五稜星の先端を切り落としたようなこのロゴは、今はなき大協石油のマーク。いまのコスモ石油につながる元売り会社だ。
といってもいわゆるガソリンスタンドではない。防火壁には「大協ホーム灯油」と書いてある。そして、現役である。ただし、軽トラのタンクにも石油会社のロゴはないので、現在取り扱っているのがどのブランドなのか、あるいはノーブランドなのか、それはわからない。 計量機はカバーがかけられている。仕入れた灯油は地下のタンクに保管し、それを計量機で軽トラのタンク(430kl)に移して各家庭を回るのだろうか。軽トラのタンクの計量機には「2012年9月」のステッカーが貼ってある。 防火壁の裏側。 防火壁をもう一度。 この灯油店は、まもなく廃止となる長野電鉄屋代線の松代駅の近くにある。
***
こちらのサイトに、昭和29年の大協石油のタンクローリーの写真がある。もちろんボンネットだ。 PR
旅に出ることが少なかった頃は、ある程度の「もの」はとっておいた。しかし、毎週末出かけるようになると、「もの」への執着はなくなり、基本的にはなにも残さなくなった。たまに鉄道旅行をすると、その切符だけは保管しておくことにしているけれど。
『ガソリンスタンド・ノート』の松村さんが、思い出の紙片について書いておられたので、私も引っ張り出してみた。1995年2月の九州のものである。 大学卒業を間近に控え、すでにテストもすべて終わり、なにもしなくていい日々を送っていた。アルバイトと、大学のサークルの溜まり場をひやかすこと、そのくり返しだった。 ふと、TT250Rを買って1年3ヶ月なのにまだロングツーリングには行っていないな、と思った。本当は夏に北海道に行くつもりだったけれど、就職試験の関係で行けなかったのだ(当時の出版社は、大手がは5~6月頃、中堅が7~8月頃だった)。林道を走りたくもあり、山にも登りたくもあった。そこで、九州に行くことにした。九州の山は、比較的上のほうまでバイクないしクルマで上がれ、往復4時間もあれば十分な山ばかりだったのだ。登った山は、祖母、傾、大崩、韓国岳だ。 祖母山に登るために、日之影に入った。当時、テントは山の中でやむを得ず使用するものであり、ちゃんと町に降りられるならちゃんと泊まろうと決めていたので、宿を紹介してもらおうと役場に向かった。すると、「ぜひ町長室へ」と言われる。こんな時期の旅人が珍しかったのだろうか。 町長は、梅戸勝恵(ばいど しょうえ)さんといった。聞けば、BMW R100GS-PDに乗っておられるとのこと。執務室には阿蘇をツーリングする梅戸さんの写真が飾ってあった。そんなことで、バイクで訪れた私を招き入れてくれたようだ。なお、そのBMWはこんなバイクである。 梅戸さんは2006年に81歳でお亡くなりになっているが、とすると、1995年には72歳。その年で、PDに乗っているとは! ということは、かなりお若い時分からバイクがお好きだったのだろう。今にして思えば、もっともっとお話を聞いておくべきだった。 その晩は、梅戸さんの紹介で、リフレッシュハウス出羽という多目的施設に泊めていただいた。たしか2000円ちょっとだった気がする。冬の平日ゆえ宿泊は私ひとり。夕食は、近所のおばちゃんが「田舎汁です」といって「だご汁」を持ってきてくれた。大広間に布団を1組だけ敷いて寝た。あまりに広いので、少し心細くなり、電気をつけたまま寝た。とても贅沢な時間と空間だった。 前置きが長くなった。そのときのレシートが上の写真である。まだ定型のレシートにドットインパクトプリンタで印字したもの。三菱石油が多く残っていたのは、個人的に三菱に寄るようにしていたのか、それとも偶然なのかはわからない。IDEXは「新出光」、九州オンリーのブランドだ。左下の、普通のレジのレシートのようなものもスタンドのレシートだ。 どれもリッター120円台。今より少し安いくらいだが、当時はとても値上がりしていたころだった。その前までは、ハイオクでも90円台だったのだ。レシート数枚で、いろいろなことを思い出す。これからは、紙片くらいはとっておこうかと思う。
深川東京モダン館が開催している「江東ドボクマッピング 新観光講座」。先日は「橋編」に行ってきたが、本日、「ガソリンスタンド編」が開催されたので拝聴してきた。全6回とも拝聴したかったのだが、自分の都合もあり、今回が2回目だ。
講師はガソリンスタンド・ノートの松村さん(@g_stand)。なお、今回のイベントに関するツイートはこちらにまとまっている。 「江東ドボクマッピング」ということで、江東区の給油所についてのお話から。 給油所は消防署が管轄しているのだが、訪ねても何の資料も閲覧させてもらえないという。そして、給油所に関する趣味書などあるわけもなく、でも国会図書館に行ったら『東京都ガソリンスタンド現勢』という昭和30年(1955年)に行き当たった。これがamazonで検索できることは傑作だ。買えないけど。 実際に松村さんが目にしているだけでもどんどん姿を消している給油所。話の中に、ぽんぽん都内各地の姿を消した給油所の話が出てくる。きっと、見ていた人たちは、それぞれに記憶の糸をたぐりながら、ああ、あそこは知ってる、という個々の思いを新たにしたことだろう。私はと言えば、そういえば東京駅八重洲口に給油所があって、バイク雑誌の仕事をしていたときはよくそこを使ったなあ。などということを思い出した。 そうしたことをきっかけに、ブランド別といったらいいのか、看板別にいきなり切り込んでいく。JOMO、ENEOS(このふたつはENEOSに統合中)、出光、コスモ、ゼネラル、、ESSO、昭和シェル、SOLATO…。ブランドの架け替えの話。商売を終えてしまう話。そこに見る個人経営者の話。