新潟本町遊郭跡 1958~1967(?)の住宅地図と1980年代の違い(1)の続き。
(クリックすると拡大表示。現代の社会的な基準に照らして、当時商売をしていた家以外をボカした。東交出版社版。パブリックドメイン) いまや休日には1時間に2本しかバスが走らない時間帯もある横七番町通。1980年代は最低でも1時間5本あり、古町からこちらは、郊外の路線のバスが回送される間合い使用もあって(行き先方向幕は「附船町行」ではなく、ある幕とある幕の間、つまり表示していなかった)、けっこうな本数があった。 いまや更地が目立つ通りだが、かつては商店も多かった。江戸文政期には「熊谷小路」として色街もあり、後年、本町遊廓の大門に接する通りだったことは、その理由の一つだろう。『新潟の花町』(藤村誠)によれば、願随時の裏手に貸座敷を集める計画もあったという。その横七番町の、1980年代の姿を書き留めておく。 ●むげん社…幼少時から通った模型店。店舗は2坪くらいだったろうか。戦車や戦艦、ガンダムなど、実に多くのプラモデルや塗料を買った。工作部品も多くそろえていて、ムギ球や電池ボックス、スイッチなどを、店主にアドバイスをもらいながら買った。店主は中学の同級生のおじさん。サイト「失われた模型店」の記述によれば「店主は戦車兵として大陸に従軍したという」。ミリタリーモデルは非常に充実していた。店構えは装テンに小さく「むげん社」とあった。 遠く郊外から通ってくる方もいたと聞いた。鉄道模型も扱っており、アトラスのNの線路や有限会社時代の関水金属の車両をけっこう買った。TOMIYAMA時代のTEEも展示してあった。16番のペーパーモデルもおいてあった。1987~1988年ころ?閉店時にもずっとデッドストックになっていたはずで、それらはどうなったのだろうか。 横七を東に進んだ右側、住所でいえば元祝町に「金星堂」という模型店もあった。こちらはプラモデルの箱絵のような立派な戦艦が描かれた看板があった。ここは中年男性が二人いた。しかし、見に行っても、気に入ったものがないと買わないこともあったぼくら。買わない子供たちに「買わないなら来るな」と言ったことが知られたからか、1980年頃には閉店。閉店後も店舗はそのままあり、カーテンが引かれたショーウインドウには水飲み鳥が残っていた。 ●おおとり劇場/第四銀行本町北支店(現・セブンイレブン) サイト『消えた映画館の記憶』によれば、1956年7月開館、1966年3月頃閉館と、あまりふるわなかったようだ。ここに、斜向かいにあった第四銀行本町北支店が移転する。いまセブンイレブンがあるところだ。かつて第四銀行があったところは、いまの山本時計店。住宅地図を見る前は「本町遊廓の大門の前だから、立派な時計屋があったのだろうか」と思っていたが、全然違った。 ●三九二自転車店(みくに、と読む) ここは「三九二輪店」といったはずだ。後年、対岸の三国自転車店」の隣に移っている。両店は兄弟だと聞いたことがある。容貌は全然違っていたので、正確なところはわからないが、競合店が隣に来るのだからなんらかの関係はあったのだろう。うちはここで自転車を買っていた。高校3年間の通学にも使ったロードマン・コルモも、浪人時代のARAYAのMuddy Fox エキスパートオーバーサイズもここで買った。 ●皆川電工社→電化スーパー共電→そうご電器 共電時代以降しか知らない。「電化スーパー共電」は、初めてパソコンを見た・さわった店。PC6001やMZ80が展示してあった。こんな地域では需要はなかったろうと思う。 ●大阪屋 これはバス停「横七番町二丁目」前にあった洋菓子の大阪屋(販売のみ)とは別だが、その本店のほう。新潟で著名な「大阪屋」は横七番町で創業、この住宅地図の地に移転し、ここに工場を建てたのは公式サイトによれば1957年。ここからさらに移転したのがいつかはわからないが、1980年代にはパチンコ屋「ニュー銀河」で、同級生の家だった。「ニュー」のつかない「銀河」は、上記第四銀行の旧店舗の向かいにある。 PR |
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