『余部鉄橋物語』(田村喜子著/新潮社)に補足。佐々木葉氏による、この本の補足というか指摘がある。
同書は佐々木氏を「自説を述べるだけ」と描いており、私は氏に大きな不快感を憶えたが、その点について自ら下記のように書いているのだから、まあそうなのだろう。ちょっとこの態度(「楽観的」のあたり)はないんじゃないの、と思う。
なお、佐々木氏葉は、ハーコート製のボーストリングトラスを転用した、長野県のりんどう橋を設計した人だ。詳細はこちら。橋の名前に氏の責任は皆無だろうが、「りんどう橋」という名称は、全国各地にある。もう少しまともな(地域を象徴するかのような)名称はなかったのだろうか。「ふれあい橋」よりはマシか。 そう考えると、新潟の信濃川河口の橋に疑問符がついた。。 ・柳都大橋…「りゅうと」なんて、昔は言わなかった。柳の町であることは言われていたけれど。 ・万代橋…佳字。 ・八千代橋…佳字。 ・昭和大橋…元号。 ・千歳大橋…佳字。 寿命は、千歳大橋<八千代橋<万代橋、だな。 それに引き替え、関屋分水路の橋はすばらしい。 ・新潟大堰橋(大堰そのものの名称) ・浜浦橋(地名) ・堀割橋(地名) ・有明大橋(地名) ・関屋大橋(地名) PR 江東ドボクマッピングのあと、かの有名な八幡橋に行ってきた。 この橋については、ネット上にいろいろな言説がある。曰く、 「日本で初めての鉄橋」 「東京で初めての鉄橋」 「初めての国産鉄橋」……。 ちょっと待て。「弾正橋」として架けられたのが1878年(明治11年)。この時代、既に鉄道も走っている。ということは、鉄橋も既にあったはずだ。そういえば、大阪の浜中津橋は1874年(明治7年)の鉄道開業時の橋梁からの転用である…。 『新版日本の橋』によると、日本最古の鉄橋は長崎の「鉄橋(くろがねばし)」。1868年(慶應4年)。竣功か供用かは不明(以下同)。2番目は翌年の横浜の吉田橋、3番目が大阪の高麗橋。その「鉄橋」は「アーケード国道」こと国道324号にある。場所はここだ。 さてこの八幡橋、文化庁の重文指定には「東京に架けられた最初の鉄橋」とある。それ以外で、公的に「日本初の」という記事はネット上にはなさそうだ。付近にある「来歴」にも「東京市最初の鉄橋」とある。つまりは「日本初」はデマである。 書きたかったのは八幡橋のことではない。すぐ近くに保存されている「新田橋」のことだ。 こんな感じで草に埋もれている。柵の向こう側にあるので、もちろん中には入れない。 このワーレントラス橋は、長手方向に何本か細い棒が渡してある。 その棒の端部はこのように回転可能のようだ。 これを見て、この棒はトラス変形時の修正用だと気づいた。古い客車の床下のトラス棒、アレである。 ターンバックルもあった。 間違いない、これで歪みを調整していたのだろう。 それにしても、1932年開通。その時点で、こんな歪み調整用の棒を持つ橋がなぜ誕生したのか。予算か。町工場が作ったから新しい理論とは無縁だったからか。謎は深まるばかりだ。 深川東京モダン館で表題のイベントが開催されたので申し込んだ。講演は八馬智氏、北海道はじめ各地の橋梁デザインに関わった方だ。講演は2時間を超え、内容は多岐にわたったが、私が感じたことをひとことでいうと「デザインというのは、さまざまな考え方との戦いなのだ」ということ。自分が確たる考え方を持っていないと、デザインはできない。これは、先から引用している『近代日本の橋梁デザイン思想』で述べられている内容とも一致する。 日本語で「デザイン」というと「見た目」と捉えられがちだが、本来の英語ではむしろ「設計」のニュアンスを強く感じる。しかし、術語としての「design」の解釈が私自身非常にあやしいので、ここらへんでとどめておく。 たとえば、こういう例が出た。なぜ、橋台部分と擁壁がこの形になったのか。それを、ここに至るプロセスや他の案も交えて解説があった。