給油所ひとつひとつに、それほどの話があるとは空想だにしなかった。 看板だけではない。給油所の建物の意匠やキャノピー(天蓋)、計量器の土台にも、ブランドごとの特徴があったなどとは、まったく知らなかった。松村氏のサイトを拝見していれば、たしかに「○○(ブランド名)らしい」という記述があるのだが、つい読み流すというか、それを特徴として得心していなかった。こうして口頭で説明されるとものすごく深く納得できる。いままで漫然と見ていたものが、どんどん整理されて、自分の中でタグ付けされていく感じ。これがリアルイベントのおもしろさだ。 松村氏は、これらのブランドごとの特徴を「数を見る」ことで会得しているという。趣味的な教科書があるわけではない。観察眼と、あとは実際の給油所の人の話だという。いわゆるドボクの分野では、その手法によって年代をある程度特定できるが、それと同じことが給油所にもあてはまるという事実。それを見出したということに感動した。自分も精進しなければ。 最後に、美しい給油所を。 美しい。こちらを参照。 下灘駅か! すばらしいお話だった。カルカルのようなハコでもぜひ! 以下は蛇足だ。 私の給油所にまつわる経験を書く。書きたいので書く。 (1) 最初に給油所を意識したのは、保育園の行き帰りだった。行きは母親に自転車で送ってもらい、帰りはひとりでバスで帰ってきた。その、帰りのバス停の前に、この給油所があった。いまもある。外装は変わったが、当時もキャノピーがあった。そして、そうだ、思い出した、ターンテーブルがあったはずだ。…でも、静電気防止のために床を濡らす必要があるとすれば、記憶違いかな? まあ、あったことにして書く。 大きな地図で見る アポロマークは、おそらく1976年頃には意識していた。長らくあの横顔を麒麟麦酒の麒麟と同じテイストだと思っていた。保育園児のころは。 この給油所の特徴は、立体駐車場があることだ。上のGoogleEarthにも写っているが、これは垂直循環式の駐車場で、いつも、クルマが乗ったゴンドラが右から左へスイングしていくところが見えていた。観覧車のようだ、と思っていた。保育園児だったが。ターンテーブルも、立体駐車場の付属設備として機能していたのではないかと思う。 ついでにいうと、バスのディーゼルエンジンの排ガスの匂いが好きだった。まだ、ときどき半流線形のバスボディを見ることができた。まだ車掌が乗っていた名残があり、そこによく入り込んで乗っていた。背面部が丸く、背面のグリルがダイエーのマークのような欠円になっていた。そこからファンが見えた。マフラー端部は丸かった。角型ボディのバスは、マフラー端部が楕円形だった。下らないことを記憶しているものである。 (2) 日石のコウモリマークも幼少の記憶にある。 柏崎に親戚がいた関係で、よく信越本線の列車に乗っていた。柏崎駅には日石の精油所(当時、どういう名称だったかは不明だが、とにかくそういう役割の施設)があったため、タンク車がゴロゴロしていた。そこに、カルテックス+コウモリマークがついていた。もちろん、幼少のこととてコウモリを図案化したなどとは知らず、筋骨隆々の骨人間(矛盾した表現だな)だと思っていた。小学生になって、コウモリマークが「日本」と読めることに気づいた。日石と柏崎の関係は深く、発祥の地は西山油田だったと思うが(尼瀬油田かもしれない)、柏崎駅近くに本社を置いていたことがある。 (3) また、小学生になってからは共同石油のロゴが好きだった。きっかけは鉄道模型だ。KATOがDE10をリリースしたとき、広告写真でタキ43000を引いていた。それからだ。なぜか、長じて東京へ来てバイクに乗っても、近所の共同石油でばかり給油していた。1993年に日鉱共石がジャパンエナジーになり、その後JOMOブランドを使用し始めた。「joy of motors JOMO」というジングルや、新聞の全面広告は記憶にある。その後、1995年以降も時折、共石の看板を掲げた給油所を見ていたが、いつしか見なくなった。 (4) そして先日、廃道撮影の取材で訪れた米沢で、気になる物件があった。しかし、自分のスタンスとして安易に撮影してアップして適当な感想を載せたり、松村さんに「こんなのがありました」とご連絡するのもおこがましく、写真すら撮らなかったが、我慢できないので書く。ここ。 (注;サービス終了につき地図削除) 怪しげな三角地帯。ここは、バイパスの開通により三角地帯になってしまった場所。もともとは「八谷街道」と書いてあるほうが昔からの道筋だ。いまでは西行きの一方通行になっているが、車線幅は2車線分あり、もちろんかつては交互通行だっただろう。いまは、その余った車線は、給油所関係とおぼしきクルマが堂々と駐車している。 Googleのストビューがないのが本当に残念だが、上記の地図を航空写真に切り替えると、セールスコーナーが円筒形をしているのがわかるだろう。個人経営らしく、サイトなどはないのだが、こんな記述はみつけた。私があえて撮らなかった写真も、小さいが、ある。 くだらんこと考えずに、撮って、そこで給油すればよかった。実は夜と朝とのべ3回通過しており、非常に気になったままだ。なお、この給油所、昭和51年(1976年)の航空写真にもきちんと今と同じ形で載っている。ついでに書くと、その右側、羽黒川を渡る「万世橋」はその後、バイパス的に新しい橋に切り替えられ、その航空写真にある橋は「旧橋」として姿をとどめていたが、先週行ったら解体され、新橋への架け替え工事をしていた。 給油所。まだまだ書ける気がする。それだけ、日常的というか、密接に関わるものだったのだろう。またいつか書こう。 |
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