約1年前、山梨県大月市の国道20号大月橋について『国道20号大月橋(山梨県大月市)ゲルバートラス桁』を書いた。ここには、南から、
・国道20号の大月橋(上路カンチレバートラス) ・JR中央本線 新第二桂川橋梁下り線(上路ワーレントラス) ・JR中央本線 新第二桂川橋梁下り線(上路ワーレントラス) ・(市道?)新大月橋(上路プレートガーター) と、四つの橋が平行してかかっている。大月橋の記事では「興味深い発見」などと書いたが、それは次のものである。 これは桂川の右岸(東側=大月駅側)で写したもの。左端に写ってしまっているものが、国道20号の大月橋。メインで写っているのが中央本線の第二新桂川橋梁2線分。右が、新大月橋。その下、赤い矢印をした部分に橋脚がひとつ、その右、赤い矢印をした部分には橋台が残っているのだ。 これについて、『山さ行がねが』のヨッキれんさんと、写真家の丸田祥三さんにお話ししたら、お二人とも資料や写真をお持ちだった。すごい。今回、それらをお借りできたので、自分が再調査したこともふくめて1年ぶりにここに報告する。 新大月橋は、ここにある。 この橋の真下に橋脚が、そしてその北側に橋台と橋脚の痕跡がある。左岸がわかりやすいので、そちらからいこう。 左の新大月橋の橋台はコンクリート製である。他面左端には橋脚があるのだが、その間にひとつ、背の低い橋脚がある。 その右には、やはり橋台と、石積みの橋脚がある。右側の橋台の延長線上には、橋脚の痕跡として円柱がふたつ、見えている。 新大月橋の上から見ると、右の橋台はこんな感じ。その上、畑になっているが、そこがかつて道路だったのだろうと推測する。その右にも橋台らしき形状をしたものがあるが、その対岸は完全に擁壁になっているので関係があるのかどうかの推測ができない。 橋脚の痕跡を同様に見る。まるでトウモロコシの断面だ。 状況からすると2ヶ所に橋脚の痕跡があるべきだが、もう1ヶ所のあるべき場所にはそれが崩れたとおぼしき石が散乱している。 通常、橋梁が鉄橋される際、「河川を占有していた」橋脚は完全撤去を求められると国交省地方建設局の人に聞いたことがあるのだが、ここは例外、というか「体勢に影響ないからそのままでいいよ」となったのだろうか。 右岸を見る。 左岸は降りられなかったので、至近距離で撮る羽目になり、ちょっと状況がわかりづらいかもしれない。右に画面から欠けているコンクリート製のが新大月橋下の古い橋台、画面中央の石積みのが古い橋台。 別の角度から。橋脚がこの位置にあるのであれば、その上にはどのような橋が架かっていたのだろうか。 橋脚から飛び出す鋼材の角度を考えると上路アーチ橋だろうか。 上路トラス橋や上路カンチレバートラス橋ならば支承を設けるだろうし、ラーメン橋にしても同様か、あるいは鋼材の角度がおかしい。(上路アーチ橋も支承を設けるのではあるが…) 旧旧道(?)の写真を丸田祥三さんからご提供いただいた。1980年の状態をご覧にいれたい。 新大月橋から身を乗り出して撮影されたもので、石積橋脚が完全に残っている。そして、その上部を見ると、ここにかかっていたのはやはり支承を要する桁橋ではなく、アーチ橋ではないかと思えてくる。現・新大月橋の下には1スパン、その隣りに橋脚の痕跡だけ残す橋には3スパンのアーチ橋。 ただ、残念ながら、その確証は得られていない。大月市史等で架橋について見いだせた記事は、わずか下記のもののみである。 大月橋 廣里村字大月、花咲間/桂川/明治十七年架設、経営は県 (北都留郡誌 復刻版 昭和48年(1973年)11月14日発行。底本は大正14年(1925年)刊) 【追記】ヨッキれんさんから続報をいただいた(斜字体部分)ので追記する(4/10夜、追記部分は青字)。 大月橋、「街道調査報告書」によれば、近世にはすでに「駒橋」という名前の板橋が桂川と笹子川の合流付近に架かっていたが、大月宿が出来てから大月橋に名前が変わったとのこと。
