、長年かけて構築された北側の商店街と、新興住宅地である南側の交流が得られるとは思えない。そもそも、南側には駅の出入り口が存在しなかったわけで、そうして形成された街の南北を、高架化と共に馴染ませようとして無理だろう。 こうした事例は、東舞鶴駅と西舞鶴駅にも確認できた。小松駅はこちらの調査不足で断定はできない。興味を持ったらぜひ比較していただきたい。 PR
『鉄道ピクトリアル』2011年1月号を見ていたら、根室本線新富士駅の1967年の写真が掲載されていた。それを見て驚いた。まるで函館本線森駅のように、線路のすぐ脇が海ではないか。現在はこんな状態であり、現地を何度もクルマや列車で訪れている私の認識も、下記のとおりであった。
釧路の工業地帯であり、駅北に日本製紙、南に各社油槽所がある。かつて、東京都の間に近海郵船がカーフェリーを運航していたときは、このすぐ南に着岸していた。地図を拡大すると「近海郵船西港ビル」がある。何度かバイクで利用したが、最後の年、1999年も東京行きに乗船した。 比較は航空写真による。1961年度の1万分の1である。国土変遷アーカイブで表示させたものを切り貼りしている。 続いて1967年の写真。こちらは国土画像情報に掲載されているもの。 わずか6年で、現在とほぼ同じ形にまで埋め立てられている。画像右、新釧路側ににょろにょろしているのは、船が何かを引っ張っているように見えるのだが、なんなのだろうか。 これらを見比べると本当に興味深いのだが、その感じ方は個人個人で異なるだろうから、ここまでとする。 最後に。 「新富士」の駅名の由来はその日本製紙の前身の富士製紙にちなむ。と書くと簡単だが、いささか経緯は複雑である。製紙会社の合従連衡を整理してみる。カッコ内は、この地の製紙工場の名称である。 1887年 富士製紙創業 1888年 前田製紙が創業、この地に工場開設(前田製紙釧路工場) 1920年 富士製紙が前田製紙を吸収(富士製紙釧路工場) 1933年 富士製紙が王子製紙と合併(王子製紙釧路工場) 1949年 王子製紙が3社に分割される。十條製紙創業(十條製紙釧路工場) 1993年 十條製紙が山陽国策パルプと合併、日本製紙となる(日本製紙釧路工場) 製紙会社の統合・分割、工場の統廃合の経緯は、同じ名称を用いた会社があったり似たような名称だったりして本当に複雑なのだが、その流れの中で工場として生きながらえていることに感動する。その工場人生(とでも表現しようか)の後半で、駅の南が埋め立てられて釧路港ができ、オイルターミナルができた。願わくばこのまま地方都市の工業が盛況であらんことを。
田端大橋 山手線/地形散歩(番外編)のつづき。
今回は田端の西側を見た後、線路の西側を南に向かって歩く。 【写真1】名称不明 【写真2】東台橋 高橋俊一氏のサイト「山手線が渡る橋・くぐる橋」の「田端」に掲載されている旧版地形図を見れば、1921年(大正10年)修正版にはこの道路そのものが見られず、1930年(昭和5年)修正版では細い道が見られる。しかし、これだけの幅には見えない。国土変遷アーカイブで1947年(昭和22年)の航空写真を見ると、現在と同じ形になっている。ちょっと間隔は空くが、1921年以降1947年までの間に、この道路が開鑿されたということになろう。 【写真3】 3階の高さのまま、線路際を歩き、駒込方面を見る。隙間に見えるのが新田端大橋。駅は随分急な崖の下にあるものだ。ここらへんの考察も、「山手線が渡る橋・くぐる橋」にある。 上野方向を見る。 【写真4】田端駅南口 【写真5 3階を西日暮里方向へ歩く。この道は、とても山手線に並行する道とは思えない雰囲気で、ガードレールが草に没していたりする。車幅1車線、クルマはけっこう入ってくる。抜け道的に使われている雰囲気。画面奥に向かって高度を下げる。 【写真6】西日暮里駅が見えてきた 【写真7】間之坂架道橋(西から) 日本国有鉄道
1969 KS-18 WT6827-1 (以下不明) 右は ●●
主ゲタ:SM58 ●●●:SMA41 とある。コンクリート橋台には「1982-3」というプレートがある。 今日はここまで……
山手線/地形散歩(2)巣鴨-駒込を過ぎたところの続き。下記地図でいうと【写真6】から。
駒込から築堤沿いに歩いて行くと、中里第一隧道から100mちょっとで山手線、山手貨物線ともに地平に降りてくる。山手線はその高さを維持したまま進み、山手貨物線は堀割となってさらに標高を下げる。行き着く先は中里橋と、山手線唯一の踏切、第二中里踏切だ。 【写真6】中里橋と第二中里踏切 訪れたのが昼間だったので、「開かずの踏切」というわけではない。むしろあいている時間のほうが長い。
