名寄本線のオホーツク海側、旭丘~豊野間にあった藻興部(もおこっぺ)川に架かるプレートガーダーが残っている。国道を走っていてもすぐ気づく。 3径間のプレートガーダー。 路盤も明確に残っている。 下路プレートガーダーなのだが、軌道は中心からズレている。複線型ではもちろんなく、点検用の犬走り(というのだろうか)のスペースにも見えるが、桁の外側に点検用通路があるので、 レールは剥がされているが、枕木は残されている。 銘板。 藻興部川橋梁 設計 旭川鉄道管理局 施工 株式会社北野組 設計荷重 KS-14 基礎 鋼管くい打 Φ=60CM L=25M8本 基礎根入 けた座面から 6M50 着手 昭和56年1月 ?? 昭和56年3月 1981年に架け替えたのか。廃止は1989年。 これが現在のGoogleMapsにおける藻興部川橋梁と周辺。残念ながら地理院地図では1978年の空中写真が「最新」だ。 こちらは地理院地図の1978年の空中写真。たしかに藻興部川橋梁は短い。河川幅も違う。このころ、道路橋を付け替えている。川幅を拡幅したのは、名寄本線の橋梁の着手が1981年なのだから、その後なのだろう。 中日本建設コンサルタントの資料によれば、旧橋は単線のプレートガーダーで12.2m×2連。写真に写る道路橋は13.6m×2連で1978年架け替え。 橋梁の架け替え後、数年で鉄道路線が廃止になる例はほかにもいくつかある。しかし、河川の増水は廃止を待ってくれない。桁だけでも再活用できればいいのにと思ってもそんな都合よくいかないので、やむを得ないとしかいいようがない。 PR 能登半島の能登町南部にある下路プレートガーダー。道路橋の下路鈑桁は、珍しくはないが少数派であることは確か。上路の欄干よりははるかに「ガードレール感」があるが、なにしろ狭い印象になる。 鉄道用鈑桁と異なり、内側のスティフナー(縦方向の補剛材)が下に向かって傾斜している。これだけの大きさがあるなら横桁と一体なのかもしれないが、そうすると今度は数が多すぎる気がする。床版に隠れているのでわからない。こちらは左岸側。 親柱は、左が「昭和三十七年六月架」、右が「中央橋」。左のものは「竣功」「竣工」となっているものがほとんどだが、「架」というのは初めて見た。「架橋」でも「架設」でもなく「架」。 右岸側。 親柱の左は同じく「昭和三十七年六月架」、右は「ちゅうおうはし」。架設年は普通は1ヶ所で、河川名が入るものだが、この橋梁には河川名がない。 *** 2枚目写真の奥に「タクシー」とある。こういう場所でも需要があったのだな。 当然というか、すでに営業はしていなかった。「タクシー」という看板の上には「宇」と羽根を組み合わせたマーク。地名は「鵜川」なのでそれとは無関係だろう。 そのすぐ近くにあった「ドライブイン 銀世界ホテル」。その後、寿司店となり、いまは営業していないようだ。この1.5車線の細い道にドライブインがあったのか。 この地域はかつての鵜川町の中心部と思われるが、観光スポットがある場所でもなさそうだ。国道からも外れている。どういう需要があったのだろうか。 JR福知山線道場駅の東側すぐ、武庫川に架かるプレートガーダーがある。1986年8月の複線電化の新線への切り替えの際に架けられたものだ。『日本鉄道名所6 勾配・曲線の旅 北陸線・関西線・紀勢線』によれば、「第四武庫川橋梁」らしい。現地での表記は確認できず。 写真は北から。プレートガーダーの連続橋。そういえば、プレートガーダーの連続桁は初めて見るかも…? 複線桁で3主桁というのもおもしろい。 写真右下に見えるように、ここが堤防。この高さまでは水が来る可能性がある。そういうわけで、ここ架かる橋は下路になったのだろうけれど、単純な単径間のトラス橋ではない理由はコスト的なことなのか、それとも景観的なことなのか。 * なお、旧線の開業時はA&Pロバーツ製の120フィートトラス桁が架かっており、それが短縮改造されて弥彦線の西川橋梁へと転用されている。(どうも、第三武庫川橋梁と混同している資料もあるらしい) ●関連項目 A&Pロバーツ探訪/西川橋梁(弥彦線) |
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