視距や心理的負担を考えてのことだという。そのあたりを自分で煮詰めていき、「この案でなければならない」というところへ持ってきて初めて、デザインを提案できるのだと思う。狭苦しい下路トラス橋が嫌われるのもむべなるかな。 「自分のデザイン」というものがないと、他の例について論理的にコメントすることができない。その例がこれだと思う。 この「橋は(というより、長期間、場合によっては100年間以上も使用され続ける土木構造物は、利用者に選択権を与えない/好むと好まざるとに関わらず、そこに存在する」というコメントは、八馬氏が「どこまでがデザインなのか」を明確に定義している証拠だ。 この「かえる橋」は「勘違いのデザイン」の例としてあげられている。これは何度かツーリング中に見たことがある。これを地元の人は数十年、もしかして100年以上見続けなければならないのか。そういうものなのに、こんなデザインでいいのか。そこまで重要でなくても、橋の名称が「ときめき橋」とか「ふれあい橋」でいいのか。つまりはそういうことだ。 八馬氏は「勘違いのデザイン」を、1980年から2000年の間の歴史に位置づけている。全力で納得する。実は「勘違いのデザイン」がなされたのは橋だけではない。鉄道が好きな人なら、国鉄末期に「地方色を出す」という三重目で、地方の車両工場や関係者が「勘違いデザイン」した、珍妙なカラーリングの車両たちを思い出すことができるだろう。「車両」という直方体という特性も、利用者の視点もないままに施された狂気の色。いまでも統一感をまったく欠いた、JR西日本の痛々しい地方色(順次ソリッドカラーに塗り替えられて消滅する運命にはあるが)はその例のひとつになると思う。 八馬氏は、秋田の臨海大橋のデザインも手がけた。欄干、照明、親柱も氏の手になる。特徴的なのは親柱だ。 欄干との間に隙間があり、パイプが柵の役割を果たしている。これは、桁が伸縮する際に親柱と欄干の間隔が変化するのを、パイプが欄干側に刺さるのではなく、スイングすることで変化させないという方法をとるものだ。秋田県に行った際にはぜひチェックしてほしい。 この講演のustはこちら。
新潮社から、なんの脈絡もなく『余部鉄橋物語』が出た。1500円+税。著者は、土木技術者のドキュメントを多数執筆している田村喜子氏だ。私は、藤井松太郎を描いた『剛毅木訥』、田辺朔郎を描いた『北海道浪漫鉄道』など、いくつか拝見している。
有楽町の三省堂書店で、鉄道書コーナーなどを探したがなく、なんと普通の文芸書コーナーにあった。違うだろ。と思ったが、まあいい。前半が「第1部」として初代橋梁のことを、後半が「第2部」として現橋梁のことを書いている。 いろいろと思うところはあった。それは後述するが、この本は「買い」だ。田村氏自身が聞き取った、貴重な証言が多数掲載されている。この本には、この本にしか書いてないことが山ほど盛り込まれている。それがなにか、詳細はぜひお手にとって読んでいただきたいが、次のようなことが事細かに書かれている。 ●初代余部橋梁をPCスパンドレルブレースドアーチ橋で提案した、岡村信三郎に、直接話を聞いた下田英郎にインタビューしている ●初代余部橋梁は、7種の橋が検討された。 ・200フィートトラス。側径間は80フィート鈑桁+築堤 ・4連の200フィートトラス。側径間は80フィートトラス ・450フィートブレースドアーチ。側径間は170フィートアーチ。 ・475フィートカンチレバートラス。張り出し桁は200フィート。側径間は40フィート。 ・2連の25フィートのアーチ。側径間は築堤。 ・40フィート+30フィートの鈑桁+トレッスル橋脚。 ・60フィート+30フィートの鈑桁+トレッスル橋脚(初代余部橋梁) (・これに上記岡村案が加わる) ●2名の初代橋守(塗装担当)のうちの一人、望月保吉の義理の甥(望月の妻が、山西の叔母)にあたる山西岸夫が狂言回し的な役割をになっている。 ●架け替えにあたり、相当な研究がなされたこと。それをあとから卓袱台返ししようとする輩がいたこと。 ●ラーメン橋ではなく、エクストラドーズド橋になった経緯。 私は鉄道雑誌や交通ニュース関連から、そうしたところに掲載された余部橋梁に関することは、たいてい耳に入ってくる。しかし、本書に書いてあるような裏話やエピソードは知らなかった。 「思うところ」 残念なことに、本書は帯にあるキャッチの通り「ノンフィクションノベル」、すなわち小説、作り話(あれ? ノンフィクション?)である。本書の冒頭は、1986年の「みやび」転落事故の場面から始まるが、ここが小説仕立てなのが実に残念だ。亡くなった被害者たちが会話しているのだが、だれがそれを聞いたのだ? こんな小説仕立て部分はフィクションに決まっているのだから、これが入ることで、全体の信憑性が落ちてしまうではないか。 ドキュメント小説というのは、えてして会話が説明調になる。萩原良彦『上越新幹線』(これも新潮社だ)ほどひどくはないにしても(萩原氏の著作は、エッセイ的なものは素晴らしいのだが!)、説明調の会話は、こんな感じだ。 こんなに冗長になってしまう。地の文章で、普通に書けばいいのに。以前に少しだけ触れた、『近代日本の橋梁デザイン思想』ならば、この下線部のようなことにすら出典がつく。逆に、出典がないものは、まったく記述されない。 会話でなくても、余部橋梁を崇拝するような記述がそこかしこに見られ、それこそ「要出典」タグを貼り付けてしまいたくなる。 新橋梁の検討にあたり 橋梁架け替えは、風対策である。初代の鋼橋が老朽化したわけではない。風による遅延を減らすには防風板を設置しなければならないが、そうすると、橋梁の強度が持たない可能性があるためである。その検討の経緯をまとめる。 ・1991 余部鉄橋対策協議会(谷洋一代議士の提案) ・1994 余部鉄橋技術研究会(京大防災研究所 亀田弘行教授が座長)…定時制確保の検討 ・1998 余部鉄橋調査検討会(兵庫県ほか)…技術検討の深化 ・2001 架け替え決定 ・2002 第1回新橋梁検討会 ・2003 第3回新橋梁検討会でPCラーメン橋に決まる ・2004 新橋梁デザインコンペ ・2006 架け替え事業の基本協定書締結(県市町村・JR西日本) ・2010 切り替え完了 この中で、地元もJRも、初代橋梁が、非常に優れた景観として定着していることを理解したうえで、それでもなお交通の途絶を解決するためには架け替えもやむを得ず、という方向で検討をしているときに、感情で物事をひっくり返そうとした人がいる。新橋検討会のメンバーでもあった佐々木葉だ。2004年にもなってから、こんなことを言い出した。 あまりに主観。なぜコンクリート桁橋では魅力がないのだ? その理由が書かれていない。もし煉瓦+ガス灯だったら一も二もなく賛成してしまう人なのではないか。コンクリートは嫌われ者の代名詞的に使われる。明治期の橋梁設計者は「ヨーロッパは石のアーチ橋がたくさんあるから、日本の街の橋はアーチ橋たるべき」みたいに考えた人が多かったのだが、それを彷彿させる。 ものごとには妥協点がある。遅延・運休ゼロにはできないことは自明なのだから、最小限に抑えられるこの案で妥協しなければ、どこで妥協するつもりなのだろう。そして、そうしたことを費用で換算することのばからしさ。「費用対効果」という単語には必ず客観的な判断基準を添えなければならない。「費用」を測るのは数字の多寡だが、「効果」を測るのは結局主観だからな。仕事でも費用対効果費用対効果というバカがいるが、無視している。そういう奴は必ずセンスがない。センスは、もっとも「費用対効果」として測れないものだ。 それまで13年間にわたって検討されてきたことを、まったく聞いていないという愚かさよ。 土木史の教授が、この程度の意見を述べるとは。