山手線で新宿から池袋に向かって走ると、新大久保と高田馬場は高架、目白は堀割、池袋は地平、巣鴨は堀割、となっている。なぜこんなことになっているのかというと、西から東(東京湾側)へと延びる武蔵野台地を南北に突っ切る形で線路が敷かれているからである。
目白付近の台地の上は標高約30m強、神田川沿いの谷は標高約10m。標高差は約20mあることになる。目白付近で話を続ければ、それが「目白台」と「その下」、たとえば目白坂などに現る。交通網で言えば、それが高架や堀割を要求する。東京の山の手側は、こうした地形を巧みに利用して鉄道路線や道路の立体交差が組まれている。 例えば田端付近。山手貨物線(湘南新宿ライン)が山手線の下をくぐる部分。 例えば目白通りと明治通りの交差点。 歩けばすぐに実感できる。地図ではなかなかわからないが、5mメッシュ標高データを使用すればすぐにわかる。こんな感じだ。 池袋から田端まで、堀割になったり高架になったりしているが、ほぼ標高は24m前後になっている。堀割部分は周囲より5mほど低く、大塚の高架部分は逆に8mほど高い(正確な数値ではない)。つまり、線路がなるべく平坦になるように、地形を欠き取り、地形を盛り上げていることがわかる。 では、池袋から山手線に沿って歩いてみる。内側、外側はその都度適当だが、跨線道路橋はすべて渡った。写真も全部撮ってあるけれど、冗長になるので一部にとどめておく。 まずは池袋~巣鴨間の拡大図を置く。以下このポストに限り「JR線」と書いた場合は山手線・山手貨物線(湘南新宿ラインが通る線路)を合わせたものとする。必要に応じて固有名称と書き分ける。また、両路線とも複線で、上下線が別れることがないため、4組の線路がある写真に「左=山手線」と書いた場合、左側2組が山手線のこととする。 【写真1】宮仲橋から池袋方向(左=山手貨物線、右=山手線) 左側、山手貨物線のほうが少し高い位置にあり、擁壁はコンクリート。湘南新宿ライン整備のために堀割化されたところで、それまでは地平を走っていた。そのため、擁壁がコンクリートとなっている。 右側、一段低い山手線の擁壁は石垣。谷積みに近いが、目地をモルタルで詰めているようにも見える。 【写真2】大塚駅を池袋方から見る(左=山手線、右=山手貨物線) 【写真3】大塚駅南にある立体交差部分。右が「王子電車跨線線路橋」、左が「大塚架道橋」。 王子電車跨線線路橋:向かって右の都電を跨ぐ部分。 いまいち見えづらいと思うが、カマボコ型の屋根は、JR線のプレートガーダーの部分を切り欠いている。そして、プレートガーダー下部は覆ってある。鳩などが入り込まないようにするためだと推測する。 大塚架道橋:向かって左側、道路を跨ぐ部分。全体像は割愛。 都電側の橋台は白く塗られている。道路側の煉瓦との連続性はないので、この橋台はコンクリート製なのかもしれない(当てずっぽうです)。 【写真4】大塚79号架道橋:都道436号を跨ぐ。北側から。 大塚79号架道橋:南側から桁の裏側。 【写真5】平松架道橋(南から見る) 【写真6】宮下橋から巣鴨駅方面(左=山手線、右=山手貨物線) (続く) 参考資料:山手線が渡る橋・くぐる橋(ものすごく資料性が高いサイトです。さまざまな確認作業を大幅に省略することができました。感謝します。) PR
仕事で、ノースライナーみくに号やらなにやら調べていて、結局私が取材に行くことはできなくなたのだが、そんなことをツイートしていたら何人かの方が反応してくださったり、ブログにアップしていただいたりしたので、ここでは十勝三股の地形について述べたい。
