先日、ここに書いた橋梁の設計活荷重と、それをオーバーする事態について、mlit関係者と話をしていて、「あくまで事務方の感覚ですが」として興味深い話を聞いた。それは、
「設計活荷重オーバーは、基準があるわけじゃなくて経験則なんじゃないの?」 ということである。 現場との折衝のある事務方の感覚とすれば、「いままで大丈夫だったからいいよ」的な判断が下されるらしい。大糸線のKS12の桁があっても「いままでDD15入れても大丈夫だったんだから、平気だよ」的な判断。 設計活荷重をオーバーした負荷を構造物に与えた場合、間違いなく構造物はダメージを受ける。しかし、その度合いをどうとらえるかで、構造物をどう使うかが決まってくる。 橋梁は定期的に非破壊検査を受けている。仮に、10年間、毎年毎年設計活荷重をオーバーした使い方をしていても異常がないのならば、それを受け入れることがある。逆に、リスクを恐れる場合は、頑として受け入れない。そのような感覚で運用してるんじゃないの、とのことだった。 もちろん、これはあくまで想像のものであり、実際にはなにか基準があるのかもしれないが、こういう話を聞くとむべなるかなとも思えてしまう。果たしてその実際はどうなのか、引き続き見守っていきたい。 PR
国鉄時代の簡易線と呼ばれる路線は、軸重12tである。軸重を12tに抑えたディーゼル機関車ができず、そうした路線の無煙化はかなり遅れた。もっとも、そうした路線はいわゆるローカル線であり、積極的に無煙化しようとしたのかどうかは怪しい。簡易線とは、下記のような路線である。
・標津線 ・飯山線 ・大糸線 ・小海線 ・日南線 ・大隅線 これらの路線には蒸機機関車ならC12かC56、ディーゼル機関車ならDD16のみが入線した。原則として。というのも、路盤の規格は、通常では枕木の本数や道床の厚さであるから、徐行ならok、みたいな特例がある。それ以外で、簡易線を規定するのは、橋梁の設計活荷重である。基本的に、地面の上に線路がある部分に特例はあっても、橋梁に特例はなかったようだ。 後年になって、地面の上の線路は路盤に手が入り、橋梁には改修が加えられたものがある。また、橋梁は、架け替えの際に、---これはわざわざ規格の低いものを改めて設計せずに、既存のものを流用したからかもしれないが---より大きな設計活荷重の桁の置き換えられたものも多い。 1995年に大糸線は豪雨によりいくつも橋梁が流出するなど甚大な被害を被るが、復旧時に架けられた桁は、なんと設計荷重EA17である。電気機関車の軸距基準で軸重17tの桁。大糸線には大型の機関車が定期的に入線するわけではないのに、この規格である。それでも、DD16が使用されていたのは、そこにあったものをそのまま使い続けたためであろう。冬期は軸重が15.5tになるDD15が入線することはあった、というか多分今もある。 そうした簡易線群のなかで、大糸線の桁を見ると、時代を経るに従い設計活荷重が増大しているのがわかる。すなわち、下記のような変遷だ。 ●戦前は、設計活荷重10t(KS10)~12t(KS12) ・松川橋梁(白馬~信濃森上)1932年。KS12 ・第一下姫川橋梁(小滝-根知)1934年架設、1935開通。KS10 ・土谷川橋梁(南小谷-中土)1934年。KS10とKS12 ・第二姫川橋梁(白馬大池-千国)1935開通。素性不明のKS15桁が1桁混ざる ・親ノ沢橋梁(白馬大池-千国)1935開通。山陽形のKS15桁が1桁混ざる ●戦後は、設計活荷重12t(KS12) ・穂高川橋梁(穂高-有明)1948年架け替え・開通。ハンディサイドのプラットトラスがKS12、前後の鈑桁はKS15 ・第一姫川橋梁(信濃森上-白馬大池)1954年架け替え。アメリカン・ブリッジのプラットトラスがKS15。鈑桁もKS15 ・親の沢陸橋(白馬大池-千国)1955年。KS15。 ・高瀬川橋梁(信濃常盤-南大町)1958年架け替え。パテントシャフトの100ftトラスはKS14(に改造?見なし?)、RC桁はKS16。 ●徐々に増大 ・第3平川橋梁(飯森-白馬)1962年。RC桁。KS14 ・第3姫川橋梁(千国-南小谷)1974年。トラス桁。KS16 ・平川橋梁(飯森-白馬)1984年。RC桁。KS14 ●平成の世 ・災害復旧後の桁(JR西日本エリア)は、EA17 ・架け替え後の桁(JR東日本エリア)は、EA17 これらのことからわかるのは、戦前はKS10、戦後にKS12、後年KS14以上の桁になっているということ。戦前にKS12を用いたり、終戦後にKS15を用いたのは、どこかからの転用桁だったか、共通設計だから過剰品質(?)