『鉄道ジャーナル』の投書欄「タブレット」か、『鉄道ファン』の「リーダーズキャブ」か。 土木学会も、同じような申し入れをしているが、「申し入れを踏まえた上で、新橋案を進めようということなら仕方ない」というスタンスである。公共交通機関としての役割を放棄したものに価値を見出そうとしても、その所在地の人々にそっぽを向かれては、文化財の価値も相当に下がろうというものだ。私は、もしこの初代橋梁を文化財と見るなら、地域の意識とセットでなければならないと思う。 (2010年9月25日追記) 『余部鉄橋物語』(田村喜子著/新潮社)追記ほか雑感もご覧ください。 本書の主題 本書で重要なのは、単なる橋の架け替えに、これほどまでに地元が真剣に考えた例があるか、ということだ。地元、とは余部集落、香住町のちの香美町だけでなく、兵庫県や鳥取県も巻き込んで、である。もし、荒川にかかる橋梁が架け替えられるとして、地元の人がなにか言い出すだろうか。保存しろとか。皆無だろう。 ところが、ここでは、橋梁デザインにまで地元が口出しをしている。そして、それを許容する優しさが、事業者側にある。「新橋が開通する前に、歩かせてくれ」という要望にも応える。ここに掲載している写真を撮影したのは5月だが、工事詰め所には、現場の方が書いた壁新聞的なものが貼ってあった。私はこんな人物です、よろしくお願いします、のようなことが書いてあった。こういうものを掲示してまで、地元と交流を深めようという姿勢は希有なものなのではないか、と思っている。 (写真はすべて2010年5月17日撮影)
読み始めてから8週間。ようやく読み終えた大著。
本書は660ページにも及ぶ恐ろしいものである。それゆえ、定価も8600円+税という、およそ本の値段とは思えない設定になっている。そのため私は図書館で借りて読むという行為に出たのだが、これはなんとか入手して、手元においておきたい本だ。 本作りをする者として、本書に対するもっとも大きな不満は書名である。書名は 近代日本の橋梁デザイン思想 三人のエンジニアの生涯と仕事 である。これでは、検索にひっかからないのだ! 現在、商業出版として、書名を決定する際に重要なのは「検索にひっかかるかどうか」だ。最近のビジネス書や実用書がやたら長いタイトルやサブタイトルをつけている理由の一つがこれである。本書の内容からすればたしかにこのタイトルで適切なのだが、これでは、この分野に関心を持つ人をフックしない。田村喜子の『北海道浪漫鉄道』という本が、実は田辺朔郎が神居古潭や狩勝峠を見出す話であるとは思えないので大損(読者を逃すという意味で)をしているのと同じ構図だ。 本書にいう「三人」とは樺島正義、太田圓三、田中豊である、この三人の名で検索したときに、必ずひっかかるようにしなければならない。それゆえ、~恥ずかしながら~私はこの本を知らなかった! できれば、索引にある膨大な人名も検索でひっかかるようにしてほしい。この点に限っては、Googleブックスみたいなものがあればいいのに…と思った。 さて、内容である。本書は、日本の歴史上初めて現れた、橋梁と思想を関連づけて考えることができるエンジニアの分析である。よって、橋のスペック的なものはほとんど現れない。そして、徹底的に資料に基づき、三人の思考がどういうものであったかを調べ上げていく。資料に基づくのは、三人の思考だけではない。時代背景の記述にもすべて注釈がつく。先に前660ページとあげたが、その注釈だけで100ページを超すのだ。 こんなものを読んでいたため、いま読み始めた『余部鉄橋物語』(田村喜子著、新潮社)の「ドキュメント調小説」に強烈な違和感を持つ羽目になってしまったという、大変危険な書物である。 長くなりそうなので今日はここまで。 |
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