十勝三股は、北海道の帯広市から北北西に約67kmいったところにある、扇状に広がった地域である。その南に周囲は石狩山地に囲まれ、それらの南面から流れ出た水が十勝三股を潤し、音更川となって糠平湖を形成する。音更川は十勝川の支流である。 音更川を遡る形で説明すると、十勝「三股」というとおり、音更川はこの扇状地に入ると三俣地区で三つに別れる。本流は西へ向かい、ニペソツ山の北側の峰まで遡る。北へ向かうのは中の川。東へ向かうのは十四の沢。これらをして「三股」といったのかどうかはわからないが、おそらくそうだろうと思う。 この三股の周囲はぐるりと山に囲まれている。そして、峰に向かってどの方向へも緩い傾斜をもって向かっている。その不思議な地形は、平面の地形図ではなかなか実感できない。このような鳥瞰図をもってして初めて理解できる。 よくぞこんなところまで鉄道を敷いたものだと思う。もともと、北海道の鉄道は開拓の最前線という側面があるので、現代の観点で簡単に判断してはならないのだが、それにしても、と思う。糠平まであったことでさえ驚きなのに、さらに十勝三股まで。もうすぐ三国峠、その向こうは層雲峡、そして上川だ。 十勝三股の扇状地を拡大して真俯瞰するとこんな感じだ。 これだけ広大な土地に生活していた人たちの心はいかばかりか。学校や神社まであったらしい。 十勝三股の北西に、石狩岳がある。20年ほど前、この山に登ろうと思っていろいろと情報を集めていたことがある。「シュナイダー尾根」というコースの名称に惹かれたのだ。なぜこんな奥地にドイツ名(だと思う)が!? しかし、アプローチがどうにも難儀な気がして、断念した。そして他の山に向かった。トムラウシ(テント泊2泊3日)、利尻岳、大雪山(こちらはお手軽に)に行った。いまならレンタカーを借りて…なんて思うが、当時はそんなことは思わなかった。石狩岳は幻の山だった。このエリアは、十勝三股から徒歩で三国峠に向かい、途中で砂利道になったので、そこからヒッチハイクで上川に抜けた。 ところが2年前、廃道の本を作っているときに、nagajis氏から「十石峠を自転車をかついで越えた」と聞いた。まさかまさか。後日、写真を見せてもらった。本当に、十石峠に自転車が写っている。その写真は『廃道ナイト』でも使われたような気がするが、おそらくそのすごさに気づいた人はいないか、いてもごく少数だと思う。まさかまさかの峠越えである。 十勝三股は、もう8年ほど行ってない。いま、猛烈に行きたくなっている。いまこうして地形図を見ていて、置戸に抜ける勝北峠を走ってみたくなった。なぜ、自由に行けた時代に行かなかったのだろう? 知らなかったのかもしれない。 <参考> ・賑やかなりし十勝三股駅界隈(@golgodenkaさん) ・ツイート(@dodoshiryoさん) ・十勝三股あの頃。(編集長敬白) <関連項目> 糠平、昭和24年の20万図と昭和30年の5万図
東陽片岡をイメージしたタイトルになってしまった。
ある本に「東京-大阪間600km」とあった。oioi、600kmってば神戸だよ。新幹線の実キロだって515kmくらいなんだからさ(←ほぼ正確に覚えていたのがちょっと嬉しい)。そう思いながら、では実際には何kmなのか、交通手段による変化はどれくらいあるのか調べてみた。基準は東京駅付近と大阪駅付近である。 ●新幹線…519.2km(東京駅-大阪駅) 東京-新大阪間の実キロは515.4km、新大阪-大阪間の営業キロは3.8km。これを足した。 ●在来線…556.4km(東京駅-大阪駅) ●国道1号…543.1km(日本橋交差点-梅田新道交差点) ●高速道路…515.7km(八重洲IC-梅田IC) 八重洲-谷町-東京-伊勢湾岸-新名神-京滋BP-第二京阪-近畿-西船場-梅田 ●高速道路(未成)…約500km(八重洲IC-梅田IC) 八重洲-高井戸-中央道富士吉田線-(赤石トンネルルート=未成)-小牧-梅田 ごく初期の頃に計画されていた「本来の中央道」のルートが完成していた場合、現在の中央道ルート(東名と比較してもほぼ同じ距離)より約53km短くなる。 (参考:日本の廃道45号『夢幻の道を追う 中央自動車道』byヨッキれん氏) ●徒歩で一直線…420km 山も谷も一直線に、ほぼ真西(255度方向)に、地球の表面を歩いていった距離。最大で標高2100mほどまで上がる。長さに対して高さもあるため、微妙ではあるが、それも勘案した「沿面距離」。山もあるので、山の登りは時速2kmくらいだから、平均して時速3kmとすると140時間。 ●とにかく一直線…404km 山や谷どころか、地球の地面をも無視した距離。