のものをそのまま利用したのか。そんなところだろう。KS12の桁にKS15がつながっていれば、KS12が優先される。平成の世になってEA17であるのは、やはり設計流用であろう。 ここまで軸重軸重と言ってきたが、入線できる機関車への制限は、軸重によるものだけではない。たしか、全体の重量も問題になるはずである。設計活荷重は、KS15なら1D形蒸機機関車+炭水車(2軸台車書ける2)の重連で、かつ蒸機機関車の動輪の最大活荷重が15tであるものに耐える設計、ということであるが、現実にはそういう形に機関車ばかりではない。そこで、橋梁ごとに、基準を設け、この橋梁ではこの機関車はok、この機関車はダメ、みたいなことの取り決めがあったようである。 軸重なんてのは机上の空論の部分があり、 D51形蒸機機関車のの従台車を2軸化し、「軽軸重化」したのがD61だと大多数の人は解釈している。これで最大軸重が14.3t→13.8tへと軽くはなった。しかし、従台車がでかくなった分、機関車重量は2t増。 ということは、支間が全長を超す橋の上に乗ったとき、桁の両端に架かる荷重は D51よりD61のほうが大きくなっている。こうした矛盾に対応すべく、取り決めがあったようである。「はずである」「ようである」というのは、どこかで読んだのだが、そのソースを忘れたからである。請御容赦。 大糸線に限らず、簡易線の橋は、一度すべてを見てみたいと思っている。そして、小海線にはいまだにDD16しか入らない理由を確かめてみたい。 大糸線の橋梁の活荷重は、上記リンク以外に下記サイトの写真を参考にした。 参考サイト:大糸線Oito Line内 http://www.asahi-net.or.jp/~pb3i-itkr/no3-6.htm http://www.asahi-net.or.jp/~pb3i-itkr/hasi2.htm http://www.asahi-net.or.jp/~pb3i-itkr/hasi3.htm
下田ついでに近くの霊山橋。たぶん霊山寺の近く。
石橋はアーチを描いているというのに、欄干の真っ直ぐさ。石橋だから、鈑桁みたいに欄干が桁となって床版を支えるということなどなく、単なる手すりであるからこれもよしのはずなのだが、なにか違和感がある。 ついでに。 先のエントリ「信用」につながる話。30ポンド砲てのが何なのか、見た人がわかるというのか? これを説明するためには ・30ポンドの意味 ・日本人はポンドに馴染みがないことへの配慮 ・いまの砲は口径で表すのになぜ重さで表すのか ・この大砲がここにある意味 ・これがどこ製か ・それが政治的にどういう意味を持つか ・それが技術史的にどういう意味を持つか ・滑空砲かライフル砲か というようなことを解説せねばなるまいよ、下田市役所殿。ちゃちゃっとググると「カロネード製」とかいう誤った記述も生んでしまっている。人がブログに書き写したりしそうなものほど、きちんと説明しておかねばならない。きちんと説明してあれば、そのまま正しい解釈を人が勝手に広めてくれるが、そうでない今回のような場合、誤った解釈だけが広がっていく。
自家用の隧道、というか元は公のものだったものを私物化したようなものは、その筋の報告に散見される。決して多くはない。
ここに挙げたのは、たぶん自家用なのではないかと思う橋。その根拠は橋の上のモノである。カヘなのか、イスとテーブルがある。カンタンタープが興ざめではある。伊豆の下田市内のものだ。 自宅の前に川があれば、あるいは敷地内に川があれば、自家用の橋は必要だろう。農地の用水路をまたぐ橋などそうだし、丸木橋を結わえただけのようなものは無数にある。軽トラが通れるくらいのものもある。それらに対して、ここにあるものは公の流れの上にあるから(用水路も公には違いなかろうが、それを見る目の数と密度が違うだろう)なんらかの審査の上で架けられたのだろうと勝手に考えている。 ここまで考えて、自家用踏切を思い出し、さらに自家用踏切を設けてもらえない例を思い出した。 飯田線の為栗駅の裏(?)にあるお宅である。どう見ても線路をまたがないと出入りできなさそうだ。しかも、そこには通行禁止の旨の看板まである。 鉄道用地は原則的に鉄道会社のものなので(そうでない場合もある)、この場合はJR東海に分があるのかもしれない。 このお宅は比較的新しいようにも見えるが、建てる際の資材の搬入や建機(柱を立てるのにユニックくらいは必要だろう)はどうしたのだろうか。また放置する謎が増えた。
ちと興味深い。
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