いままでこの本の存在は知っていたが、眺めたことはなかった。近所の図書館に、区内で唯一在庫しているのだが、手に取ったこともなかったようだ。たぶんそれは書名だけで判断していたのだろう。
税込み9030円、約650ページという大著。この本を手にしたのは、アメリカン・ブリッジに在籍していたことがある増田淳を検索したら、この本が引っかかったのだ。それで手にしてみて驚いた。サブタイトルにある「三人のエンジニアの生涯と仕事」の三人とは、樺島正義、太田圓三、田中豊なのだ。この三人の名前は、目次まで出てこない。なんという検索性の悪さ! この三人の名前は書名に入れるべき。いま、本のタイトルが長くなっているうえにサブタイトルもやたら固有名詞が入っているが、それは検索でヒットさせるため。amazonなどは、書名・サブタイトルの他にキーワードを登録することができるのだが、そうでない場合、たとえば書店店頭の在庫検索でもヒットさせたい。そういうときに、長ったらしいサブタイトルが威力を発揮する。 この本は、本当に素晴らしい。何が素晴らしいかって、その姿勢だ。著名な論文、そうでない論文、私家版の日記などあらゆるものを参考資料とし、ひとつの観点でひとつのことを語っているそれぞれの文献を俯瞰し、不足している点を挙げ、考察する。 本書が、ひとつの章の中のひとつの節の中で定義・俯瞰する簡単な歴史だけで、そこらの通史並の量がある。そして、その通史の中身個々に、各節で迫 る。膨大な量である。 著者は、人物を採り上げて橋梁史を述べる理由をこう書く。 人々が、プロジェクトX的な話に惹かれる理由もこれだろう。視聴者は自らここまで明確に定義した言葉を持たなくとも、「その人がいたから、それができた」的な話であることはうすうす気がついているだろう。 なぜ、道路橋は意匠を凝らし、鉄道橋は標準設計になったのか。 なぜ、鉄道橋は、イギリス式からアメリカ式になったのか。 なぜ、鉄道橋では採用されなかった時代がかった古い形式の橋が、道路橋では使われたのか。 これらが明快に説明されてゆく。 ひとつだけ、いま気づいている欠点を挙げるとすれば、「クーパーE33荷重」などという言葉が、何の注釈もなく出てくることだ。何か意見や判断を書くときには事細かに注釈が入るのだが、これには入らない。読者を専門家に限っているのかもしれない。すくなくとも、小野田氏『鉄道構造物探見』、そして一連の『土木史研究』が頭に入っていないと、おそろしくつっかえると思う。 本質ではない点でふたつ。これだけの大著なのに、スピンがないのはどうだろう。3本くらいあってもいい。また、樺島や増田が在籍したアメリカン・ブリッジを「アムブリッジ橋梁会社」と書くのは勘弁してほしい。たしかに、アメリカン・ブリッジをアムブリッジとも呼称するし、その所在地も企業城下町らしく「ペンシルベニア州アムブリッジ」であるが、企業名としては、1870年の創業以来「アメリカン・ブリッジ」であり、略称は「am」ではなく「AB(C)」である。そもそも「~ブリッジ橋梁~」って重複してるじゃないか! あああ、引きこもってこの本と首っ引きで、PCにメモったり検索したりしながら1週間くらいすごしたい。 PR
どう分類すればいいのかわからない、モノレールの桁について書く。
6月19日(土)に千葉の三省堂カルチャーステーション千葉において『廃道の魅力を語る』に行った際行きがけの駄賃に千葉都市モノレールに乗ってきた。前週に開催された高架橋脚ファンクラブの千葉都市モノレールに乗るというイベントが非常におもしろそうだった(私は行けなかった)ので、気になっていた。モノレッT買ったし。で、1日フリーきっぷを買って、普通に動物公園前で目を見張ったりしてきた。 あまりに天気がいいので、千城台から歩いたとき、ふと、この鋼桁兼軌道(以下鋼桁)は連続なのかそうでないのか、とかが気になった。曲線もあるし、金属製であるのだからどこかで寒暖による伸縮を吸収しなければならないので、どうなっているのかと思ったのだ。結果から言えば、3径間連続を原則としているように見えた。桁の分割部はこう。 桁は両脇から抱きかかえられるようにして保持され、重力方向に支承がある。写真ではゴムであることしかわからない。