東京駅と大阪駅を一直線に最短距離でつなぐ。東京駅から255度の方角に、1.57度で少しずつ下がっていくと、最大で地下2700m地点に達しながら、最短距離で大阪駅に出る。沿面距離での最大標高が2100mほどなので、そことの差は4800mにもなる。それだけ深くもぐっても、地表を這っていくよりも16kmしか短くならない。真っ平らなので時速4kmで歩けるとして101時間。 一直線については、dan杉本氏のカシミール3Dでシミュレートした。 ということは、「東京-大阪間600km」というのは何を持ってしても間違い。最小約400km(ただし実現不可)、最大でも約560km。 改めて認識したのは、新幹線も高速道路も、ほぼ最短距離で結ばれているということだ。新幹線は、もし、山陽新幹線以降の「とにかくトンネル」という考えに従えば、もっと短くなるに違いない。高速道路はICを設置する必要上、ある程度は街への寄り道もあるかと思うが、昭和30年代になってもまだ盛んに議論されていた赤石山脈をぶち抜くルートであれば、現在の豊田から名古屋を南に迂回するルートよりもさらに全長を短くできたはずだ。 ひとつ心残りなのが、東京駅と大阪駅間の大圏航路での距離だ。私の算数の力ではわからないが、上記沿面距離とさほど変わらないという予想はつく。実現不可能ではない方法として最短なのは、これであろう。 生まれ育った地のことについて、実はなにも知らなかったのではないかと思うことが多々ある。小学校の社会で習うことなどたかがしれているのだが、それならなお、高校になってももっと地域のことを学んでおくべきではないかと思う。 小学校三年生のとき『わたしたちの新潟市』という副読本があった。四年生になると『わたしたちのくらしと新潟市』になった。それらには、いわゆる亀田郷の田植えの様子が載っており(田んぼというのは昔はこうだったということがわからないと、妖怪の「泥田坊」なども実感がわかないのではないか)、胸まで泥につかりながらの田植えの映画を何度も見せられた。「排水機場」のことにも触れていたはずだ。 しかし、小学生にとっては「排水機場」など現実感がなく、また、実際の排水機場も、そっからドボドボと水をどこかに流し込むところが日常風景になっているわけでもない。しかし、それらがないと、どこまでも広がる田んぼの風景、といった印象の新潟平野は単なる泥の海になってしまうわけで。そして、それは、新潟市中心部の排水機場だけではなく、新潟平野に広範囲にわたって各種の施策がほどこされているからこそ、維持できているのであって。そこに長い間気づかずにいた自分も不明なのではあるが、道路や鉄道のように人の目に見えない部分にどれだけの労力と資金が投入されているのか、それを把握できている人など専門家しかいないのではないか。こうした大切な事業は、もっともっと積極的に教育すればいいのに。 土木行政においては河川が一番力をもっている、という話があるが、それもむべなるかなと思う。実際に携わる人に話を聞くと、職場内にランクがあるのはおかしいという感覚だろうし、計画を見ると山の上まで砂防ダムを造り続けるようなことがあるらしい。しかし、道路や鉄道がなくても人は生きていけるが、川が氾濫したら、生きていけない。私は単純すぎるだろうか? 名物の平面交差部分、地図では立体交差の別線みたいに見える。衛星写真にもそんなものはない。まあ、衛星写真は数年前のものかもしれないのだが、1月撮影のyoutubeを見ても、やはりない。 地理院の地図はこうだ。 そう思ってキーワードを考えて検索したら、これはHSSTの実験線だったことがわかった。写真も出てきた。 使用された期間はwikipediaによれば2004年までの約13年間。いまなお地図に痕跡を残しているが、地理院と、Yahoo!地図やグーグルマップとは描かれ方が異なるのが特異である。もしかしたら、ネット地図は1万分の1を参考にして作図しているのかもしれない。 |
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