私も『大月市史』は何度も読み返したのだが、こうした記述を見逃していたのは「読み取る力」がないことによるものだろう。また、「JSCE橋梁史年表」は、まったくノーチェックだった。いつも見ている『歴史的鋼橋集覧』とセットになっているものなのに。「JSCE橋梁史年表」によれば、慶応2年に(おそらく近世からの位置に)土橋形式の大月橋全長38m幅2.4mが架設されたが、明治3年と明治15年に流出。ちなみに明治13年に明治天皇がこの橋を渡って巡幸している。 「JSCE橋梁史年表」には続いて、明治18年6月に(おそらく今の新大月橋付近に)木鉄上路トラス1スパンの大月橋全長62m、幅5.4mが架設されたとしています。この橋はご存じ「大月市史」のなかにある、明治17年架設の橋のことだと思います。「大月市史」はこの明治17年(or18年?)架設の大月橋について、「はじめてセメントを使用した画期的なものだった」としか書いておりませんです。 また、「JSCE橋梁史年表」で大月橋を拾っていっても、その次は現在の昭和33年架設の国道20号大月橋になります。しかし、郡内における藤村紫朗県令の貴重な遺構ということが分かったので、私も今度実見に行ってみたいと思いました。(以上、ツイッターでのよっきれんさんのツイートを転載) ともあれ、比較的容易に閲覧できる資料としては、明治17年または18年架設の橋、その次が昭和33年架設の橋、ということになる。しかし、現実には、その間に少なくとも2回、道路橋が架けられている。 地図で見てみる。すべての旧版地形図をみたわけではないので、現状、把握しているものを掲げる。 <5万分の1谷村(現在の『都留』。昭和27年8月30日発行・応急修正版)よっきれん氏より> 赤く塗った部分が、当時の国道20号である。いまの大月橋はない。 中央本線はまだ単線の時代。当時の航空写真を見ても、現在と同じルートを通っている。大月駅から西へ、堀割で桂川に至り、渡ってからは若干高い位置を走ってまた堀割になる、というものはいまと変わらない。この区間が複線化されたのは昭和41年(1966年)11月30日である。 現在のもの。 (DAN杉本氏作製のカシミール3Dを使用) 赤い線が国道20号、青い線が、先に記した旧道である。 この青い線で記した旧道は、昭和27年の地図では中央本線を横切っている。現在はその痕跡はなさそうだ。しかし、当時もここは堀割で、踏切とするには不自然である。そのような痕跡はない。もしかしたら道路橋が架かっていたのかもしれないが、それはいま思いついた可能性であり、調査では鉄道線はまったくチェックしていないのが悔やまれる。 昭和23年(1948年)に撮影された国土変遷アーカイブをもとに推測してみる。 (国土変遷アーカイブより加工・転載) 光線が左上からではないので、立体感がよくわからないかもしれない。いま見ているのは画像の左側である。 この画像では、すでに現在の国道20号から駅裏(北側)に行く跨線橋が写っている。 【追記】別の航空写真で見たら、北側に道路橋が2本見えるものがあった(追記部分は青字)。 昭和18年(1943年)に陸軍が撮影したものである。 (国土変遷アーカイブより転載) A…中央本線 B…現・新大月橋のルート C…現・新大月橋の北に残る橋脚跡のルート ではないかと推測する。 また、D地点から線路方向に進む道も、おぼろげながら確認できる。よって、旧版地形図に描かれた道は存在したものと考えられる。踏切か立体交差化はわからない。 新大月橋を見る。 桂川右岸(大月駅側)から。 親柱1。右岸左。「新大月橋」。 親柱2。「志んおゝつきはし」。 親柱3。左岸左。 「新大月橋」。 親柱4。「桂川」。 どこにも竣工年がない。それなのに「新大月橋」である。そして市史にもエピソードの記載がない。国道20号大月橋の開通が1958(昭和33)年12月7日なのだから、それより新しいのかもしれない。となると、橋脚を残す旧道、旧旧道の橋の名前は……? 二度も訪問して謎をまだ残している。どこかに、この桂川を渡る道路橋変遷を把握している本などはないだろうか? PR
東京港臨海大橋(東京ゲートブリッジ)桁架設見学の次の次の作業となる、最終工程・中央径間架設を見学してきた。午前5時10分頃、若洲キャンプ場の前に到着、当然まだ駐車場は開いていないが、警備員さんのはからいで5時20分頃には入れてもらえた。ありがたい。