その下にローラーがあるのかもしれない。 モノレールは、走行中でも「線路の継ぎ目」に相当する振動はない。桁と桁の間に隙間ができる場合は、両側の桁から三角形の板を突き合わせており、ここを車輪が通過する。 そして、連続桁部分の中間支承はこうだ。 支承がひとつしか載らないので、その部分の鋼桁方向の長さが短い。それ以外に顕著な差異はなさそうだ。 駅のホームでは、この支承を間近で見ることができる。 また、鋼桁は一枚板ではなく、複数の鋼板をつないである。橋脚間に、1:2:1の割合で、「:」の部分に添接板(鋼板をつなぐ板)が見えるので、支間の半分の長さのものを、添接板部分が橋脚部分にあたらないように配置している。 その添接板部分も間近に。 ボルトの多さに目がくらむ。拡大していくと、ずいぶん前に流行った蓮画像にも見えてくる。このボルト類も、大型の油圧トルクレンチで締めていくんだろうな。 これらの写真を見ると、鋼桁の上に手すりがあるのにお気づきだろうか。点検の人が歩くのか。でも、複線のうち片方にしかない。 この写真を見て気づいたのだが、鋼桁には通常サイズのほかに、逆魚腹型のものがある。支間に添接板が三つあるので、スパンが長いのだろうか。魚腹型の意味(剛性を高める)を考えればそうなる。曲線部分用なのかもしれないが、通常の桁をひん曲げただけのような曲線部分用桁もあるのであまり証拠にはならない。 鋼桁および橋脚には、うるさいくらい銘板と塗装標記がついている。 なお、橋脚の通し番号は、駅間ごとに振り直されている。 活荷重なんか書いてくれてたら、ひとつ目から鱗が落ちるのに。 あとはさらっと。 車止め。 分岐器。 というあたりで。 鋼桁については、その頃の専門誌見ればきっと書いてあるな。ちょっと深入りしてみたい。自分への課題としよう。 あ、最後に私的な視点での見所を改めて。 ・栄橋横断橋…アーチ橋が桁を保持する。 ・JRを横断する部分。 ・プレートガーダー橋に分類していいのか、京葉道路横断部分。 これらはグーグルのストリートビューで見ても楽しいです。
クーパー荷重の不思議のつづき。
もはやクーパー荷重の不思議を調べているのか、単なる鉄道ネタを追いかけているのかわからなくなりつつあるが、引き続きクーパー荷重の基準の検証である。 前回のエントリではwikipedia英語版を漁って車軸配置別の製造両数をざっと調べたが、手元の本に全部書いてあったので修正の意味をこめて再掲する。両数の出典は『蒸気機関車のすべて』(久保田博、グランプリ出版)である。この本と著者は国鉄目線で国鉄の黒歴史を賛美しているため、本来の設計のまずさを乗務員の決死の行動や取り扱いで解決することを美談として紹介したりしてどうにも腑に落ちない文脈も多いが、こうした数字は間違いなかろう。と思ったら間違ってるじゃねーか! 同書に「アメリカの鉄道におけるSLの生産量数10万5650両」と題して下記のような表(製造初年は筆者が加筆)がある。しかし、これは生産量数ではなく、「アメリカ国内での使用両数(アメリカの鉄道会社が購入した両数)」だと推測する。前回のエントリに書いたとおり、、1Dは3万3000両製造され、うち1万2000両が輸出されたという記述がwikipediaにある。それを差し引くと久保田氏の数字に近づく。日本人が聞きかじった(と邪推したくなる)記述よりも、アメリカのヲタのフィルタを通して書かれたものを信じたい。久保田博氏が、数字の前提を取り違えて発表してしまったのだということにする。アメリカで製造されたものは、カナダとメキシコにも大量に輸出されるのだ。カナダにはディーゼル機関車メーカーはあるが、メキシコにはない。 「アメリカの鉄道におけるSLの生産量数使用両数10万5650両」 (年号は製造初年。wikipedia英語版を斜め読みして拾ってきたものなので誤ってたらスミマセン) 2B 2万5000両(アメリカン)1831~ 1D 2万1700両(コンソリデーション)1864~ 2C 1万7000両(テンホイラー)1847~ 1C 1万1000両(モーガル)1860~ 1D1 9500両(ミカド)1884~(当初「カルメッツ」、1897より「ミカド」) 2C1 6800両(パシフィック)1900年代~ 2D1 2400両(マウンテン)1911~ 1E1 2200両(サンタフェ)1903~ 2B1 1900両(アトランティック)1900年頃~? 