日本国有鉄道
活荷重第一種図(?).とく(?)-178 株式会社東京鉄骨橋梁製作所製作 (昭和29年8月) -・- L=● 富士製鉄株式会社 ●● 日本鋼管株式会社 ●●● ●=●● CT-5(?) 塗膜が厚すぎるので読めない部分があるが、「とく-178」というのが正確かどうかはわからない。「とく」は特殊桁を表すのだが、素人目には普通の下路橋に見える。 【写真7】中里橋から田端方向(左の築堤上=山手線、右=山手貨物線) 【写真8】富士見橋から駒込方向(左=山手貨物線、右=山手線) 山手線は右カーブして、崖の上に躍り出ると高架で田端駅に向かう。その際、その高架の下、地平部分を京浜東北線が通っているのもすごい。京浜東北線はそのまま高さを稼ぎ、そのまま地平の高さに出てきた山手貨物線をオーバークロスする。ダイナミック。 大きな地図で見る 山手貨物線がくぐるトンネルの上はJR東日本の社宅。カーブを描いているのが興味深い。 富士見橋を超えると、山手線しか見えない。そこで振り返ったとき、「田端の中里橋付近:謎の坑門?」に書いたものに気がついた。回答を高橋俊一氏のサイト「山手線が渡る橋・くぐる橋」で得たので追記しておいた。 【写真9】 武蔵野台地はこれだけの高低差がある。住宅地の路地を歩くと、崖際に出られる場所がある。見下ろすと、田端跨線線路橋がある。これもすごい角度の斜橋。もはや、この方向に桁をかけていいのかどうか迷うのではないか。そんなことはないか。 【写真10】 つづく。
山手線/地形散歩(1)池袋-巣鴨の続き。
巣鴨から駒込の間は堀割、駒込から築堤、堀割となって田端に降りていく。巣鴨の堀割の中は標高20mほど、駒込は地平~築堤だけれど標高13mほど、田端は標高4mほど。縦断面図は持っているのだが、手元にないのでとりあえずは5m標高メッシュからの読み取り値。 【写真1】染井橋から巣鴨方向(左=山手貨物線、右=山手線) 【写真2】駒込駅を通り過ぎ、南側から振り返る 大きな地図で見る これを見ると、跨線橋の骨組みはそのままに外板等を張り替えただけのようだ。いいね、不用意に全面改築せず、使えるものはそのまま使うという姿勢。 なお、駒込駅は2006年に改装され、駅入り口などが大きく変更された。Googleの衛星写真では、改装前の状態を見ることができる。ストビューは改装後、現地はまだ囲いが残って工事中なので、これらの情報は鵜呑みにしないほうがいい。 【写真3】駒込駅東口の南側と中里道架道橋 ここは自由通路。写真で言うと奥左に改札口がある。どう見ても人道なのに「制限高2.3m」とある。白い天井は鈑桁であり、その橋梁は「中里道架道橋」という名称だ。支間、わずか5.5m。 後日、ホームから撮影した。 LANARKSHIRE STELL Co (LT?←確認できず)D SCOTLAND
SIEMENS MARTIN ACID PROGRESS acid progress。なんだろう。なにを酸で処理するのだろう。 銘板もあるが、塗装でつぶれて読めない。橋梁のメーカーと考えていいのかどうか、銘板が読めないのでわからない。この区間の開業は1903年、基本的に橋梁はまだ輸入に頼っていた時代。水道橋や御茶ノ水のハーコート製の桁は1904年製だ。 LANARKSHIRE STELLについてはこちらに英文の解説がある。興味深い部分だけざっくり訳すと、 #そのホームページのトップサイトはこちら。読んでおいたほうが良さそうだが、まずは足下を固めないと…。とりあえずブックマーク。 また、小倉沙耶さんのサイトによれば、日本の鉄道車両の台枠も製造していたようだし(私はそこらへんの総合的な知識は持ち合わせていない)、検索するとよくヒットするサイト「我が人生の垢」によれば跨線橋の部材としても使われている。 【写真4】中里用水架道橋を北側から サイト「山手線が渡る橋・くぐる橋」では線増にまつわるのではないかと推測している。こちらのサイトには桁転用の面白い仮説が記載されていて、大変におもしろい。 この「中里用水架道橋」は、その名からして、水路を渡る橋だったに違いない(そこらへんの知識も持っていないため、まったく検証できていない)。 【写真5】中里第一隧道を北側から golgodenkaさんより「径間1m以上が橋梁」とのご指摘をいただきました。『鉄道構造物探見』(小野田滋著)に記載されていたということですが、もちろん私も参照している…はずなのですが…(恥 田端まで書くつもりだったが、長くなったのでここで切って、続く。 参考:山手線が渡る橋・くぐる橋 |
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