旧栃尾市の国道290号にかかる人面(ひとづら)橋。またいでいるのは塩谷川という、刈谷田川の支流である。あろうことか、この橋の構造がなんであるかを確認していないのだが、この橋からふたつ、話題がある。一つ目は、この橋の銘板である。
写真は、北から南を見たところ。とくにこの橋は気にも留めず、塩谷川を見たかったのだが、親柱をふと見て驚いた。 左の親柱には「人面橋」「大蔵大臣 田中角栄書」。田中が蔵相を務めたのは1962年7月から1965年6月、第2次池田第2次改造内閣から第1次佐藤内閣までの約3年間だ。 右には「県道長沢栃尾線」。県内には長沢という地名はいくつかあるが、ここではR290のルートから考えると、三条市の長沢だろう。弥彦線の廃止区間の「越後長沢」の長沢だ。「国道 ここまで」も長沢地区だ。この区間が国道に格上げされるのは、1970年4月1日である。こちらの揮毫も田中によるのだろうか? 南側の親柱を見る。 左は「ひとづらばし」、右は「昭和38年2月14日竣功」。昭和38年は1963年、先の田中が蔵相として揮毫した期間にあっている。 田中は、1965年6月に党幹事長に就任する際に大臣を辞してから1971年5月に第3次佐藤改造内閣の通産相就任まで、閣僚ではない。もしその間に橋が完成していたら、この銘板はどうなっていたのだろうか。「自民党幹事長」として揮毫するわけにもいくまい。そういう意味では、タイミングがよかった橋といえるだろう。 護岸工事の考に続く。 現在、知床林道は一般車通行止めだが、かつては知床大橋までは行けた。その先は通行止めだったはずだが、もしずっと行けたら、この橋にいきあたっていたはずだ。この橋はテッパンベツ川にかかるもので、橋台は木材で枠を作って石を詰め、そこにH型鋼を渡している…ように見える。H型鋼の側面にはコンクリートがこびりついているようにも見え、どのような経緯でこうなったのだろうか。 この写真は知床岬へのクルーズ船から撮ったもので、手前にはヒグマが写っている。 そこからカメラを左に振ると、建物がいくつか見える。昆布漁の番屋だろうか。トラッククレーンやタンクローリーも見えるので、先の橋はかなりの重量車でも通行可能ということになる。この番屋の建設資材もあの橋経由だったのだろうか、それとも海上からクレーンで渡したのだろうか。 知床林道の近くまで何度も行きながら、知床大橋まではついに行かなかった。おかしなもので、1992年に岩尾別から羅臼岳に登り、羅臼平で1泊、そのまま硫黄山まで縦走してカムイワッカの湯滝に下山したことがあるので、「おれは知床半島の尾根を歩いたんだ、だからバイクで行けるような場所などわざわざ行かなくていい」などと思っていた。いやまったく、これは間違いだった。行っておけばよかったと大きく後悔している。
約1年前の2012年9月2日、カルカルで『廃道サミット』が開催された。そこでのプレゼン資料を公開する。
橋梁の更新について、簡単にまとめた。まずは道路橋によく使われる形式を、特長とともに紹介。 基本的に、時代が下るほどガーダー橋のスパンが伸び、安価かつドライバーの視界の妨げにならないガーダー橋になっていく。 続いて、橋の更新パターンを。 続いて阿寺橋・阿寺川橋について。 以上、約15分…だっけな。 (関連項目) ・「阿寺渓谷」と書いてある橋 ・阿寺川橋 顛末/『トラック野郎 熱風5000キロ』に捧ぐ 当日の模様はこちらに。 廃道サミットまとめ(2012年9月2日) |
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