1C+C1 1300両(マレー)1919~ 2D2 1000両(ナイアガラ)1927~ 1C1 1000両(プレーリー)1885~(テンダー機) 1D2 750両(バークシャー)1925~ 1E 700両(デカポッド)1867~ 1D+D1 700両(マレー)1909~ 2C2 500両(ハドソン)1927~ 1E2 450両(テキサス)1919~ 上記の数字には説明したいことが山ほどあるが、それをやると枝のほうが幹より太くなってしまうので必要最小限のことを非常に大雑把に書くだけで我慢する。 ・輸送量の増大に応じて、後年のものは大型化し、それ以前のものを置き換えている(例:2B→1D) ・20世紀に入ると客車が木造から鋼製になり、重量が増大したためより大きな出力が要求された ・アメリカでは1930年代にはすでにディーゼル機関車が製造され始めていた ・大型の車両ほど製造両数が少ないのは、短期間のうちにディーゼル機関車に置き換えられてしまったため そう考えると、クーパー荷重が制定された1894年頃に幅をきかせていた車軸配置は、やはり1Dの機関車だということになる。 20世紀に入ると蒸機機関車の製造両数が減っているが、これは、小型の機関車で軽い列車を牽引するよりも、出力を増大した大型の機関車で重い長い列車を牽引したほうが、人件費が安くなるからであろう。アメリカの蒸機機関車が極端に大型化し、走行装置を2組組み合わせた関節式蒸機機関車(いわゆるビッグボーイやチャレンジャーなど)が開発されたのも、人件費節約のためである。2両の機関車を運用するより1両でまかなえたほうがいい。そして、機関車が超大型化すれば火室内への投炭は人力では不可能であり、ストーカーを使用することになり、これも省力化になる。 遠からず、ディーゼル機関車が爆発的に普及し、1両あたりの出力こそ大型蒸機機関車には及ばないものの、一人で4重連の機関車を運転できるようになれば、やはり人件費がものを言ってくる。その上、20世紀前半には、消耗戦や経営の異常さから、早くもアメリカの鉄道は斜陽化している。これらさまざまな要因が絡み合い、大型蒸機機関車の製造は19世紀の小型のそれよりもずいぶん少なくなる。 そんなこんなで、クーパー荷重からKS荷重は1D+4軸の炭水車、という基準となってしまった。後年、実際の電気機関車の車軸配置に即したEA荷重や、ボギー旅客車に即したM荷重が制定され、ようやく現実を反映したものとなり、ここに私は一安心して筆を擱くというか、PCの場合はどう表現すればいいのだ一体。
KS荷重だのクーパー荷重だの書くくせに、その根本を問うたことがなかった。それらの活荷重は、車軸配置1D+4軸テンダの蒸気機関車が重連で使用される ことを前提としているが、そもそもなぜその車軸配置を基準にしているのか。日本では、「1D+4軸テンダ」は、絶対にメジャーな車軸配置ではないのに。
テンダーの4軸を無視して書けば、車軸配置1Dのアメリカ式呼称は「コンソリデーション」といい、日本では9600形機関車が代表的である。代表的というのは適当に言っているわけではな く、大正時代に、国鉄の機関車として初めて、同一形式として大量生産がなされた車種のひとつであり、784両もが造られ、しかも日本における最後の蒸気機関車になった(=当時の使用状況において、使い勝手が よかった)というものだからである。他の車軸配置1Dの機関車は、テンダーの車軸配置を問わず、10形式計154両である。 ここでテンダーの4軸を無視した報いが来る。その9600形のテンダーは3軸である(初期にはあえて2軸の小型テンダーを連結した車両もあった)。4軸テンダーを備えるのは、 9200形(47両、ボールドウィン製)、9300形(12両、ボールドウィン製)、9400形(12両、アルコ製)の計71両のみである。この少数派の 車軸配置が、1946年に最大となる6000両弱もあった蒸気機関車使用線区における橋梁の活荷重の基準なのである。これは、あきらかにおかしい。