都電雑司ヶ谷付近の未成道路と廃道? 東京都市計画道路幹線街路環状第5号線の続き。
3月3日、東京カルチャーカルチャーで開催された『坂サミット』に参加してきた。まもなく発売になる『空から見える東京の道と街づくり』の制作中、衛星画像を眺めていて見つけたところについて話してきた。 黄色い部分が「気になったところ」。画像の中心は都電面影橋電停付近。左右を横切る緑色は神田川、その下の太い道が新目白通り。左上の/型の道は明治通り。右上の\型の道路が目白通り。その上に/型に分岐しているのが不忍通り。右下が早稲田大学。 十数年前かな、突然、早稲田通りと新目白通りを結ぶ4車線道路が完成した。ここだ。 なぜこんなところをつなぐのか、まったく理解できなかった。早稲田通りはそれほどクルマ通りは多くなかったし、新目白通りへの抜け道もたくさんあった。でも、それが目白通り、不忍通りとつながるなら話は別だ。 現地へ行ってみた。といってもいつも目白通りは歩いているのだけれど…。 不忍通りとの交差点。いつのまにか不忍通りが拡幅されていた。 マンションの植え込みはマンションと並行ではなく、道路と並行になっている。新しいとはいえないマンションの植え込みの形が道路計画を反映していると思うと興味深い。 現地。ここ、小布施坂が車道になる。と思っていた、最初は。 下まで下りると、かなり立ち退きが進んでいた。1990年代にこのあたりに住んでいたのだけれど、当時のこのあたりはとくに印象がない。つまり、「普通に民家があった」のだと思う。 振り返ると、「坂」が姿を現していた。ここを道路で駆け上るのか…? そう思って地形に沿って角度を計算すると、10%勾配くらいになる。4車線の幹線道としてはちょっと無茶だろう。かといってここから高架橋で持ち上げるような、景観を台無しにするようなことはないだろう。それならなにかしら話題になっているはずだ。じゃあ、斜面にぶち当たったところでトンネル…? 現地に説明板があった。そこに、トンネルが書かれている。推理があたった。 事前に見ていた文京区の都市計画図(オンラインで閲覧可能)、よく見るとそこにもトンネルが書いてあるじゃないか。また、これを見ると、不忍通りがなぜ拡幅させるのかもわかった。 現地の鳥瞰図をカシミール3D+基盤地図5mメッシュ標高+電子国土2500で作図、加工。こうなるのだな。 そして、不忍通りは向こうに向かって下がっているので、いまの目白台二丁目交差点は「峠」になることになる。だれもそんなことは言わないけれど、新しく峠ができる。そんなことをプレゼンした。 次回はこうした道路が明治初期にどうだったか、などを見ます。 PR
1996年の年末から1997年の年始にかけては、西表島で過ごした。このときはバイクではなく、バックパックだ。12月26日に羽田から石垣に飛び、石垣の港にテント張って1泊し、翌日、高速船で西表島に渡った。
西表島の縦断(山中1泊、ビバーク)などもしたのだけれど、12月30日には原付を借りて島内を半周した。半周というのは、道路は島の外周を、時計でいうと10時から右回りに6時の位置にしかない。そのうち、12時の位置の星の砂キャンプ場に連泊していたので、そこから6時の位置まで半周したのだ。原付は、スナックのようなところが貸してくれた。「警察いないからヘルメットなんかなくてもいいよ」と言っていた。 南端、南風見田の浜。南風見田は、戦時中にはまだマラリアが蔓延しており、波照間から強制疎開させられた人々が80人(と、ある文献にはある)が命を落とした。「勿忘石」もある。そんな話がある傍ら、その砂浜では「沈没した」旅人たちがそこに住んでいた。水のシャワーがあるから、お金さえあれば暮らせるのだ。そこで息絶えた人の白骨があるとも聞いたが、それは事実かどうかわからない。砂浜にある岩からは、カサカサとなにかが動く音がものすごくたくさん聞こえる。近づいて見るとオカヤドカリが何百といた。 こちらは北端、白浜小学校前。別の日だ。ここで県道215号は唐突に終わる。2車線の道路が校門にぶつかって終わるのだ。こういう道路は好きだ。道路としては、校門の横の塀沿いに1車線の道路があり、もう少し先まで行ける。 こちらは徒歩で行った。何もすることがないから散歩でも行くか、というような幸せな日々だった。
1996年8月11日、限定解除後に初めて大型バイクで訪れた北海道。友人と東京発苫小牧行きフェリーに乗り、当然のように船内で知り合った人たちと宴を囲んで翌翌朝に苫小牧に上がった。厚真から林道で夕張に抜け、そして国道452号で北上した。
国道452号は少しだけダートが残っていた。道幅も「整備されたダートの道道」ほどはない。いまもそうだが、行き交うクルマも少ない。バイクの場合、オンロードバイクは基本的にダートを避けるので、行き交うバイクもまた少し少ない。 このバイクは新車で買ったのだが、1万8000kmくらい走ったところで自宅で盗難に遭ってしまった。いま乗っている(そして2012年8月に致命的なトラブルを生じた)バイクは同型だが、2台目である。
廃鉄塔の続き。そのまま東に向かうと、やがて道路は狭くなった。そして、路面に「40高中」のペイントが現れた。
もう20年ほど前に廃止された表示で、ということは、この路面は20年以上前からそのままだということだ。舗装というもの、そして路面のペイントというものが、どれだけもつのかは知らないが、交通量は僅少であろうこの山間部では、これくらいのもちはあるのだということがわかる。 すぐ近くには、バス待合所があった。 1980年頃の公園のトイレのようだ。しかし、外装のタイルはそれほど汚れてもいない。周囲の草もなかなかであり、水道もないためここで野宿するのは気が引けるが、十分な施設だ。 岩見沢市のサイト(PDF)を見ると、ここは「巴公団前」という市営万字線のバス停のようだ。 少し行くと、万字交通センターが現れた。一見、万字線の駅舎の転用かと思ってしまうが、違う。万字線はこの道路よりも北、一段低いところを走っていた。建物の中には市の職員らしき人がいた。 建物脇には踏切の警報機。 倒れている廃線の碑。表側が下になっているため、裏面しかわからない。地震で倒れたのだろうか。 警報機の間から建物裏手に続く階段があり、登っていくと、駅構内かと思うような原っぱがあった。ここは駅の跡地ではないのだが、十分に誤解を招く造りになっている。 万字の集落には入らなかったので、いずれ再訪したい。
座主橋(宮城県)の北詰東側に、こんな標柱があった。
一般県道花山一迫線起点。「一」の部分は錆で読めないが、これで間違いない。 三角柱で、向こう側には「宮城県」とある。…もしかして、ガードレール側の面にもなにか書いてあったのかもしれない…。 これは県道178号で、座主橋のたもとから西へ延びるもの。この県道については、宮城県道時刻表さんのサイトが参考になるだろう。 もう一本。 宮城県栗原郡花山本沢北●前 三七番の二地先の標柱●… 雨が降っていたからといって確認をしなかったのだが、いまそれを後悔している。 |
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