中に行くと、すでに昨晩からいらしていた方々が数名、構えていた。 周囲はまっくら。前日までに桁吊り上げまでは済ましているので、この状態で待機している。 吊っている箱桁は、長さ108m、幅23.6m、重さ約1600t。海面上約20mの位置だ。 桁には合計16本のワイヤーがかけられている。1本あたり100tの荷重がかかっている計算になる。 写真をよく見ると、桁がブレている。このときにはうっすらと明るくなってきているのだが、それでもシャッタースピードは30秒にした。そのため、起重機船は静止して写っているが、風で揺れてしまう桁はブレている。 「犬が向き合う」と表現される状態の最後の姿。この時点で6時少し前。この直後に起重機船が前進開始。 このころから、少しずつ見学者も増えていており、ついには工事主体、東京港湾事務所も登場。ところが、私たちが撮影していた場所の真下にテントを張るという。画面にかぶられては悲しいので、やむなく場所を移動したが、動画を撮影していた人もいるのでかなり泣きたくなる展開になってしまった。 徐々に前に進む起重機船。既に桁も少し巻き上げられている。 この状態で、海面上70mほどのはず。向こう側のトラス桁の道路上に、ちらほらと人が見え始めた。 少し引くとこんな感じ。 この時点で6時40分頃。ここに写っている人たちの、ざっと3倍はいた。 よくもまあ、これだけの精度で吊り下げた巨大な桁を下ろせるものだと思う。 ここでもう当分動きが亡くなるので、突堤に移動する。 こちらからは近くで見ることができるので、迫力も増す。また、太陽に対して逆光になるので、そうした効果もある。 中央径間の接合部。見事。 突堤の側はこんな。 そしてこんな。これだけの人数がいても、釣り人はほとんどいない。 とりあえずこれで見納めとした。 少し時間を持てあました後に、いよいよ芋煮会がスタート。鍋5つを、竈またはガスコンロにて作る。 醤油味+牛肉と… 味噌味+豚肉。とにかくうまい。 そして、若洲キャンプ場でのくつろぎ方、これがとても楽しかった。バイクの仲間といるようだ。 そこで食べて飲んでで約6時間すごし、ふと振り向けば起重機船はとうに引いていた。 早くこの上を歩いてみたいと思う。
先に紹介した
上淀川橋梁(東海道貨物線) 上淀川橋梁(東海道貨物線) その2 吹田~新大阪間の経路変更は1912年か1913年か 東海道本線上淀川橋梁(上り内外線)(貨物線の桁との比較) 本庄水管橋(新淀川)と新淀川大橋と東海道本線上淀川橋梁(下り内外線) の続き。 東海道本線上淀川橋梁の3複線と、R423新淀川大橋の間にこの歩道橋はある。 「別に歩道橋にしなくても、横断歩道にして、土手に階段つければいいじゃないの」と思うような歩道橋。後述するが、周辺にいくつかある。 この歩道橋、よく見ると鋼製(たぶん)橋脚だ。土手側の橋脚も鋼製だ。 左が橋脚。右は桁裏。 床版こそボルト留めしてあるが、桁はリベット留めだし、鋼製橋脚ももちろんリベット留め。 階段部分もリベット留めでつくられてて、踏み板の裏には数列の補強材がボルト留めしてある。 登ってみる。 『豊崎二之橋』。単なる歩道橋にしては大仰…。 堤防上に達すると、上淀川橋梁がこう見える。 さて、先に「別に歩道橋にしなくても、横断歩道にして、土手に階段つければいいじゃないの」と書いた。では、わざわざ歩道橋にしてある理由とは? 1961年の航空写真を見てみた。 『国土変遷アーカイブ』のこのページより抜粋。黄色い矢印が、この豊崎二之橋である。 わかりづらいと思うが、この豊崎二之橋の下は川になっている。これは長柄運河といい、1967年に埋め立てられてしまったものだ。いまでこそあまり意味のない歩道橋に見えるが、当時は新淀川の堤防に達する立派な橋だったのである。 この水路は、航空写真を東へたどると毛馬閘門に行き着く。毛馬第一閘門の西側に舟溜まりになっているような場所が、長柄運河の痕跡である。 これについてあらかた調べ終わり、別のことで検索していると、またしてもこのすばらしいサイトにあたった。 十三のいま昔を歩こう 最初からこのサイトを見ればよかったよ\(^o^)/ なお、こうした橋がいくつか残っているのだが、不思議な遺構もある。 大きな地図で見る これはなんだろう?