もっとも、おかしいと いっても、これら3形式71両のそれぞれの軸距は、これまたクーパー荷重と合致しない。9600形はほぼ一致するが、炭水車の輪軸が1本少ない。 (この図における、エンジンとテンダー間の距離は、元となる形式図から読み取れなかったため、クーパー荷重以外は誤っている可能性があります) さて、ではアメリカでクーパー荷重が考案された1894年という時代を考えよう。wikipedia英語版によれば、車軸配置1D(AAR=アメリカ鉄道 協会の呼称では2-8-0。以下、アメリカでのことは2-8-0と書く)の蒸気機関車はなんと3万3000両も製造され、うち1万2000両が輸出された という。前駆たる2-6-0は1860年代に登場し、この2-8-0はペンシルベニア鉄道(PRR。「アメリカの鉄道の標準」たることを自称していた大鉄 道)にまず登場した。一説に依れば、1866年にリーハイ・アンド・マハノイ鉄道(のちのリーハイ・バレー鉄道、PRRの北東に位置する)が登場させたと いう主張もある(Swengel, F.M., The American Steam Locomotive: Vol.1 , the Evolution of the Steam Locomotive, Midwest Rail Publishing, Davenport, 1967.グーグル・ブックスでも検索できず)。ボールドウィンが提案したこの車軸配置は、当初は導入する鉄道が少なかったが、1875年にPRRが採用 して一気に普及した。従来、4-4-0が引いていた貨物列車の倍の重量の列車が牽引できたためである。 4-4-0はそれまでのアメリカでもっとも成功した車軸配置であり、1872年の時点でボールドウィンが製造する蒸気機関車の60%(年間製造両数は不明 ではあるが、数千のオーダーだろう)であり、かつアメリカ全土で使用されている蒸気機関車の85%を占めていた。一大勢力ではなく圧倒的勢力を誇った車軸 配置であった。この4-4-0にとって変わったのが、2-8-0なのである。 アメリカの機関車は日本と比較することが無意味なほどにバカでかいが、アメリカにおける、車軸配置別の製造両数を簡単に記す。すべてwikipedia英 語版による。 ・4-4-0(2B) 相当な両数があったはず ・4-6-2(2C1) 7000両(北米) ・2-8-0(1D) 3万3000両(うち輸出1万2000両) ・2-8-2(1D1) 1万4000両(うち輸出4500両) ・2-8-4(1D2) 700両 ・4-8-2(2D1) 2200両 ・4-8-4(2D2) 2500両 冒頭の疑問に戻ろう。なぜ1Dを基準にしているのか、という問いに対する答えは、制定当時のアメリカで相当多数の貨物用蒸気機関車がこの車軸配置だったか ら、ということになろう。アメリカの鉄道は基本的に貨物主体であり、それは今でも変わらない。 日本でクーパー荷重が公式に制定されたのは1909年。1Dの機関車はあるにはあったが、まだお試し期間である。過熱式はまだまだ製造できず、飽和式だった頃で、ちょっとこの時期の蒸気機関車の運用事情には疎いのだが、車軸配置C1の2120形(268両、ダブス他)が同一形式としては最多両数だった時代である。 1928年に制定されたKS荷重は、単にクーパー荷重をメトリックに修正しただけだが、その時点で貨物用機関車の主力は1Dの9600形から1D1の D50形に以降しているため、なぜ1Dのまま活荷重を再設定したのか、意味を計りかねる。とはいえ、こういうものは経験則でなされることも多いだろうし (イギリス式橋梁の活荷重の考え方がそうだ)、あるいはこの活荷重を解析する術もなかったのかもしれない。国鉄技術陣の彷徨は大正時代に始まっているが、 こうしたメトリックへの変換時に「前例を踏襲する」ことも含めて、国鉄解体まで尾を引いた技術陣の非常に硬直した、後ろ向きの雰囲気というものを嗅ぎ取ってしまうのは、あながち穿った見方でもあるまいと思っている。 クーパー荷重の解決に続く。 |
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