かつて、オホーツク海沿いを北上すると、「はたの食堂 ライダー&チャリダー共和国」と書かれた看板が、かなり手前…うっすらとした記憶だけれど、サロマ湖あたりから…建てられていた。それがあったのは渚滑の駅前。
泊まったことはない。初めて北海道に行ったときだけはライダーハウスを当てにしていたので立ち寄ったのだが、のぞいた瞬間の雰囲気で退散してしまった。それは、別に宿が悪いわけではなく、泊まっている客のそぶりだった。 ![]() 2018年8月、ふと看板を見かけたので、向かってみた。これは北側、興部の国道の丁字路の東側にある。 ![]() ところが、地図を頼りに現地に行ったら、跡形もなかった。どうやら2017年に閉店したらしい。ライダーが激減した現代まで続けていたのはほんとうにすごいことだ。今後はストリートビューのアーカイブが貴重な記録として残っていく。 ●関連項目 えさしYOUの思い出 ![]() 秋川にかかる東秋留橋。あきる野ICの下流にある。昭和14年のコンクリート開腹アーチで、当時の構造物が、親柱や高欄に至るまで改変されずに残っている。戦前らしく、人手をかけた(=部材より安い)構造で、並行する2本のアーチに並行して支柱を建て、床版を載せている。 当時は鋼材の節約のために、同じスパンならばコンクリートアーチが架けられていたというのも、架設された時代の背景として留めておきたい。 ![]() アーチの裏を覗く。型枠の板の木目がアーチと直行する方向でびっしりと並ぶ。河川敷には、事実上3基の橋脚があるが、洗掘対策として、付近はコンクリートブロックがびっしりと敷き詰められている。 ![]() ![]() 支柱の薄さ、床版は見えないが高欄がそれを軽快な印象に見せる、美しい橋だ。高欄は、その色や表面の印象、張り出した形から、後付けのようにも見えるが、本体と同時に架設されている。 ![]() 親柱にある「東秋留橋」の、「秋」「橋」ともに異体字だ。特に「秋」は、偏と旁が入れ替わった「秌」になっている。「東秌留槗」。 ![]() この東秋留橋は人道橋である。こちらは秋川と直交するが、下流に架けられた新橋は、秋川を斜めに横断する形だ。その新橋の線形は非常に凝っていて、左岸から来ると、まず左に頭を振ってから右カーブで新橋に入り、橋の上い至ると左カーブになる。急ではないので運転者はとくに気にも留めないだろうが、本来ならば避ける線形だろう。そうしてでもこの橋があるのは、文化的価値があって保存されているからにほかならない。 ![]() 右岸側。写真左端が新橋方向。 ●参考 関東の土木遺産 東秋留橋 ![]() オホーツク海に面する雄武から、中雄武、上雄武と山を越えて西にある、幌内川の支流が集まる少し開けた場所にある上幌内。人家も多かったのだろうが、いまは人の姿が見えない。とはいえ、周囲の畑は営まれているので、人の出入りはある。かつての北隆鉱山の近くと言えば近く。 上幌内という地名は、ここ雄武と、十勝の鹿追にある。 ![]() 道道60号と道道49号の交差点近くに、上幌内郵便局だった建物がある。 ![]() ![]() 道路とはこんな位置関係にある。道路が高くなっているのは、すぐ橋を渡るために嵩上げされたのだろう。 ![]() 裏に回る。窓の面積が大きい。 ![]() 自分が映り込んでいてまったくアレだが、公衆電話室。地域の個人宅に電話は引かれていたのか。映り込んでいてすみません…(加工して消そうとしたのですが、うまくいかないのでやめました…) ![]() 事務室はそのままに。カレンダーは「20日」で止まっている。何年何月か。サイト『学舎の風景』によれば、すぐ近くの上幌内小学校の閉校が平成2年3月末。それから間もない頃かと思ったら、こちらのサイトによれば、廃止は1982年7月1日(=6月末限り?)とのこと。ということは、それから別の施設に転用されるなどしたのだろうな。 ●同日追記
![]() 住み込みだったのか、通いなのか。業務量はどれだけあったのか。室内の様子は、数年前までは何かしらの出入りがあった感じだ。 ![]() 向かいには、上幌内山の里PA。その奥に、上幌内小中学校の跡。校門と教員住宅が残っている。 ![]() 新潟県の信越本線笠島駅の西にある、線路下の狭い通路。名称は「笠島函きょ」。 ![]() これは海側からみたもの。 ![]() 銘板は錆が進行している。陽刻は保たれているが、時間の問題か。 笠島函きょ 設計 日本国有鉄道信濃川工事事務局 施工 清水建設株式会社 設計荷重 KS-18 着手 昭和39年9月10日 しゅん功 昭和40年9月30日 ![]() 梁を見ると、小さなレールが埋め込まれている。時期的に、信越本線複線化工事でこの函渠が作られたのだと思うが、その時に作業に使われていたトロッコかなにかだろうか。 米山までの複線化は昭和43年9月11日。青海川までは1年早く昭和42年6月19日。この函渠の竣功からいささか空くが、そういうものだろうとも思う。 ![]() こちらは山側から。複線化開通時期とはあわないながら、この函渠は複線の路盤造成と同時だということがわかるだろう。梁に飛び出しているのはレールではなくボルトの軸(ネジ山側)。 ![]() 銘板は海側と同じと思われるが、錆による劣化がひどい。 ![]() 1965-9の銘板。 spl.tx 丸田祥三さん |
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