昨日の車止めの下にある桁(豊橋鉄道渥美線 三河田原駅)について、『鉄道ジャーナル』でおなじみの土屋武之さんと、古レールに造詣の深い小倉沙耶さんから下記のようなご指摘をいただいた。
そうか! 渥美線が、三河田原から先、営業キロでいうと2.8km延びていたのは知っていた。昨日のエントリを書く前にも、古い航空写真を何枚か確認したし、現在のGooglemapsも見て「廃線跡がよくわかるな」と思っていたのだ。しかし、迂闊にも、その廃線跡との関連性に気づかなかった。 ということで、昨日のエントリのテーマ、「なんで車止めの下に桁があるのか?」という問いに対しては、「その先に線路があったものを、たまたまそこでぶったぎっただけ」というのが答えになろう。 ただし、旧版地形図を見たわけではないので、その桁の下に何があったのかの特定はできていない。開渠だったと推測するが、ではそれがどこからどこに至る開渠だったのかはわからない。機会があったら九段下で確認してきたいと思う。 豊橋鉄道に乗ってきた。市内線、渥美線とも乗り、それぞれいろいろ興味深かったのだが、渥美線の終点・三河田原駅でおもしろいものを見つけた。 上の写真では線路が4本見えるが、一番手前の線路は画像からはみ出た部分ですぐに終わっていて、それ以外の3線が集約されて1本になり、終わっている。 この画像でいうと、右奥に集約されている。そこに行ってみると… なんですかこれは! なんでこんな部分に桁かましてあるんだ!? 逆から覗く。 不思議だ。 ちょっと引いて。 . 末端部なんだから、いちいち桁かまさなくても、その分、線路を短くすればいいじゃないか! などと感じるのだが、有効長の関係などから車止めまでにこの長さが必要となり、ここに桁をかましてまで長さを延ばしたのではないだろうか。 現在、桁の下は少し凹んだ地面のようにも見えるが、明確に橋台があるところから、ここには開渠があったのだと思う。しかし、1961年の航空写真や1977年の航空写真では確認できなかったので、あくまでも推測である。現在の周辺の道路を見ても、この説を裏付けるものは見いだせなかったが、こうでも考えないとわざわざ橋台を設けてまでの桁の存在理由がない。 以下、おまけ。 上の「引いた画像」の右側は駅利用者の契約駐車場となっている。その看板に驚いた。 「古くさい」からじゃないですよ。木が、看板をくわえ込んでいるのだ。 横から見ると、その異常さがよくわかる。 渥美線は、北関東の郊外電車、という印象の路線。ロングシートだが、運転室ごしに前面展望を眺められるし、15分ヘッドで運転しているから途中下車しても気にならない。都市近郊の路線こそ、途中下車(してないけど)して駅周辺を歩くと面白い。 回答らしきものが。下記エントリもご覧ください。 続・車止めの下にある桁(豊橋鉄道渥美線 三河田原駅) |
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